25:変化の兆し・1
大型連休の後半を荷物の移動に費やし、部屋の中は雑然としている。
話し合いの結果、うちのほうが少し広いし会社にも近いから、わたしの家で同居する事に決まった。
まだ処分の終わっていない家電や、もろもろの手続きがあるので何度かもとの稜也くんの家にも戻ったりする必要があるけれど、そこに稜也くんが「帰る」事は無い。
ああ、稜也くんって呼んだらいけないんだった。
シンのことは呼び捨てにして、何で俺は「くん付け」にするのと言われて押し切られたんだけれど……。
「りょー? コーヒー出来たよ」
朝ご飯の支度を稜也くんがしてくれたので、食器を洗って、稜也くんが持っていたコーヒーメーカーで落としたコーヒーをマグカップに入れてローテーブルに置く。
ダイニングテーブルなんて置くスペースも無いので、食卓は小さなローテーブルということになった。
ドライヤーで髪の毛をセットしていた稜也くんが、くくくっと笑いながら戻ってくる。
「何で名前を呼ぶときに語尾が上がって、しかも顔が真っ赤になってるの?」
「わかってて聞いてるでしょ。もー。恥ずかしいんだからしょうがないじゃないっ」
照れ隠しにポンっとスーツの上から稜也くんの胸を叩くと、叩いた手首を掴まれる。
「まだ口紅塗ってない?」
「塗ってない」
言った途端に体を引き寄せられて唇が重なる。
何度も何度も啄むようにし、吐息が漏れた合間に舌が差し入れられて咥内を嬲られる。舌を絡め取られ、歯列を舐められ、甘い吐息が漏れる。
朝だと言うのに容赦のないそれは、顔が紅潮し息が上がるまで続けられる。
「優実。会社ではちゃんと名字で呼ぶんだよ。佐久間さんにバレるわけにはいかないからね」
「……そのくらいわかってるからっ」
わたしの真っ赤な頬を撫でながら、稜也くんは楽しげに笑い声を上げた。
「俺の名前呼ぶよりも、今野さんって呼ぶほうが得意そうだもんね」
「ひどっ。そんな事無いから。稜也くんって呼んでいいなら普通に呼べるもん」
そうやって呼んでもいいなら、顔も赤くならず普通に呼べるようになっているのに。
わかっているくせにそういう事言うんだから。
「ダメ。で、俺のことは何て呼んでくれるんでしたっけ? 優実さん」
「……りょう」
しぶしぶ、赤くなった顔を見られないように俯きながら言うと、頭上から稜也くんの「ヤバイ」という声が聞こえてくる。
そっと盗み見るように稜也くんの顔を見ると、稜也くんの頬がほんのりと朱色に変わっている。
「あー。俺、朝から誘惑されてる」
「しっしてないからっ」
慌てたわたしを抱きしめて、はーっと稜也くんが息を吐き出す。
「もっとこうしていたいけれど、しょうがないから会社行こうか」
しぶしぶといった感じで言うからおかしくて噴き出すと、稜也くんも笑い出した。
「コーヒー飲んでるから仕度しておいで」
「うん。一緒に会社に行こうね」
連休も終わり、いつもどおりの毎日が始まる。
左手には、結婚指輪でも婚約指輪でもない小さなリングが小指に収まっている。
以前実家に稜也くんを連れて行った時に、結婚する? って聞かれて、ずっと一緒にいるっていう「約束のしるし」に買ってもらったピンキーリング。
今までは会社に着けていく事は無く、休みの日にしか身につけていなかった。
その小さなリングが、わたしと稜也くん……ああ、稜也くんじゃダメなんだ……りょうを繋いでくれているような気がして、ずっと着けていたくなった。
身支度を終えて、最後に小さなリングを嵌め、既に支度の終わっているりょうに声を掛ける。
「りょう。お待たせ」
「……なんか、すっごく悔しい気分なんだけど」
不服そうに言いながら立ち上がったりょうに笑いかける。
