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Papagena  作者: 来生尚
続編:Long Island Iced Tea
55/99

20:新たな日常・4

 飲み会の後、当たり前のように二人で家に戻ってくる。

 正式に同棲を始めた訳ではないけれど、ほとんどをこの家で過ごしている。

 ここにいれば、誰の目も無い。

 家の玄関の扉を閉めたのと同時に、前に立つ稜也くんの背中から両腕を回した。

「どうしたの?」

 外で聞く稜也くんの声よりもずっと柔らかい。

「優実がそうやって甘えてくるの珍しいね。何かあった?」

 稜也くんは振り向きながら体勢を入れ替えて、胸に頬を押し当てるように彼の腕の中にすっぽりと納まる。

 とくんとくんという規則正しい音が、心の棘を溶かしていく。

「ううん。何も無い」

 心の中のもやもやを全て吐き出していいものかどうか躊躇して、首を横に振る。

「何も無い? 本当に?」

 瞳を覗き込まれてしまうと、言葉に詰まる。

 本当はいっぱい言いたい事がある。けれど、そのどれもがワガママで醜いもののような気がして、口に出すのが憚られる。

「じゃあ俺から先に一つ言わせて」

 何だろう。稜也くんの言いたいこと?

「うん」

 にっこりと微笑んだかと思うと、ちゅっと軽く唇にキスされる。

 予期しなかった行動に、頬がかーっと熱を持っていく。

「そういう可愛い顔を見せるのは俺だけにしてね」

 言いながら再び唇が重なり、今度は啄むように繰り返される。

 可愛くなんかないって言いたいけれど、抗議をすることなんて許されないように幾度も唇が重なり合う。

 ふいに出来たキスの合間に、稜也くんが囁く。

「で、優実の言いたかったことは何?」

 髪を撫でる指先が優しくて、どこか少し熱を帯びたような視線で見つめられ、心の檻が脆く崩れていく。

「……淋しい」

 言うつもりの無かった言葉が零れ落ち、ぎゅっと稜也くんのスーツを握り締める。

 人の目が無ければいくらだって甘やかすようにしてくれるけれど、会社では絶対に傍に寄ることさえ出来ない。

 それが淋しい。

 ほんの少しでもいいから話が出来たりすればいいのに。

 まるで存在を無視されているような気がしてきてしまうから。

 言わなくても良かったそんな子供のワガママのようなわたしの話を聞き、稜也くんがくすりと微笑んだ。

「俺は最初から優実を一人で帰すつもりも無かったし、他のヤツに送らせるつもりも無かったよ」

「……でも」

「ずっと見てた。すごく気にしてたよ。ただ、やっぱり苦しいよね。何も話すことも出来ないのは」

 わたしが気にしているのと同じくらい気にしていてくれた事実を知り、ほっとする。

 ほんの少し前までは隣に座っていて、普通に話すことも出来ていたのに、お局対策もあるせいで一言も言葉を交わすことが出来ない。

