挿話:馬鹿と過保護は紙一重(SIDE:B)
優実の実家は交通の便が悪いところにあるのでタクシーを呼んで貰い、最寄り駅までタクシーに乗る。
案の定、飲みすぎたようで優実は眠ってしまった。
目的地を最寄り駅から彼女のマンションに変えてもらい、こくりこくりと船を漕ぐ優実の揺れる体を腕で引き寄せて固定する。
こてんと頭を肩に乗せてくる姿が、普段の彼女からは考えられないくらい無邪気にも見えて思わず笑みが零れてしまう。
三月末の送別会の三次会あたりでも寂しいと言って泣き崩れていたのは、あれは飲みすぎのせいだったのかもしれない。
彼女の実家での、甘えて泣き出して抱きついてくる姿を思い出して、懸命に堪えても笑いで体が揺れてしまう。
今野のそんな様子など眠りについた優実は全く気付かずに、心地よい振動と体温に安心感さえ得ていた。
思いのほか上手くいった。
それが今野の感想だ。
彼女の実家に弟の裕人から呼び出された時、さてどうしようかと一計を案じたが、考えていたよりもずっとスムーズに事が運んだ。
実直すぎる優実の両親なのでかなり堅苦しい人を想像していたが、あの強烈な弟と妹の両親でもあるので、胆の据わった人であるという印象を抱いた。
娘の彼氏が同棲したいと言い出して、あっさりOKを出すとは思ってもいなかった。
そこまで上手く話が進めばいいな程度に軽く思っていたので、予想以上の収穫があったと言っていいだろう。
シスコンの裕人に牽制をして、優実に多少なりとも結婚を意識してもらえればいいだろうと思っていたので、その一歩先まで踏み出せたのは嬉しい誤算だ。
結婚という言葉に口ごもってしまうであろうことは、ある程度想定の範囲内だ。
あの優実が両親や兄弟の前で、突然振って沸いた結婚話にホイホイと食いつくわけが無い。
恐らくプロポーズだなんていう風にも思っていないだろう。
でも、それでいい。
ほんの少しだけ束縛の鎖を強めたかっただけなんだから。
自分のものだという確固たる確信が欲しかっただけだから。
いつか本当に彼女自身が「結婚したい」と思う日まで、ゆっくりとお互いの間に沢山の思い出を作り上げていけばいい。
出来れば間に誰も入る事が出来ないほど濃密に。
そこまで考えて、今野は僅かに首を捻る。
果たして自分はこんなにも嫉妬深く、独占欲の強い人間であっただろうかと。
答えは考えるまでも無く「否」だ。
では何故ここまで自分が狂わされたのだろう。
今野は自分の肩を枕がわりにして寄りかかって眠る優実の寝顔を見つめる。
飲酒のせいで頬は上気していて、穏やかな寝息を立てている。
それを見るだけで、笑みがこみ上げてくるのが自分でもわかる。
「彼女の何が特別だというの?」
同期であり、過去に僅かな期間だけ付き合ったことのある荒木に問いかけられた言葉を思い出す。
その時は「理由なんて無い」と答えたが、本当に無いのだろうか。
この寝顔を愛しいと思う。酔っ払って泣いて甘える姿も可愛いと思う。仕事に打ち込んでいる姿は、単純にすごいと思う。
そのどれかが欠けても、「加山優実」ではない。
彼女が彼女だからとしか、答えなんてないのかもしれない。
「恋に理由なんてないのでしょうね」
今野の答えに荒木は苦笑交じりに言ったが、それ以上もそれ以下も無いのだろう。
彼女が彼女だから、恋せずにはいられなかったのだろう。
会社の大部分の人間が優実を「鬼」だの「阿吽」だのと言っても、今野にとっては「可愛らしい女性」にしか見えないのだから。
「着いたよ」
マンションの前でタクシーから降り、未だに意識が眠りの世界に半分以上飛んでいる優実に声を掛ける。
合鍵でオートロックを開けてエレベーターに乗り、目的の階で降りて鍵を開ける。
二人で住むには多少狭い部屋。
既に週の大半は共に暮らす場所。
勝手知ったる様子で玄関脇の靴箱の上に鍵を置き、半分寝ている優実をベッドのところまで運んでいく。
意識はぼーっとしているようだが、自分で歩いてくれるので、重たい思いをしなくて済んだ。
「そのまま寝ると、苦しくなるから着替えたら?」
仰向けでベッドに横たわって目を閉じている優実の顔を覗き込むようにして声を掛ける。
うっすらと開いた瞳が今野の瞳と交わり、柔らかな笑みを浮かべる。
「りょうやくん」
両手を伸ばした優実は今野の首の後ろに手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
中途半端な体制を崩しかけた今野は、辛うじてベッドの端に手をついて堪える。
ただ彼の顔もまた、優実のそれと同じくらい蕩けそうに穏やかなものだった。
「どうしたの?」
今野の問いに、ふふっと優実が声を漏らした。
「だーいすき。ずっといっしょにいてね」
それはまるで「結婚する?」への答えのように今野には聞こえた。
だから敢えて彼はまるで誓いの言葉のような事を聞き返した。
「……死ぬまで?」
「うん。しぬまで」
「お爺さんになっても、お婆さんになっても?」
「そう。ほかのひとなんていらないの。りょうやくんいがい、ほしくない」
少しだけ頭を上げて優実は今野の唇にそっとキスをした。
「愛してるよ。優実」
優実の唇に軽くキスを落としながら思った。
そう遠くない未来、自分は本当に優実と結婚する日がくるのかもしれないと。
そしてついつい、眠らせてあげなくてはと思いつつも、彼女を目の覚めるような快楽の淵に追いやってしまうのだ。
翌朝、気だるい疲労感で起きる時間が遅くなった二人は予定変更を余儀なくされた。
遅い朝食兼昼食を終えてコーヒーを飲みながら、優実は食器を洗う今野に問いかける。
「今日どうする?」
「んー。そうだな。買い物でもいかない? 優実、アクセサリー欲しくない?」
疑問系だが、既に彼の中では決定事項と化している。
「どうせ指輪はつけてくれないだろうから、他のアクセサリーで構わないんだけれど、俺に買わせてくれないかな」
それだけで意味が通じたのか、優実が顔を真っ赤に染める。
それがどういう意味を持ってのものか、問いかけなくてもわかった。
「あの」
「んー?」
蛇口を閉めてタオルで手を拭きながら今野がマグカップ片手に優実のもとまでやってくる。
「もし買ってくれるなら」
そこまではスムーズに口にした優実だったが、そこで口ごもってしまう。
焦る事なく今野は答えを待ち続ける。
長いようでもあり、短いようでもある沈黙の後、消え去りそうな声で優実が言う。
「……小指にする小さなリングが欲しい」
どうして? と問いかけた今野に、優実は「小指はゆびきりの指だから」と答えた。
--ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。
最初は意味がわからなかったが、彼女なりに「約束のしるし」が欲しいのだと理解した今野は、彼の思惑以上に上手くいった今回の顛末に有頂天になった。