いつもは冷静で笑顔の仮面を外さない『今野さん』だけれど、普段見せる表情は面白いぐらいにくるくる変わる。
「どうして?」
「だって優実が普通に俺のこと呼ぶから。もうちょっと恥らう笑顔とか堪能したかったのに」
口を曲げて不満げに溜息を吐き出す姿は、本当に仕事中からは想像付かない。
爽やかの仮面はどこへ行ったんだろう。どことなく年齢よりも幼いように見えてくる。
「じゃあ、普通に稜也くんって呼ぼうか? 顔色変えないようにして呼ぶの、今ちょっと気合が必要だったし」
思わず漏れ出た笑みと共に問いかけると、じろっと稜也くんが怖くない視線で睨んでくる。
「気合いれなくていいから。初々しい優実が見たい」
「もうっ、朝から何言ってるの。会社行こう」
左手で通勤用の鞄を持っているりょうの右手を左手でひっぱるようにして玄関まで連れて行く。とはいえ数歩だけれど。
「ゆう」
「ふえっ!?」
呼ばれなれない呼び方で呼ばれ、ばくんと心臓が大きな音を当てて跳ねる。
ドキドキしながら狭い廊下で振り返ると、目の前でにやりと黒い笑いを浮かべている。
その笑顔に、心拍数がどんどんあがっていく。
「へー。こうやって呼ぶとそんな顔するんだ」
意地の悪い笑みを浮かべ、それから繋いだままのわたしの左手を持ち上げる。
「これ、着けてくの?」
「ダメ?」
「いいけど。絶対四担の連中に詮索されるよ。それでもいいの?」
「いいの。だって形を欲しがったわたしに、りょうがくれたものだから。人に何を言われても着けていたいの。ずっと身につけていられるものがいいからアクセサリーを買ってくれたんでしょう、あの時」
黒い笑みが固まり、りょうが目を見開いた。
「……優実」
「なあに」
どすっという音と共にりょうの手から鞄が離れ、わたしの背中に両手が回される。
そっとその背中に両腕を回すと、二人の間の空間を埋めるようにぎゅっとりょうの腕に力が入る。
「あんまり可愛い事言わないで。俺壊れそう」
溜息交じりに漏らされた言葉は、どこまでが冗談でどこまでが本気なのかわからなかった。
ただ、とてもとても幸せだと思う。
「それどうしたんですか?」
一番目ざとかったのは隣の席の野村さん。
パソコンを叩いて書類を作っていると、隣の席から手元を覗き込まれる。
「それというのは?」
書類のことではないだろうと思いながら、平静を装いつつ聞き返す。
「指輪。ああ、薬指ではないんですね。こっちからは薬指に見えたので、びっくりしました」
決して大きな声ではなかったはずなのに、斜め前の席に座る田島さんがひょこっとパーテーションの向こう側から顔を上げた。
田島さんはにこっと笑って視線を元に戻したけれど、多分間違いなくお昼に詮索される。
「例の嫉妬深い彼氏から貰ったんですか?」
野村さんに聞かれた瞬間、野村さんに例の嫉妬深い彼氏呼ばわりされている張本人の『今野さん』がコピーブースから出てきた。
多分間違いなく会話を聞いているだろうけれど、顔色一つ変えずに自分の席へと戻っていく。
「内緒です」
色々気まずくてそう答えたのに、ぷぷっと野村さんは噴き出した。
「全然内緒じゃないですよ、それ」
笑いながら野村さんは自分の資料に目を戻した。
--彼氏、嫉妬深いの?
メッセンジャーが田島さんからの着信を告げ、開けたとたんに目に飛び込んできたメッセージにガクっと肩を落とす。
田島さんの興味はお昼まで我慢することをよしとしなかったようだ。
--そんな事無いと思います。束縛したくないって言ってましたし。
そんなメッセージを送ると、即開封されたことをポップアップメッセージが告げる。
そして返信も早い。
--そうなんだ。で、指輪はどうしたの? 彼氏に貰ったの?