 真実が噂になってお局の耳に入ったらロクなことにならないから。

 それはわかっている。

 理論や理屈じゃなくて、ああいう感情的になる人には正攻法の話し合いなんて通じない。逃げるが勝ちだよと信田さんは教えてくれた。

 けど、傍にいるのに。

 手を伸ばすところにいるのに。

 話すことさえ出来ないのは苦しい。

「明日からは優実に淋しい思いはさせないよ」

 にやりと口角を上げて笑う、明らかに黒い笑顔をわたしに向けた稜也くんの指先が頬を撫でる。

「……いいの?」

 何らかの企みがそこにあるらしいのは理解できるけれど、周りのみんなにも協力してもらって隠匿して貰っているのに。

 心配になって問いかけたのに、稜也くんは笑顔のままわたしの顎を掴む。

「俺はそんなに馬鹿じゃないですよ。優実さん」

「馬鹿だなんて思ってない」

 くすりと稜也くんが笑みを漏らした。

「元々佐久間さんが勘違いするほど僕の心は傍から見ても加山さんに傾いていたのですから、それを利用しない手は無いでしょう?」

 佐久間さんが大好きな爽やかな笑顔で稜也くんは微笑むけれど、でも明らかに笑顔と口調が一致してない。

 口調はどちらかというと、いつもよりも低くて淡々としている。口調は『今野さん』なんだけれども。

「お邪魔虫と諦めの悪い羽虫にもご退場頂きたいのでね」

 こほんと咳払いをし、稜也くんはちゅっと音を立てて唇を重ねる。

 言っている言葉の意味を問おうと口を開けば、開いたそこから稜也くんの舌が入り込んでくる。

「……んっ」

 息苦しさと甘い刺激に思わず声が漏れると、ふっと稜也くんが笑んだ。

 その笑んだ瞳と視線がぶつかり合う。

「とりあえず靴、脱ごうか」

 まだ玄関だった事実に恥ずかしさがこみ上げてきて、頬が熱くなる。

 いくらお酒飲んでたからって、玄関先でいきなり抱きついて淋しいとか言い出して甘えて、恥ずかしい。

 朱が差した頬を稜也くんが撫でていく。

「淋しい気持ちはどうやったら埋められるか、教えてくれるかな、優実さん」

 それがどういう意味なのかが、頬からすーっと首筋や耳元を撫でる指先でわかる。

 恐らく耳まで赤くなっているに違いない。

 それを楽しそうに稜也くんは笑ってみている。


 

 四月の終わり。

 きうちゃんと出水さんと内藤さんとわたしの四人でランチに出る。

 一軒家のタイ料理のお店は、以前は沙紀ちゃんたちとよく来ていた場所。

 注文が終わって、おしぼりで手を拭きながら、内藤さんがしみじみと溜息を吐き出す。

「加山さーん。今度あたしにもパソコン教えてくださいよー。エクセルが強敵すぎますっ」

「今何作ってるの?」

 水を向けたわたしに、出水さんが「ダメよ」と口を挟む。

「本人が悩んでどうしてもわからないところは教えてあげてもいいけれど、そうでなくて最初から全部教えてあげたら、内藤さんのスキル向上に繋がらないわ。時間が掛かってもいいから、出来るところまで自分でやってみるといいわ」

