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Papagena  作者: 来生尚
続編:Long Island Iced Tea
67/99

31:奔流・3

 自然と話の輪が男性と女性とに分かれ、出水さん、田島さん、荒木さんと四人で対お局対策に花を咲かす。

 でもこれといって出来る事なんて無い。

 社内では一人で行動しないこと。なるべく信田さん石川さん『今野さん』とは接触しないようにすること。

 それはお局が流布した酷い噂対策で、またこんな目に合わないようにと考えてくれた結果だ。

 でもわたしが出来る事が無い。何かしなきゃと思うのに。

 みんなに負担ばかり掛けて、迷惑かけて。

「何をしたらいいんでしょう。どうしたらいいんでしょう」

 お酒を飲みながらぽろりと零した本音に、出水さんが飲んでいたカクテルのグラスを置く。

「胸を張っていなさい。あなたは何も間違ったことなどしていない。おどおどしていれば、後ろ暗い事があってそうしているのだと思われるわ。堂々といつもどおりにしていることよ」

「けど」

「罪悪感を感じる? もしもそれが私たちに対してのものならば仕事で返してくれたらいいわ。あなたは間違っていない。絡まれた相手が少々頭がおかしくて権力を持っていたからこうなっただけよ」

 お局に対して容赦のない分析をし、出水さんは私に罪悪感を感じる必要はないと伝えてくれる。

「それでもやっぱり申し訳ないです」

「馬鹿ね。もし私が今あなたの立場にいたとしたら、あなたは何もしないで見ているだけ?」

 もしも出水さんがわたしみたいな目にあっていたら……。考えるまでも無い。

「いいえ。何かしたいと思います」

「でしょう。だから私も何かしたいのよ。させて頂戴な」

「……はい」

 そう言われてしまえば断ることなんて出来ない。

 申し訳なさと嬉しさで、涙がこみ上げてくる。

 そんなわたしを見て、出水さんがぽんっと背中を叩く。

「鬼でいなさい。仕事中は。終わったらいくらだって私たちが話を聞くわ。決して表情を変えず、堂々としていなさい」

「はい」

 にっこりと微笑んで、出水さんは自分のグラスを持ち上げる。

「飲みましょう。加山さんと飲むの、本当に楽しみにしていたのよ」

「はい」

 出水さんと、それから田島さんと荒木さんと。

 普段飲み会でもあまり話さない人たちだけれど、今日はいつもよりも気を遣ってくれているせいなのか話しやすくて、他愛も無い事におしゃべりの花が咲く。

 昨日見たドラマの話。最近出たベスト版のCDの話。

 案外共通の話題が多くて、楽しいお酒はどんどん量が増えていく。

 どの段階で酒量が限界に達したのかわからないけれど、ふいに眠気がやってくる。

 こくりこくりと首が揺れだしたのを見て、荒木さんが青褪めて「しまった」と慌てだす。

「加山さん飲みすぎると寝ちゃうんだった」

「え? そうなの?」

「そうなんですっ。どうしよう。絶対に怒られる。さっき……」

 徐々に遠くに聞こえるようになった会話が途切れ途切れになり、そしていつの間にか意識が途切れる。



 頭上で誰かが話している。

 何人かの声が聞こえるけれど、それが誰の声なのか認識すら出来ない。

 顔を上げなきゃ。

 そう思うけれど、頭が異常に重たい。

 でも、りょうの声がしたような気がして、何とか目を覚まそうと努力する。

 辛うじて少しだけ顔を上げたけれど、目が開かないまま、こくりと首が落ちる。

「無理しなくていいから」

 ふいに鮮明になった声に顔を上げるけれど、まぶたが重たくて開かない。

 嗅ぎなれた香りが鼻腔をくすぐり、とくんと胸が音を立てる。とくとくとくという心音と共に安心感が広がっていく。

 手を伸ばしてりょうに触れると髪を撫でられ、心地よさに再び目を閉じる。

「で、何があったんですか」

 穏便とは言いがたいりょうの口調が気になったけれど、髪を梳いていく指先が気持ちよくて、目を開けることも意識を取り戻す事も放棄する。


「帰るよ」

 再び聞こえてきた声は、柔らかくていつもどおりの口調だった。

 顔を上げて見つめた視線の先のりょうは苦笑を浮かべている。

「よく寝られた?」

「んー。うん。でもまだ眠い」

