30:奔流・2
少し話したいという田島さんに連れられてきたのは、いつものメンバーで愛用している居酒屋。
その奥まった座敷には石川さんや信田さんを始めとする見知った顔が待っている。
「ゆう? どうした?」
「話があるんで連れてきました。すみません。一件電話してくるんでちょっと席外します」
口早に田島さんが理由を説明して、靴も脱がずに踵を返して出て行く。
「何かあったのか?」
「えっと……」
言うべきかどうか悩んだけれど、行かないと言っていた飲み会に来たのだから、来ることになった理由を説明しないわけにはいかない。
恐らく誤魔化しても信田さんは見逃してはくれないだろう。
りょうがいない時にわたしが飲み会に行く事をりょうが快く思っていないことを、信田さんは本人から聞いて知っている。
「実は」
言いにくかったけれど、ロッカールームであったことを信田さんと石川さんに話した。
二人に話していると田島さんが戻ってきて、話を補足してくれる。
他の社員さんたちも会話に混ざり、気心のおけるメンバーに事の顛末を話す。
話しながら思い出すと恐怖感でいっぱいになるけれど、そのたびに信田さんが「大丈夫だよ」と言ってくれたから、最後まで話しきる事が出来た。
絡んできた相手が誰なのか、石川さんを筆頭にしきりに聞きたがる人はいたけれど、田島さんはがんとして口を割らなかった。
それはロッカールームで啖呵を切った相手との義理を果たしているのだろう。
次はなくても今は話さないのだと、その横顔に感じる。
だからわたしも誰にされたのかは話さなかった。
丁度話が終わった頃に、担当ミーティングで遅れていた二担の人たちがやってくる。
珍しくその中には出水さんの姿が混ざっている。
「ご一緒させていただいても構わないかしら」
仕事中の口調と同じだけれど少し鬼指数の下がった声で聞いた出水さんに、皆手招きする。
ただ一人だけ、野村さんが強張った顔をしていたけれど。
出水さんや荒木さんが加わって、ロッカールーム事件(既にみんなはそう呼び始めている)の話をもう一度二人に話す。
一度説明した事なので、自分の中では整理が付いて、さっきよりは淡々と話すことが出来たと思う。
けれど出水さんは眉を顰めてわたしを見る。
「……泣きたいなら泣いてもいいのよ」
出水さんにそんな風に言われるほど酷い顔をしているのだろうか。
咄嗟に鏡を見ることは出来ないけれど、別に涙を我慢しているつもりもないし、声が震えたりもしていないのに。
「大丈夫です」
そう返したわたしに出水さんは「しょうがないわね」とだけ零す。
「多分、今日の事件の背後には佐久間さんがいると思います」
一端話が途切れたところで今度は出水さんが、この間のロッカーお局遭遇事件(命名野村くん)について話し出す。
言いがかりをつけられたけれど、きうちゃんのお父さんの名前を出して牽制したことも含めて。
全て聞き終えると、座敷の中には溜息が広がっていく。
誰かが「せーの」と言ったわけでもないのに、ほぼ一斉に溜息を吐き出したものだから、座敷は一気に重たい空気に支配される。
それをもたらしているのが自分なのかと思うと、本当に申し訳ない気持ちになる。
出水さんにも田島さんにも甘えるように頼ってしまって、迷惑をかけて、もしもわたしが職場にいなかったらこんな面倒は起きなかったのに。
「大人しくしているはずはないだろうと思ったけれど、保身に長けた人の考えそうな事だね」
信田さんが重たい空気を気にせずに口を開く。
「自分の手をいかに汚さずに加山さんを追い込むか。こういう姑息な手をよくもまあ考え付くものだよ」
普段あまり人の好き嫌いを表に出さない信田さんなのに、言葉には無数の棘が刺さっている。
「俺が加山さんの面倒見るのがおかしい? それを色目を使っただのって平気で言えるあの人のほうがおかしいでしょう」
決して苛立ってはいないのだけれども、信田さんが不快に思っているということは伝わってきて、お世話になっている信田さんまで巻き込んでしまった事に後悔する。
