挿話:束縛の糸(SIDE:B)
「きうちゃん、これお土産。一担に配ってもらえる?」
「はいはーい」
大型連休と呼ばれる連休の合間の平日。それでも社内には半数以上の人がいる。
コピーブースを見るように四担の席を振り返ってみたけれど、彼女の姿は無い。
どうしたんだろうと思ったのと同時に始業開始のベルが鳴る。
今日休むだなんて昨日会った時も言っていなかったし、メールも来ていない。
途中で事故にでもあったのだろうか。
不安が頭を過ぎる。
彼女に限って寝坊するなどという事は有り得ない。そもそも昨日は彼女が寝坊する可能性が上がるような事は何もしていない。
どうしたんだろう。
「きうちゃん。僕ちょっと電話してきます」
「はーい」
携帯を手に持って喫煙所に向かう。
歩きながら彼女の携帯に電話を入れるけれど、留守電のメッセージが流れるだけだ。
本当に何かあったんだろうか。
止め処ない不安に苛まれ仕事が手につかなくなるなと、自席に戻る前からわかる。
何度かコールしてみるけれど、出る気配は無い。
留守電にメッセージを残し、溜息を吐き出して煙草に火を点ける。
どうしたんだろうと思いながら窓の外を眺めつつ、落ち着かない気持ちを少しでも落ち着けようと煙草の煙を吐き出す。
けれどそれで落ち着くわけも無い。
「おつかれさまでーす」
軽い声に「お疲れさまです」と返す。
彼女と同じ担当で、彼女の隣に座る野村だ。
野村と一緒に担当長の村田さんも喫煙所に姿を現す。
珍しい取り合わせだ。二人とも煙草は吸わないのだが。
「野村。今日は田島が元々休みを取っていて、石川が急遽午前半休で、加山さんも体調不良で休みを取ったから、お前の業務負担がかなり……」
村田さんのその後の話は耳には入っても頭には入ってこない。
石川さんが急遽半休で、彼女が体調不良で休みだって?
昨日会った時には彼女は全くいつもどおりだったし、また明日ねとごくごく普通に別れた。
それに体調不良で休むなら、俺に全く連絡を寄越さないのもおかしい。
まさか、石川さんがついに動き出した? 彼女の心が石川さんに傾いた?
短絡的だとわかっていながらも、その考えが頭にこびり付いて離れなくなる。
自席に戻り提案書をパソコンで叩いていても、頭の中は石川さんと彼女のこと。
溜息ばかりが漏れ出て、全く作業が進まない。
その後も何度か電話をしたけれど、出る気配が無い。
ちっ。
不安からくる苛立ちと、もしかしたら本当に事故か事件に巻き込まれたんじゃないかという心配の両方で、全く仕事が手につかない。
「伊藤さん、すみません」
担当長に声をかけ、半休を貰う手筈を整え、十二時のチャイムと共に会社を飛び出した。
結局お昼まで連絡がつかなかったので、彼女の部屋に向かう事にした。
オートロックの前で部屋番号を押して呼び鈴を鳴らしても、部屋の前の呼び鈴を鳴らしても、彼女は出ない。
部屋にはいない?
