32:奔流・4
歩きながら説明してくれたことを簡単に要約すると、以前からマーケティング部への異動の打診は受けていた。当然それは東日本の本社の事だと思っていたから、了承をしていた。
今回西日本本社への異動(転籍か出向かはまだ決まっていない)になったのは、りょうが西日本(正式には関西)への異動を希望しているという人事資料があったから。
個人の評価シートでの今後の希望欄にも、その旨が書かれていた。
にこりともしないで話し続け、最後にりょうは言った。
「俺は一度も関西方面への異動なんて希望していないけどね」
じゃあどうして突然西日本への異動なんて話になったのだろう。
誰が本来とは全く違う希望を書き入れたんだろう。
「何でそんな事に」
「さあ。その辺は課長が調べてくれるからそのうちわかるよ。恐らく前の課長か佐久間さんだろうね。伊藤さんも知らなかったそうだから」
どくんと、心臓が嫌な音を立てる。
きっと佐久間さんだ。
課長がそんな事をするわけない。社内文書の改ざんなどという自分の立場が危うくなる事なんてしないだろう。
あのロッカーでの「何も知らないと思ったら大間違いよ。全部上手くいくと思わないことね」っていうのは、この事だったのかも……。
でも今のお局には人事権はない。総務に在籍しているけれど、庶務担当というのは形だけ。
体よく飼い殺しされているだけで、実際に総務業務には携わることは無いって信田さんが言っていた。
事務用品やコピー用紙の管理程度しかさせてもらっていないと。
じゃあどうやって?
「誰がやったかなんて、実際にはどうでもいいことなんだ。もう異動は覆らないのだし」
「覆らないの? まだ内示なのに?」
りょうがわたしの頭を撫でて苦笑を浮かべる。
「覆らないよ。本発表の前に本人にだけ通知するのが内示だからね」
説明されなくても、本当はちゃんと知っている。
今まで異動になった人たちもみんなそうだった。ここだけの話なんだけれどって内示の段階で教えてくれる人もいた。そしてその通りに異動になった。
基本的には社内イントラネットを通じての一斉の人事発表は異動になる日の一週間から十日前が慣例だ。
だけれど、異動者は事前に様々な準備が必要になる。だから準備期間として、内示を二~三週間前に行う。
理屈としても、ちゃんとわかっている。
だからこの時期にりょうの人事異動の内示が出たことも、それは決定しているからこそのものだという事も。
「……そうだよね」
行かないでなんて言えない。行かないようにする方法なんてない。
だけど、自分の気持ちが追いつかない。
「でも嫌だよ」
りょうがいなくなるという事実にこみ上げてくる涙を堪えながら小声で言ったのは、りょうの耳には届かなかったかもしれない。
喧騒でお互いの声が届きにくいし、りょうは何も答えなかったから。
手を繋いだまま歩き、駅から電車に乗って、いつものように家に戻ってくる。
その間、何か買って帰るかどうかなどは話したけれど、全然異動のことには触れないままだった。
家に戻っても、その話題に触れないまま。
いつものように交代でシャワーを使って、先に出たほうがテレビを眺めている。
今日は先にシャワーを使ったのがわたしだったから、いつものクセでテレビを点けて、さして興味もないニュース番組を眺める。
どんな事件があったとかを話しているニュースキャスターの声も、事件の分析をしている解説も、全く意識の中には入ってこない。
あんなに眠くなるまで飲んでしまったはずなのに、その酔いは今はもうどこにも無い。
酔ってみた夢ならば良いのに。
悪い夢で、目が覚めたらいつもどおりだったらいいのに。
「飲む?」
シャワーを終えたりょうがルームウェアを着て、缶のカクテル飲料を手にしている。
「うん」
目の前に差し出された缶を手に取ると、ベッドを背もたれがわりにして座っているわたしの横にりょうが座る。
カシュっという缶を開ける音が二つ。
けれど二人ともそれに手をつけることは無く、ローテーブルの上に乗せる。