 一瞬内藤さんがむっとした顔をしたけれど、それはあくまで一瞬で「ですよねぇ」と溜息交じりに呟く。

「今野さんも優しい人だなーって最初思っていたんですけれど、質問するとたまに、それこの間教えましたよとか笑顔で言われて、すごく怖いんです」

 きうちゃんは苦笑を内藤さんに向ける。

 内藤さんよりきうちゃんのほうが年下なのに、口数の少なさとか仕事経験の差で、きうちゃんのほうがずっと落ち着いて見える。

「私でもそう答えるわよ。何度も同じ事聞かれたら。まして営業さんたちは自分の仕事も抱えているのだから、補助をするはずの派遣が社員さんの手を煩わせてはいけないわね」

 ちくりちくりと『二担の鬼』は内藤さんを追い詰めていく。

 追い詰めているなと思うけれど、内藤さんはその事には気がついていない。

「んー、まあ。そうなんですけれどね。でもまだ入ったばかりだし」

「そういう甘えが通用するのは最初の一ヶ月だけよ。それに一担は派遣が二人いるのだから、木内さんにまず聞くのが筋よ。年は下でも、木内さんは業務上では先輩なのだし」

 アイスコーヒーをかき混ぜながら、内藤さんは不満そうな顔を見せる。

 けれど出水さんの言う事は正論で、言い返すことは難しいようだ。

 しばらくの沈黙の後、ふーっと内藤さんが溜息を吐き出す。

「まずは本読んで調べてみます。わからなかったら色々教えてください。加山さんも木内さんも出水さんも」

「ええ。困ったことがあったら言ってね」

 出水さんはにっこりと微笑んだ。

 その笑顔に内藤さんのこわばりが解けていくようで、険しい顔が和らいでいく。

 鬼だのなんだの言われることが多いけれど、出水さんは面倒見が良くて、人に嫌われる事も厭わずに厳しい事も言える人だと思う。

 本当は優しい人なんだろうと、ここ最近出水さんから営業資料の作成方法などで教わる事が多く、話をする機会も多いので思うようになった。

 確かに一分のミスも許さないところは、少し怖いけれど。

「困った事といえば、くだらない事なんですけれど。今野さんが素っ気無いんです」

 ちらっとこっちを見たきうちゃんと目が合ったけれど、意図的に視線を店内のほかの席へと向ける。

 視線を彷徨わせていると、お店の入口のあたりに、案内を待つ稜也くんと寺内さんと目が合う。

 目線だけで挨拶して、稜也くんたちには気がつかなかったかのような顔をして内藤さんのほうへと視線を戻す。

「一生懸命アピールしているんですけれど、全然手ごたえが無いんですよ。やっぱり無理なのかなー。諦めたほうがいいのかなー」

「あなたがそう思うのならば、そうしたら? 自分が決められるのは自分の気持ちだけ。相手を変えるのは無理だわ」

「でもー」

 抗議の言葉を口にしかけたけれど、内藤さんはぱーっと顔を嬉しそうなものに変えて微笑む。

「お疲れさまですっ」

 明らかに声のトーンが上がった内藤さんに「おつかれさまです」という淡々とした稜也くんの声が返ってくる。

「あれ、加山さん。今日は四担と一緒じゃなかったんですか?」

 背中合わせに座った稜也くんに問いかけられる。

 最近は誰が決めたのかわからないけれど、四担は四担でまとまってお昼に行く事が多かったので、こうやって派遣同士でランチできる機会が殆ど無かった。

「そうなんです。今日は皆さん外出で、野村さんが電話当番だったので」

「そうだったんですね。今度そういう事があったら、ぜひ僕もランチに誘ってくださいね。加山さん、担当替わってから冷たいですよね」

 最近の稜也くんは、その路線で話しかけてくることが多い。

 とにかくわたしが稜也くんに対して素っ気無くしているけれど、稜也くんは全く気にせず話しかけているというような感じの。

「そういうつもりは無いんですけれど、すみません」

 くすりと稜也くんが笑った。

「いいですよ。別に。後でコーヒー奢ってくれたら許してあげますよ」

「何でわたしがコーヒー奢ることになってるんですか。ランチのセットでついてますから、それ飲んでください」

 あははっと稜也くんと寺内さんが声を上げて笑う。

「お酒飲んでないのに、今日は絶好調ですね、加山さん。バッサバッサと加山節で切り捨ててやって下さい。こいつマゾなんで」

 絶対それはありません、寺内さん。この人ドSじゃないかとたまに思うことがあります。

 口には出さずに、敢えてしらーっとした目を『今野さん』に向ける。

「コーヒーは奢れませんが、タバコなら一本差し上げますよ。ただし、じゃんけんに勝ったらです」

「何でじゃんけんなんですか。まあいいです。後で勝負してください。僕が負けたら加山さんに一本進呈しますよ」

「わかりました。じゃあそれでお願いします」

 それを最後にお互い背を向ける。

 何か言いたげだった内藤さんだけれども、ちょうど稜也くんたちのテーブルに注文を伺いに店員さんが来たので、会話はそれっきりになる。

 稜也くんとは会話らしい会話を交わさないままだったけれど、会計のところで再び稜也くんと寺内さんと一緒になる。

 全員で歩きながら会社に戻って、エレベーターをあがる前に稜也くんに話しかけられる。

「タバコ吸ってから行きません?」

「いいですよ」

 一階の喫煙所に立ち寄る為に、そこで他の人たちとは別れる。

 歩いている間にほんの少しだけ触れた指先が、どきりと胸を高鳴らせた。

 稜也くんを見上げると、お局が愛してやまない可愛らしい笑みではなく、二人きりの時に見せるような笑みが返ってくる。

 その笑みに、心が満たされていく。もう、淋しくない。


 宣言どおり、あの日から稜也くんはわたしと社内で接触する事を躊躇わなくなった。

 他の社員さんや派遣さんと会話するように、ごくごく普通にわたしと話すように変わっていった。

 そして気がついたら、内藤さんは稜也くんの事をあまり口にしなくなり、飲み会でも稜也くんにべったりではなくなった。

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