26:変化の兆し・2
詮索される覚悟で迎えた昼休み。
野村さん、田島さんがにやにやワクワクといった表情でお昼に行こうと声を掛けてくるのを、もう一人の阿吽である出水さんが制した。
「お昼は私に加山さんを貸して貰えるかしら?」
にこやかに、けれど冷ややかな視線で二人を出水さんが見るから、野村さんの顔は微妙に強張った。
「なんなら出水さんも一緒にお昼行きませんか」
そう言った田島さんに出水さんが冷笑を浮かべる。
「ごめんなさいね。ちょっと加山さんに話があるの。今日は遠慮していただけるかしら。明日以降に誘って貰えたら嬉しいわ」
丁寧だけれど明確な拒絶に、田島さんの笑顔が凍る。
ひくひくっと動く口元が無理やり笑顔を作ろうとして作りきれなかった事を表している。
「加山さん。行きましょう」
「は。はい」
慌てて鞄を持って席から立ち上がる。
「すみません。出水さんと出てきます」
田島さんと野村さんに詫びてから、慌てて出水さんの後を追う。
背後で野村さんの「こえぇ」と言う呟きが聞こえてきたが、聞こえないフリをして営業課の部屋を出る。
エレベーターホールで出水さんに追いつき、二人並んでエレベーターを待つ。
ちょうどそこに一担の社員さんたちが来て「お疲れさまです」と声を掛けられる。
「あれ、今日は四担と一緒じゃないんですか」
今野さんの問いかけには出水さんがにっこりと笑顔で答える。
「今日は私が加山さんを借りたの。ちょっと阿吽で会議よ」
ふふふっと笑みを零した出水さんに、何故かわたしの背中に冷や汗が流れたような気がした。
お昼時で混んでいるエレベーターの最奥に乗り込むと、隣に今野さんがやってくる。
誰にも見えないように死角を体で作って『りょう』がわたしの指先にその指を絡めるようにして手を繋ぐ。
「出水さんと会議って何かあったんですか?」
こそっと耳元で囁くように言う『今野さん』に対して、首を横に振って答える。
「よくわからないです」
「そうなんですか」
二階までエレベーターが降りたところで、指先が離れていく。
あっという間にエレベーターは一階に着いて、今野さんを含む一担の社員さんたちと別れる。
しばらく出水さんと肩を並べて歩いていき、横断歩道のところで一端足を止めたところでふふっと隣に立つ出水さんが笑みを漏らす。
「心配性ね。あなたの彼」
「えっ!?」
ぎょっとして目を見開いたわたしに、ふっと出水さんが笑みを漏らす。
「私が気がつかないわけが無いでしょう? 私を誰だと思っているの?」
「……出水さんです」
「違うわ。営業課の真のお局よ」
くすくすっと笑う出水さんには、絶対に勝てないような気がした。
もうこの時点でものすごく負けている。
二人揃って阿吽だなんて言われているけれど、以前から出水さんと私とでは雲泥の差がある気がしていた。それが今確信に変わる。
信号が青になり、出水さんが歩き出すので、再び肩を並べて歩き出す。
「加山さん」
「はい」
「私は契約社員になるの、来月から」
まるでたいしたことが無いような口ぶりで話すけれど、それはものすごい事だ。
大企業と呼ばれてグループ会社も数多く持つこの会社で、派遣から契約になれる人はごくごく僅かしかいない。
事も無げにさらっと言いのけたけれど、今の支社で派遣から契約に上がった人なんて今までいないはずだ。
でも出水さんなら納得できる。
社員さんよりも業務内容に精通し、出水さん無しでは現在の二担と三担の業務は回らないだろう。
「すごいですね。おめでとうございます」
心からの賛辞を出水さんに送りたくても言葉が出てこない。
本当にすごいことなのに、自分の語彙力の少なさをこんな時に感じる。
ありきたりな私の言葉を聞いて、ふふっと出水さんが微笑む。
「次はあなたの番よ」
「え?」
「私には関係ありませんって顔してるわね。でも次はあなたなのよ」
気だるげに髪を掻き揚げた出水さんがわたしを見つめる。
「その話をする為に、あなたは呼ばれたのよ」
「呼ばれた?」
「ええ。そうよ」
出水さんに連れてこられたのは、何度か来た事のある昼は比較的安価な値段でランチメニューを出している個室割烹。
人に聞かれたくない話がある時に会社の人たちがこの場所をよく使う。
佐久間に顔を鞄で殴られたあの日にりょうと話をしたのもこの場所。
ただお昼時はものすごく混むので、こんな時間に来ても入れないはず。
「いらっしゃいませ」
それなのに出水さんは躊躇い無く店内に入っていく。レジの前では順番を待つ人たちが椅子に腰を下ろしている。
「二名様でよろしいでしょうか」
「いいえ。連れが先に来ています。信田の名前で予約しています」
「畏まりました。信田様ですね。ご案内いたします」
信田さん!?
今日は朝から営業先に直行だったはず。帰社時間も確か午後ってホワイトボードに書いてあった。それなのにどうして?
