27:変化の兆し・3
飲みに行こう、飲むのがダメなら食事だけでもと粘る田島さんと野村さんを振り切って家に帰り、残業して帰ってきたりょうとご飯を食べて、ようやく一息。
昼間の話をどのタイミングでしようかなと思っていたのだけれど、ゆっくり話せるほうがいいかなと思って、食後のコーヒーまで話さずにいた。
コーヒーカップを二つ手に持って、食器を洗ったあとにりょうが戻ってきて、食卓代わりのローテーブルに置く。
「おつかれさま。今日も美味しいご飯ありがとう。卯の花、美味しかった」
「ううん。こちらこそ洗ってくれてありがとう」
ご飯を作って貰ったほうが食器を洗うのがルールなわたしたち。
先に帰ることの多いわたしが必然的に作る事が多いのだけれど、毎回こんな風に必ず何かしら褒めてくれる。
それがすごく嬉しくって、また次も美味しいって言ってもらえるようなものを作ろうっていう気持ちになっちゃう。
りょうはいつだって優しい。
昼間からずっと考えていたけれど、りょうと離れるのは辛い。
「で、そろそろ話す決意は出来た?」
コーヒーを一口飲んだ後、クッションを抱えるわたしの顔をりょうが覗き込む。
「決意だなんて。最初から食べ終わってから話そうと思ってたのに」
「そうかな? なんか難しそうな顔してるよ」
ぽんぽんと頭を撫でたあと、りょうがわたしの眉間を突っつく。
「皺寄ってるの、気付いてない?」
「……寄ってた?」
「寄ってたよ」
突付いた眉間にちゅっと軽いキスをして、りょうが離れていく。
離れていくのが淋しくて両手を伸ばすと、逆にりょうの腕がわたしの背中に回ってぎゅっと抱きしめてくれる。
この腕の中から出たくないな。ずっとこうやって傍にいられたらいいのにな。
二十四時間一緒にいることなんて到底無理なのに、最近そんな風に思うことが増えている。
無条件に甘やかしてくれるこの腕の中が心地よくて、りょうの胸元に頬を寄せる。
とくんとくんと聞こえてくる規則的な音が、心を落ち着けてくれる。
「このままでもいい?」
「いいよ」
顔を上げずに聞いたわたしの髪を撫でながら、ふっと笑うようにりょうが息を吐き出した音が耳をくすぐる。
会社では阿吽だとか鬼だとか言われているけれど、全然そんな事無くって、本当は弱くて甘えるのが好きだという事を、りょうと付き合ってから知った。それまで、わたしは強い人間だと思っていたのに。
規則正しく髪を撫でていくりょうの指先が優しくて、何も言わなくても落ち着かせようとしてくれているんだなって伝わってくる。
お互いの鼓動の音と、呼吸の音。それから秒針を刻む時計の音以外、耳に入ってくる音は何も無い。
「あのね」
「ん?」
「今日昼間に、あ、まだ内緒で誰にも話したらいけないって言われたんだけれど」
話の前置きをしたわたしの耳を、クスっと笑ったりょうの声がくすぐる。
「俺はいいんだ?」
顔を上げると、いたずらっ子みたいな顔をしてわたしのことを見つめている。
「内緒にしててくれないの?」
絶対に誰かに話したりなんてしないと思うけれど、わざとそうやって聞いてみた。
「いいけど、どんどん秘密が増えてくね」
妙に嬉しそうに言ったりょうに同意するように頷き返す。
「うん。秘密がいっぱい増えるね」
頬が揺るんだわたしを見て、りょうが目を細めて口元を笑みの形にする。
「共有する秘密が増えるのは楽しいし嬉しいよ」
「ありがと」
ちゅっと軽くりょうの唇にキスをしてから、話を続ける。
「お昼ね、課長と村田さんと信田さんと出水さんの五人で食事したの」
「出水さんだけじゃなかったんだ。でも今日村田さんって会社来てないよね?」
「うん。営業先に直行直帰。お昼の時だけ戻ってきてたみたい。信田さんもその後また営業行ってから会社戻ってきたし、課長は午後から支社に来たでしょ」
「なんかすごく隠密行動っぽいね」
「でしょ。絶対に誰にも知られちゃいけないって信田さんに釘刺されたくらいだもん」
「そんなすごい秘密を教えてくれるんだ」
「うん。そんなすごい秘密では無いかもなんだけれど……」
自分の話からしようか。それともりょうの話からしようか。
直前になって躊躇ってしまって、でもやっぱり自分のことからかなと思って、改めて口を開く。
「契約社員にならないかって」
「え!?」
りょうは目を見開いてわたしの事を見つめる。
しばし固まった後、りょうがふわっと頬を緩める。
「すごいね。優実の仕事が認められたってことだね。おめでとう。優実」
「ありがとう」
純粋な賛辞に心がくすぐったくなるけど、素直にお礼する。
前だったら上手くありがとうなんて言えなかったのに、りょうといると照れるとかよりも先に言葉が出てくる。
で、後から耳が熱くなる。
