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Papagena  作者: 来生尚
本編
6/99

6:ランチ

「食事出るよ」

 今野さんの席でパソコンと睨みあいを続けている私の頭上に低い声が響く。

 あ、もうお昼休み終わりの時間なんだ。

 しーんと静まり返って電話すら掛かってこなかったお昼休み、ひたすらデータと格闘し続けていた。

 とりあえず作りかけのデータに保存を掛けて、今野さんはまだ席に戻っていないので、どこまでやったかのメモを残す。

 多分これで8割方解決していると思うのだけれど。

 今野さんのパソコンのスクリーンセーバーを起動しておき、自分の机の下からカバンを取り出す。

 目の前に座る木内さんに食事に出ることを伝えると、「はーい、いってらっしゃーい」とのんびりした声が返ってくる。

 そののんびり具合と対照的に今の私の心は破裂しそうな位ドキドキ音を立てている。

 この間見たテレビで、人が一生に鼓動できる心臓の回数は決まっていると言っていたけれど、それがもし本当なら今確実に寿命がハイペースで縮んでるわ。

「どこがいい?」

 耳障りのいい低音が囁くように言うの聞き、20センチは高い位置にある石川さんの顔を見る。

 いつもと変わらぬ飄々とした顔に、なーんだと心の中で溜息を吐く。

 緊張してるの、やっぱり私だけなんだ。

「どこでもいいです。美味しければ何でも」

 多分、味はわからない昼食になりそうな予感がしているけれど。

「そうだなー、じゃあ信号渡った角にあるビルの地下行かない? あ、お疲れ」

 私に提案をし、すれ違った今野さんに挨拶を交わす。

「お疲れ様です」

 今野さんは律儀に頭を下げて横を通り抜けていく。

 ああ、そうだエクセルの事を伝えなきゃ。そう思って今野さんに声を掛けようと体の向きを変えると、ぐいっと腕を引っ張られる。

「腹減った。行こう」

「……あ。はい」

 一瞬だけの動きで全ての動きを止められてしまうが、固まっている場合ではない。ここは職場だ。

 石川さんが腕を掴んだのもほんの僅かな時間だけで、あっさりと目の前を歩いていく。肩を並べる事もない。

 さっさと歩いてエレベーターホールに行くのを、小走りに追いかけて丁度来たエレベーターに滑り込む。

 お昼休憩を終えて混雑した上りに比べ、僅かな人数しか乗らない下りは図らずも貸切状態。

 絶対やばい。絶対今顔赤い。でも気取られるな気取られるな。

「ゆうってさ」

 その呼び方、反則です。

 ぎゅっとカバンを握る手に力が入る。胸は痛いくらいに音を立てている。耳に聞こえてくるその音は石川さんにも聞こえているんじゃないだろうか。

 何を言われるのだろうと半ばパニック状態で次の言葉を待ったのに、ポーンと1階への到着を告げる機械音がするまで石川さんは口を噤んだまま。

 エレベーターが開くのと同時に、長いコンパスの石川さんはさっさとエレベーターの外に出て行く。

 必死に追うように早足で出ると、ビルの床のカーペットにヒールを取られる。

「ひゃっ」

 ぐらっと揺れる体に「何やってんのよー」と頭の中で自分で自分を非難する声があがるものの、体が傾ぐのを止めることは出来ない。

 腕を掴まれぐいっと体を引っ張り上げられ、転ぶのを止めてくれた人に目を向ける。

 恥ずかしさで真っ赤な顔で石川さんを見ると、石川さんはくすっと笑う。

「ばーか」

「す、すみませんっ」

 謝る私の体制を戻す為にぐいっと引き上げてくれる石川さんは目を細めて笑っている。

「足短いね、加山ちゃん」

「ひどっ。そんな事ないですよ」

「じゃあちゃんと前見てね。俺、横ですっころばれたら嫌だし」

「転びませんっ!」

 あははははっと笑いながらも、今度は同じペースで横に並んで歩いてくれる。

 絶対バカにされているとわかっているのに、でもそうやってからかわれるのさえ心地いい。

 この心地よさの正体もドキドキの正体もわかっている。けど、それをどう処理すればいいのかわからない。

 楽しそうに笑う二十センチ上の横顔と、ふわっと香る香水の臭いが私を妙に期待させる。


 石川さんが連れてきてくれたお店は、ランチタイムには満席でいつも入れない夜は料亭になるお店。

 お店の中に川が流れていて、全席個室。

 微妙にピークタイムを過ぎていた為、待つことなく入ることが出来た。

 3ヶ月目にして初料亭。実際にはランチで格安なんだけれど。

 通された個室は掘りごたつになっていて、本来四人がけのテーブルに石川さんと向かい合って座る。

「はい。メニュー」

 メニューを手渡されただけで鳴るのはやめて、心臓。もうこれ以上自覚させなくてもいいから。

 並ぶメニューは二つ。ミニ懐石と、本格的懐石の二種類。

「加山ちゃんここ初めて?」

「はい。いつも混んでいるんで。来てみたいなーとは思っていたんですけれど」