わたしがりょうを諦めればこんな風にならなかったのに。
でも、諦めることなんて出来ないし。
それにまたロッカーでああいう人たちに絡まれたら……。
考えれば考えるほど、会社を辞めたほうがいいんじゃないかって気がしてくる。
わたしがいなければって。
「加山さん」
「はい」
「仕事、辞めないでね。すごく嫌な思いをしたと思うんだけれど、辞めないで欲しい」
まるでわたしの心を読んでいたかのような田島さんの真摯な口調が胸を突き刺す。
月曜日から会社に行くのが憂鬱だなとか、ロッカールームでまた誰かに絡まれたら嫌だなとか、帰ってりょうにどうやって説明しようかとか思っていて、少しだけ会社が嫌だなと思っていた。
「辞めさせないわよー。あなたみたいに一人で二人分の仕事をこなせる人は貴重なんだから」
にっこりと出水さんが微笑み、荒木さんが苦笑を浮かべる。
「出水さん一人だと阿吽じゃなくなっちゃいますからね」
淡く微笑んだ出水さんが成り行きを見守っていた信田さんに声を掛ける。
「加山さんのことは私たちが何とかしますから、信田さんも石川さんも意図的に加山さんとの距離を取って貰えます?」
「え。何で?」
「今は噂のせいでありもしない関係に過敏になっています。噂を裏付けるような行為は今は避けるべきでは無いかと思います」
「ああ。俺と石川はそうすれば問題ないだろうけれど」
りょうのこと。
言わないように濁したけれど、信田さんの言いたい事はわかった。
「今野くんになら私から話しておきます」
そう言った荒木さんに「よろしく」と信田さんは言って曖昧なまま話を誤魔化したけれど、結局は自分で言わなくてはいけないだろう。
今日あったことも含めて。
それはそれで気が重い。心配掛けたくないのに。
「結局は今野くんに執着してるんでしょ、お局は」
「そうね」
田島さんの問いに出水さんが短く同意する。
「ただそれは今野くんが悪いのではなく、佐久間さん自身の問題でしかないわ。彼を責めるのはお門違いだし、そうすべきではないわね」
付け加えられた言葉にほっとする。
「ほんの少し自重してくれればいいんじゃないですか」
荒木さんの言葉に、田島さんと出水さんが笑う。
これからどうしていけばいいのだろう。どうすれば、もう今日みたいなことが起こらないんだろう。
信田さんが席を立ち、スマホを弄りながらお店の外へと向かう。
煙草かな。あと沙紀ちゃんに連絡かな。
意識と視線を信田さんへと向けていると、視界の中に突然石川さんが入り込む。
「ゆう」
「あ、はい」
田島さんがこれ見よがしに溜息を吐き出したけれど、石川さんは気に留める素振りも無い。寧ろ気がついてもいないのかもしれない。
「お前はゆうって呼ばれるの嫌か?」
ぼそっと出水さんが「問題はそこじゃないわ」と呆れたように呟いたけれど、それさえも石川さんは無視する。
「呼ばれ方は別に何でも良いです。どう呼ばれようがわたしはわたしなので」
くすっと荒木さんが笑みを零す。
嫌な笑い方じゃなくって、石川さんをからかうように笑ったまま、わたしの肩に手を置いた。
「名前で呼びたいと石川さんが思っていらっしゃるだけじゃないんですか?」
荒木さんの問いに眉を寄せた石川さんだったが、一瞬の間の後頬をふっと緩める。
「ちげえよ。でもまあ余計な問題増やしても仕方ねえから、会社では名前で呼ぶの止めとくわ」
ぽんっと石川さんが頭を撫でる。
それは仕事で煮詰まっている時に石川さんがふいにやる、わたしだけじゃなく田島さんや野村さんにもしてくれる癖のようなものだ。
けれど不思議と心を落ち着ける効果を持っている。
「とりあえず今の状況をどうにかするのが先決だからな」
ぽんぽんっと肩を叩いたかと思うと、石川さんは立ち上がって座敷を出て行く。おそらく煙草を吸いに行ったのだろう。
その背中が完全に見えなくなると、出水さんが微笑む。
「飲みましょう、加山さん。嫌な事は飲んで忘れるのが一番だわ」