「でもね、課長が言うには佐久間さんがしたことへのお詫びなんだって。会社としてこれ以上の事が出来ないからって」
気恥ずかしさと、褒められたくすぐったさから来る居心地の悪さで言い訳を付け加えると、りょうが首を横に振る。
「仮にそういう理由があったとしても、仕事が全く出来なかったら契約社員になんて言われないよ。せいぜいランチ一回で誤魔化すのが関の山だよ、課長の場合。きっと誰かが口添えしてくれたんじゃないかな」
言われて咄嗟に頭に浮かんだのは信田さんの事。
今は同じ担当で仕事をしているからかもしれないけれど、とても面倒見が良くて、困っていると誰よりも先に気がついてくれる。
わたしが五担の派遣になってから、最初のうちはミスもあったし、手間を掛けることも多かったのに、いつも気付くとフォローに回ってくれていた。
迷惑を掛けても「ちゃんと頑張ってるし出来ているから落ち着いて仕事すれば大丈夫だよ」と声を掛けてくれたりしていた。
こんな状態のわたしなのに、信田さんは契約社員になることを推してくれたのかもしれない。
それに村田さんだって、普段は仕事の事以外で話をしたりすることは無いけれどあの場にいたっていう事は、わたしの管理者だからっていうだけじゃなくて、契約社員にってことで推してくれたのかもしえない。
営業資料を作るのが遅かったり工夫が足りなかったりで、迷惑を掛けることだって多々あるのに。
そう思うと、感謝の気持ちでいっぱいになる。
まだまだ至らないことのほうが多いのに。
「優実の実力が認められて嬉しいよ。一担にいた時は佐久間さんのミスの尻拭いをさせられてばかりだったし、佐久間さんのミスは全部優実のせいみたいに課長は思ってたみたいだから」
確かにそれっぽいことは言われたかも。契約打ち切りって言われた時に。
「契約になる派遣さんなんて今までいなかったから、本当にすごいことだって。おめでとう」
「……ありがとう。あ、でも出水さんが来月から契約になるみたい」
「そうなんだ。優実はあまり嬉しそうじゃないみたいに見えるけど、契約になるのが嫌?」
嬉しくないわけじゃない。
そうじゃなくて、気になるのは自分のことよりもりょうのこと。
「わたしが契約社員になるだけじゃなくって、罪滅ぼしとして、りょうを希望の部署に異動させるって課長が」
語尾の声が小さくなるにつれて、何故かりょうが顔を笑みで崩していく。
「それで不安になった?」
「不安っていうか。ちょっと淋しいなと思って。だって、支社じゃないところに行くんでしょ?」
「まあ、希望が本当に通れば本社だろうね」
やっぱりそうなんだ。
「そうしたら一緒に仕事行けなくなるね」
「でも今すぐにじゃないよ。まだ打診も内示もきてないから。それに春の大規模な人事異動が終わったばかりだから、次にあるとしたら夏前か九月前だろうし、当分は今と変わらないよ」
ほっとして肩から力が抜けたのを、目ざといりょうが見逃すはずもなかった。
「そんなに淋しい?」
にこっていうよりニヤっていう表現が似合うような笑みを浮かべ、りょうはわたしを囲う腕の力を強くする。
逃げないようにする為に。
「淋しい。でも淋しいっていうのはワガママだと思うから、ちゃんとおめでとうって言いたいの。りょうが希望するところで、自分の希望していた仕事が出来るほうがいいもん」
「っていうのは建前? 本音?」
じっと目を見つめられて、悔しいけれど本心を吐露する。
「……建前。本当はりょうの背中見ながら仕事できなくなったり、一緒に休憩出来なくなったり、帰りに待ち合わせしてご飯食べに行ったり出来なくなるのが淋しい」
「よくできました」
嬉しそうに微笑むと、りょうがぎゅっとわたしの背中に回した腕に力を籠める。
今みたいに、同じ時間を同じ場所で過ごせる幸せな時間がずっとずっと続けばいいのに。
けれど決して今のままではいられない。
いつかりょうは本社に行くんだろう。本社に行かなかったとしても、少なくとも営業課を離れることになるのだろう。
「ねえ、りょうの希望している部署って営業ではないの?」
「営業じゃないよ。俺が本来希望してたのはマーケティングだよ」
マーケティングって言われてもぱっとイメージは出来ないけれど、支社にはマーケティング部門が無いので(大雑把に言えば、営業企画がマーケティング関連だとは思うけれど)本社という事になるんだろう。
「そうなんだ。淋しいけど、決まるといいね」
いつでも声が聞けるこの恵まれた環境が変わってしまうのは、やっぱり少しばかりではなく結構淋しい。
でも淋しいからといって引き止められるような事じゃない。
「ありがとう」
りょうの声を聞きながら覚悟した。
いつかりょうと違う場所で働く日が来る事を。