状況を飲み込めないわたしの様子など対して気にする様子も無く、出水さんが店員さんの後に続いていく。
一テンポ遅れて、あたふたと出水さんの後を着いていくと、お店の中でも最奥の個室へと通される。
扉を開けると、信田さんだけではなく、四担長の村田さん、それから何故か課長までもが部屋の中にいる。
村田さんも今日直行直帰のはずで、課長も確か朝から本社で会議だったはず。
全員今日は会社にいるはずのない人たちなのに。どうして今ここに?
完全に状況を飲み込めないでいるわたしの様子など気にする素振りも見せず、出水さんは三人と向かい合うように掘りごたつ式の席に腰を下ろす。
「驚かせてすまないね。加山さん、座って」
信田さんに促され、部屋の中へと上がり、出水さんの隣に腰を下ろす。
目の前に座っている信田さんが、小声で「ごめんね」と言う。
信田さんがこの場をセッティングしたという事なのだろうか。
「出水さん、ありがとう」
「いえ」
信田さんのお礼の言葉にうっすらと笑みを浮かべるだけで、出水さんはいつもどおりの飄々としてつかみ所のない雰囲気を崩さない。
「課長が奢って下さるって言うんですから、このくらいお安い御用です。お困りのことがあったら、いつでも声を掛けて下さいね」
付け加えられた言葉に、課長があっはっはと陽気な笑い声を上げる。
「出水さんがランチ一回で懐柔できるならば安いもんだ」
「それと資料作成は全く別の話ですよ。課長」
ちくりと棘を刺すような出水さんの言葉を笑い飛ばし、課長はテーブルの上で両手を組み合わせる。
「加山さん」
「はいっ」
緊張から声が上擦る。
一体何を言われるんだろう。さっき出水さんが話していた事が本当なら、派遣から契約にならないかという話だろか。
どきどきと心拍音がどんどん大きく、早くなっていく。
「佐久間ちゃんの事は悪かったね。会社としてこれ以上の処分が出来ない事を理解してくれとは言わないが、もっと早くに対応しておけばと悔やまれてならない。女性の顔に傷をつけるようなことになってしまって申し訳なかった」
思いがけない謝罪に「いえ」と短い返答しか出来ない。
助けを求めるように信田さんと村田さんの二人を見るけれど、二人とも口を噤んだままでいる。
「恐らく僕もね、そろそろ異動になるだろう。だからその前にお詫びというのはおかしい話かもしれないが、加山さんを契約社員に推薦しようと思っている」
「えっ。あの。それは嬉しいんですが、わたしはまだこちらに派遣されて一年も経っていませんし」
「けれど君がとても優秀だと、村田も信田も、それから出水さんも言っている。遅かれ早かれ、この仕事を続けていけば加山さんは契約社員になると思う。それが少し早まるだけだが、どうだろう。受けては貰えないだろうか」
嬉しい。それは嬉しい提案だけれども……。
助けを求めるように信田さんを見ると、信田さんが目元を綻ばせる。それは仕事で不安になったりしたときに信田さんが見せてくれる笑顔と同じ。
「加山さんも色々な事情があって派遣で仕事をしているのかもしれませんし、ここで即答するのは難しいかもしれません。返答はまた後日ということでいかがでしょうか、課長」
「……確かにそうだな」
髭の剃り跡を撫で回すようにしながら課長が答える。
「加山の返答は責任もって自分が聞いておきます」
ずっと沈黙を守っていた村田さんが提案する。現在のわたしの直接の上司で管理者は村田さんになる。
だから業務の事を村田さんに相談するというのは、傍から見てもおかしなことではない。
村田さんの提案に課長も了承し、思いがけない話し合いは和やかに終わろうとする。
「あのっ」
終わりかけたところで口を挟んだわたしに一斉に視線が集まる。
「あの。今野さんはどうなるんですか?」
「……というのは?」
課長が首を傾げ、信田さんと村田さんは互いに顔を見合わせる。
「佐久間さんの誤解で事件に巻き込まれたのは今野さんも同じです。だから、わたし一人がというのは……」
「ああ。そういうこと。今野のことなら心配しなくていい。彼が本来希望していた部署への異動申請を出している」
本来希望していた部署?
その事は気になったけれど、わたしだけが謝罪を受けて待遇改善されるのはおかしいと思ったので、りょうにも何らかの形で会社からの謝罪がされる事にほっと胸を撫で下ろした。
「加山さんの件も、今野の件も、まだ誰にも話さないでおいて欲しい。それから、万事上手くいくまでは調整に多少の時間が掛かると思っておいて貰えると助かるな」
「わかりました」
課長の言葉に深く頷き返す。
まだ正式に決まった話ではないし、誰かに言うべきことでもないだろう。
「妙に勘のいい石川なんかにも気取られないにね」
茶化すように信田さんは言うけれど、本当に誰にもバレてはいけないということなのだろう。
会社では話さず、家に帰ってからりょうと話し合おう。
これからどうするべきなのかを。