「今日課長から聞いてから、優実になんて話そうかってずっと考えてた」
「えっ。あ。ごめんなさい。それなのに家にいなくて」
「いいよ。優実には優実の事情があるんだから」
りょうがわたしの頬を撫でる。
「大変だったね」
「うん」
「怖かった?」
「……うん」
「そんな時に傍にいられなくてゴメン」
後悔の混じった表情をするりょうに対して、首を横に振る。
「仕事なんだからしょうがないよ。それに迎えに来てくれたし、今ちゃんと話を聞いてくれてるし」
「ありがとう。でも俺は寝るまで優実が飲みたくなるくらい辛い時には傍にいたかったんだ」
労わる手の動きが優しくて、怖かったという気持ちさえ溶けていくように感じる。
「俺がね、優実のことを好きだってことに気がついたのは、いっつも無表情で仕事しているのに悔しい時や悲しい時に泣きそうなのを我慢している顔を見た時だったんだ。守りたい。俺の腕の中で泣かせたいって思ったんだ」
初めて聞いたりょうの気持ちの馴れ初めにびっくりする。
話す機会が無かったっていうのもあるけれど、そんな風に思っていたなんて考えもしなかった。
「一人で我慢させたくない。だから辛い時には誰よりも傍にいたいんだよ」
「そんなに甘やかしたら……」
言いながら声が震える。
普段は隠している心の脆さを理解してくれる嬉しさと、そしてこれから確実に傍にいられなくなるという事実に涙がこみ上げてくる。
ぽろぽろと零れだした涙をりょうの指先が掬い取り、目尻にキスが降ってくる。零れ落ちる涙は止め処なく、りょうは舌でぺろりと涙を舐めとる。
「泣き虫」
縋るように伸ばした指先がりょうの腕に触れる。
触れた腕の先にある指先が髪を撫でてわたしの体を引き寄せ、涙はりょうのルームウェアに吸い込まれていく。
「りょう以外、誰も泣き虫だなんて言わないもん」
ぎゅっとりょうの背中に腕を回して『泣き虫』を否定すると、頭上にふうっと溜息が落ちてくる。
「俺が泣くようなことばかりしてるのかもね」
自嘲するような声音に、腕の中で首を横に振る。
「ちがうっ、違うっ。わたしは、りょうの前でしか泣かないのっ」
掬い上げるようにわたしの顎を持ち上げるから、泣きはらした顔のままりょうと視線がぶつかる。
「どうして?」
柔らかで落ち着いているけれども、普段よりも幾分低めな声で問われる。
流れる涙はそのままで、ぽたぽたと頬を伝っていく。
「わかんない。わかんないけど、りょうの前じゃなきゃ泣けないのっ」
「……うん」
伝わっていないのがわかる反応に焦り、慌てて言葉を紡ぐ。
「多分りょうが思っているよりもずっとずっとりょうに依存してる。それにりょうには心を預けていいんだって信頼してる。甘やかしてくれるから、泣いてもいいんだって思えるの。それから、それから……」
「もういいよ」
言葉は重なった唇によって遮られる。
幾度も角度を変えて重なるそれは情欲を含んだものではなく、お互いの存在を確かめるかのように、何度も何度も繰り返される。
そのたびに込み上げてくる「好き」という気持ち。
止め処なく溢れてくるそれが伝わるようにと、りょうの体に巻きつけた腕に力を籠める。
見た目よりもずっとしっかりとした体つきだということは、付き合うまで知らなかった。それまでは男の人なのに華奢だなって思ってた。
体温の低いわたしよりも平熱の高いりょうの体はいつだって温かくて、触れ合うと温もりが安心感をくれる。
見た目とか性格とかだけじゃなくって、指先一つ、体温さえも愛しく思う。
「好き」
唇が離れた合間に零れた言葉に、りょうが目を細める。
再び唇を重ね、離れた時に「好きだよ」とりょうが囁く。
その声音が唇をくすぐり、思わずくすぐったさに身を引きそうになるけれど、りょうの腕の中から逃げられるわけもない。逃げる気も無い。
しばらくすると唇が離れていき、りょうの唇がわたしの涙を舐めとる。
「好きだよ。愛している。だけれど、連れて行かないよ」
「……それは?」
「関西には、優実を連れて行かない」