--秘密です。
そう返信した後に『今野さん』に煙草休憩に行こうと誘うメッセージを送り、パソコンにパスワードロックを掛ける。
「ちょっと席を外します」
野村さんに声を掛けて、喫煙所へと向かう。
休憩するにはまだ全然早い時間なんだけれど、このままだと頬の温度が上がったまま元に戻れなそう。
ほんのりと熱い頬を手の甲で触っていると、喫煙所に『今野さん』が姿を現す。
「お疲れさまです」
定型どおりの挨拶をしたわたしに、喫煙所に誰もいないからか『りょう』が黒いほうの笑みを漏らす。
「だから詮索されるけどいいのって聞いたのに。で、誰が嫉妬深いって?」
「……えっと。うーんと、彼氏?」
答えたわたしの頭を痛くない程度でぽかっと叩いた。
「どんな話したの、野村に」
「どんなって……」
きーっと扉の開く音にそれ以上話すのは止めて、煙草に火を点ける。
入ってきたのは田島さんと石川さん。
「みーつけた。加山さん」
にやりと笑いながら田島さんが近付いてくる。それを『今野さん』は苦笑交じりに見ているが、わたしの隣からは離れようとはしない。
左に壁、右に『今野さん』目の前には田島さん。背中は窓。
田島さんから逃げる術は無い。
「みーせーてっ。指輪」
ちらっと右上を仰ぎ見ると、わたしにだけわかるように「どうぞ」と小さく唇を動かすのが見えた。
何となく気恥ずかしさもあって恐る恐る手を差し出すのを、田島さんは食い入るように見つめている。
「わー。素敵だね」
感嘆の声を上げた田島さんに「ありがとうございます」となるべく感情の揺れを悟られないようにしながら答える。
「ピンクゴールド? 綺麗な色だね。彼氏に貰ったの?」
「……は、はい」
「そうだよねー。自分用に買うのに、ハートモチーフのリングは買わないよね。見せてくれてありがとう」
すっと手を引っ込めて背中に隠すと、あははっと田島さんが笑う。
「さすがの鬼も、そんな顔するんだね」
そんな顔?
どんな顔をしているんだろうと思って『今野さん』のほうを見る。
「変な顔してます?」
「……変な顔というか」
眉を顰めて答えたのが面白かったのか、田島さんの笑い声が一段と大きくなった。
「今野くんが困ってるっ」
「田島。気が済んだなら席に戻るぞ」
全く会話に加わらずに扉の傍で煙草を吸っていた石川さんが灰皿で煙草をもみ消し、田島さんを呼ぶ。
「はいはーい。加山さん、深呼吸してゆっくりいてから戻ってきたほうがいいよ」
先に喫煙所を出た石川さんに続いて、田島さんも扉の向こう側に姿を消す。
足音が遠ざかってから改めて問いかける。
「そんな変な顔してる?」
「赤くなってる。いつもの阿吽の片鱗まるでなし」
きっぱりと言い切った『りょう』はどこか不機嫌そうだった。
けど、ふーっと深く息を吐いていつもどおりの『今野さん』の笑顔に戻る。
「今日は一日詮索される覚悟で、出来れば鬼をキープしたままでお願いします」
「……善処します」
答えたわたしの頭を人当たりのいい営業用の笑顔とは違う笑顔で軽く撫でて、ほんの一瞬だけ背を屈めてチュっと小さなリップ音を残してキスをした。
「こ、ここ。こ。こ……こ」
会社の喫煙所という有り得ない場所でのキスに、顔が赤くなるどころか驚きのあまり血の気が引いていく。
誰かが見てたらどうするのっ。
ばくばくと鳴り響く心臓の音が耳で聞こえる。
「したくて我慢できなかった。ごめんね」
抗議も同意も出来ないまま目を見開いて、瞳に大好きな『今野稜也』を映したまま固まりつくしてしまった。
くくくっと肩を揺らして笑っているりょうは、小銭を取り出して自販機でブラックコーヒーを購入する。
「はい。これで頬を冷やして。頬の赤みが引いたら戻ろうね」
手渡されたコーヒーを頬にあてながらも、もう一度キスしたいなあなんて思ってしまうわたしの頭は、大分危機感が無く恋愛色に染められているのかもしれない。