やはりもしかして事故にでもあったのだろうか。
しかしそれならば本人が体調不良だなんて嘘の連絡をする必要など無く、つじつまが合わない。
いよいよ不安が最高潮に高まり、合鍵を使って彼女の部屋の扉を開ける。
部屋の中は薄暗く、玄関には彼女が仕事の時に愛用しているパンプスだけが置かれている。
昨日別れた時と全く変わりはないように思える。
キッチンを抜けて寝室を兼ねている部屋の扉を開けると、眠っている彼女の姿が視界に飛び込んでくる。
ほっと胸を撫で下ろし、毛布を頭から被って自分の体を抱きしめるかのように丸まって眠っている彼女の傍へと歩み寄る。
すーすーと規則正しい呼吸音が聞こえてくるが、一体何があったんだろう。
そっと毛布を捲ると、頬には涙の跡。シーツにも涙が染み込んだ跡が残っている。
一体何があったんだ? こんな風に一人で泣くなんて。
不安よりも心配のほうが強くなる。
何が彼女をこんなにも追い詰めたのだろう。
涙を拭く為に伸ばした指先で目覚めた彼女が、全てを語ってくれる。
「こんばんは。今少しだけ大丈夫ですか」
『何でアンタが俺に電話してくるわけ? ゆうは?』
不快感を隠さない彼女の弟の反応は予想通りで、非好意的な態度も想像の範囲内だ。
「寝ています。それより一つ質問があるのですが」
『何』
「シン」
電話の向こう側で、はっと息を呑み、そして深く溜息を吐き出す音が聞こえる。
『……その話、誰から聞いた』
「本人です。連絡も無く会社を体調不良で休んだので、どのような理由かを聞いたところ、そいつが原因だったようで」
『表れやがったのか!? あいつがっ』
裕人の予期していなかった怒鳴り声に、耳が痛くなる。
が、文句を言いたくなるのも当たり前だろう。彼女のこの様子を裕人は目の当たりにしてきたのだから。
「いいえ。昔のことを夢に見ただけだそうです。会ったりはしていないようですよ」
ほっと電話の向こう側で息を吐いたのがわかった。
と同時に、一気に緊張感が解かれる。
『んで、俺に何で電話してきた』
「夢を見ただけで吐くほどの状態なのですが、病院に連れて行ったほうが良いのかどうか知りたくて。自律神経失調症と本人は言っていましたけれど、今も通院しているんですか?」
『……あんたにはそこまで話したのか』
質問と全く異なる回答に眉を顰めるが、はいとだけ返して裕人の話を促す。
『病院にはもう定期的に通ってはいない。そもそも気休め程度の薬しか飲んでいなかったし、カウンセリングが中心の治療だった。続くようなら通院したほうがいいだろうけれど、しばらくは様子見で大丈夫だと思う』
「そうですか」
窓の向こう側、ベッドでぐっすりと眠っている優実を振り返るが、今は辛そうな表情はしていない。
シンの夢は見ていないだろう。
「お時間とらせてすみませんでした」
電話を切ろうと挨拶をすると、不機嫌そうな裕人の『ちょっと待て』という声が聞こえてくる。
『お前はゆうを裏切んなよ』
心配性で自他共に認めるシスコンの裕人の言葉に笑みが漏れる。
「大丈夫ですよ。彼女のことは大切にしてますし、幸せにするつもりですよ。そもそも手放す気すらありませんから」
本音を吐露すると、裕人がはーっと溜息を吐き出す。
『あんたさ、別にゆうに拘らなくても女に不自由しないだろ?』
はいと言うべきか、それともいいえと言うべきか悩んだが、素直に「はい」と答える。
それに対して裕人はあっさりと『だよな』と同意する。
『さっぱりわかんないんだけど、あんたみたいな人が何でゆう?』
兄弟で同じような事を言うんだなと内心おかしくなったけれど、咳払いを一つして彼女の家族の中で唯一自分を認めていない相手に誠意を伝えるべく意を固める。
「何ででしょうね。恋愛に理屈は無いのだと思います。たまたま僕が惚れたのが加山優実だったというだけで、それに理由はありませんね」
ここがいいとか、あそこがいいなんて取ってつけたような理由は、どれも真意を伝えるには相応しくない気がした。
『……そうかよ。んじゃまた何かあったら電話して』
「わかりました」
ぷつんと切られた電話だったけれど、多分裕人の中の自分に対する何かが変わったような予感はする。
姉の為に自分の将来の進路さえ変えた裕人。
認められたというのは言い過ぎだろうけれど、電話してと言い残したのは信頼に値すると多少なりと思って貰えた印だろう。