「じゃあこっちでいいかもね。結構値段の割に量があってさ、女の子はもう一つのだと食べきれないかも」

 ミニ懐石のほうを指差され、その指先にもときめくって何。どこまで乙女脳発動してるのよ。

 一瞬指に見とれ、次に自分の思考にダメ出しをして回答できずにいると、じーっと下から見るような石川さんの視線に気付く。

「あ、はい。それでいいです」

 答えた私にクスクスと笑い声をあげ、丁度お茶を運んできてくれた店員に石川さんが注文してくれる。

 なんかもう全部バレているんじゃなかろうかとさえ思えてくる。今日の私、明らかに挙動不審すぎるもの。

 おしぼりで手を拭き、お茶を一口飲むと石川さんと視線が合う。

 二人っきりしかいないんだから、この状況から逃れようがないじゃない。バカー! 乙女脳止まってー。そこ、ときめくタイミング違うから。

「ゆう」

 低い声で囁くのは反則です。

「一人暮らし始めたんだって?」

「はい。通勤に時間が掛かりすぎるんで」

 以前の職場は車通勤オッケーだったので実家からでも問題なかったのだけれど、今の職場は駅前に自社ビルがあるせいで車通勤NGなのだ。

 車でくれば大した距離じゃないのに、バスに揺られて電車に揺られ、その両方とも本数が少ないとあって3ヶ月で根を上げた。

 いい年だから親の脛齧ってないで出て行きなさいと前々から言われていたのもあるんだけれど。

「あー。あそこから通うとなると不便だよね。どこに家借りたの」

「隣駅です。あんまり職場から近いのも嫌だったので」

 幸い隣駅はターミナル駅である会社のある駅に出るのにも便利だし、駅前に商店街があるので買い物も便利で、家賃も職場傍に比べて手頃だった。

 しかも一階はコンビニのオートロック付きという素晴らしすぎる物件に、一も二も無く飛びついた。

 自分の借りた物件の説明をすると、石川さんが「へー」と感想を漏らす。

「いいとこ借りたね。俺もそろそろ家出ろって言われてるんだよね。ゆうのとこ、いいね」

 いいねと言った石川さんの視線と視線が絡む。

 息をのむってこういう事かもしれない。

 視線だけが絡みつき、一言も言葉が出てこない。

 物件がいいねっていうだけで、一緒に住みたいって意味なんかじゃない。

 わかってる。わかっているのに、何でこんなにドキドキするの。どうして石川さん、真顔なの。

 ふわっと視線が緩み、石川さんは手許のお茶を口元に引き寄せる。

 薄暗い料亭の中だから、顔が赤いのバレないよね。大丈夫だよね。

「ゆう」

 もう一度名を呼ばれ、全身が心臓になったんじゃないかというくらい身体中が忙しなくなる。 

 低いその声に心だけじゃなくて体まで疼く。声が耳から入って身体中を駆け巡っている。

「誰か部屋に呼んだことあるの? 会社の奴とか」

「え? あ、ないですよ。まだ片付け終わってないですし。ベッドもまだ買っていないし、テーブルも間に合わせだし、とてもとても人を招けません」

「ふーん。じゃあ今野とか呼ばないの」

「今野さん? 何で今野さんを呼ぶんですか?」

 意味がわからなくて聞き返すと、石川さんの視線がすーっと横に逸れる。

 で、何故かさっきの今野さんみたいな黒い笑みを浮かべる。にやりと、人の悪そうな笑みを。

「彼氏は」

「わかってて聞いてますよね。彼氏いたら飲み会常連になるわけ無いじゃないですか」

 ははっと声を上げて笑った石川さんは「確かにな」と同意する。

 いつも飲み会の席には必ずいて、一緒に煙草を燻らす石川さんは彼氏なんていないこと知っているくせに。

「飲み会の帰りに誰かに寄ってもいいかって言われても断れよ。いいな」

「なんですか、その命令口調は」

「いーんだよ、俺はお前の先輩なんだから」

 何がいいんだか全然わかりません。それに誰もうちに寄りたいなんて言いませんよ。わざわざ隣の駅まで電車に乗って飲んだ後に行こうとか言わないし。

 実際今までの飲み会でも言われた事ないし。

「ヒロトが心配してたよ。姉ちゃん酒弱いくせに飲みすぎるからって」

 思いもかけず弟の名が出てきてびっくりする。未だに弟と交流があるとは思ってもみなかった。

 それに私に何も言ってなかったのに。まあマメにメールするタイプでもないけれども、この会社に派遣されるようになってからヒロとの間で石川さんが話題に上がった事なんてない。

「私のことよりも自分の肝臓を心配して欲しいです。ヒロには」

「ヒロトは別にいいんだよ。あいつは自分で何とかできる。お前は俺の知らないところで飲みに行くなよ」

「なんですか、その過保護具合は」

 妙な期待を篭めて聞いたのに、丁度料理が運ばれてきて石川さんの真意はうやむやになった。

 やだな。無駄に期待してしまう自分がいる。

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