 くすくすっとりょうが笑う。

「はいはい。今度はちゃんと布団で寝て」

「うーん」

「あとね、一つ言っとくけど、ここ居酒屋だからね」

 りょうの言葉に一気に眠気が覚める。

 がばっと体を起こして、はっとして周囲を見回すと、眠る前と全く変わらない景色で寝る前と同じ顔ぶれが揃っている。

 にやにやっと笑う人たちを前に、顔の温度が急速に上がっていく。

 思わず叫び声を上げてしまい両手で口を覆い隠すけれど、それさえも笑いを誘ったらしく出水さんがくすくすと笑い声を上げる。

「良かったわね、嫉妬深い彼氏が迎えに来てくれて」

「あ……あの、ええっと、その。えー」

 言葉にすらならず、助けを求めるようにりょうを見上げる。

 今気がついたけれど、私服だ。

 一度家に帰った後にここに来た?

「嫉妬深いんでこれ以上彼女の寝顔を見られたくないので、連れて帰りますね」

 あまりに飄々と言うのを、皆は笑い声を上げて受け止める。

 多分パニック状態なのはわたし一人だけだろう。

「荷物は?」

 変わらぬ口調で問われて慌てて鞄を手に取ると、田島さんと目が合う。

 ふふふっと笑みを零したその意味を聞きたくても、怖くて聞けない。寝ている間に何があったんだろう。

 視線に気がついて振り返ると、野村さんが苦笑を浮かべている。

 ああ、来週から寝てしまう前とは違う意味で会社に行き難い。どうしよう。

 わたしの手から鞄を取り、りょうがぽんっとわたしの背を押す。

 見上げると「帰るよ」と短い答えが帰って来る。

 りょうの一挙一動にからかいの声が上がるけれど、りょうは全く気にする素振りも見せない。

 見上げた先にある笑顔は、穏やかだけれどそれだけじゃない感じがする。

 どうしてか今聞いたところで答えてはくれないだろう。

 笑顔の仮面は、りょうが本心を他人に見せない為の仮面なのだから。

「じゃあお疲れさまです」

 りょうが笑顔でいつものメンバーに言うと「おつかれー」という声が重なって帰って来る。

「すみません、お先に失礼します」

 頭を下げて出て行くわたしに、何故か座敷からどっと笑い声があがった。

 寝ている間に、もしかしたら何かやらかしたのかな。一体何があったのだろう。


 居酒屋を出ると、りょうがその指先を絡めるように手を繋ぐ。

「仕事、辞めたい?」

 突然出てきた確信めいた言葉にどきんと胸が跳ねる。

 寝ている間に今日あったことを聞いたんだろう。

 みんなは辞める必要が無いというけれど、いっそ辞めたらラクになるんじゃないかと思う。

 多分りょうはそういうの全部わかっているんだ。

 だからそう聞いてくれるんだろう。

 本当は鬼って言われるほど強い人間じゃないことを、りょうはよく知っている。

「内示が出たんだ」

「え?」

 前の課長が本来希望している部署への異動を打診しているって言っていた。

 それが正式に決まったという事だろう。

 でもどうして今その話を?

「関西に行くことになったよ」

「関西? え? 西日本の本社?」

「そう。西日本本社のマーケティング部」

「……いつ?」

「七月十五日付で」

 くらりと視界が回った。まさか関西への異動になるなんて。

 本社に異動になるのは間違いないだろうと思っていた。でもそれは、東日本の本社であって、勤務地は東京なんだろうなって漠然と思ってた。

 だからりょうには少し負担になってしまうけれど、今の家からだって通えるし、職場が変わっても一緒に暮らすことは変わりないのだと思ってた。

 それなのに、関西だなんて。

「……決定、なの?」

 声が震える。

 りょうが立ち止まってわたしの顔を見る。その顔にはさっきまでの笑顔はない。

「決定。内示だからね。打診じゃない」

「そんな……。転籍? 出向?」

「それは今課長が調整してくれている。出向で済むように」

 言いながらりょうが歩き出す。

 その横顔には表情が無い。

 行かないでなんて言えない。仕事だから、しょうがないこと。 

 わかっているけれど、でも……。

 視界は涙で曇っていく。

 繋がる手から伝わる体温も、今は心を癒してくれはしない。

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