16:馬鹿と過保護は紙一重・3
「結婚?」
「そう。結婚する?」
真っ白になった頭で稜也くんに問いかけると、にっこりと微笑み返される。
心臓がばくばく音を立てているし、耳鳴りはするし、口の中は乾いているし、手に汗をかいている。
ふんっとでも言いたそうな顔でふんぞり返る裕人は、わたしが「うん」と頷くとは思っていない顔だ。
両親は口を挟む気は無いみたいだし、美乃里はキャーキャー横で騒いでいる。
そういう周囲の状況は冷静に観察できるのに、自分の頭が真っ白になっていて「結婚」に対する答えが出てこない。
出てこないのは、今まで一度も考えた事も無かったからだ。
「結婚?」
馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返した言葉に、くすりと稜也くんが笑みを漏らした。
「ゆっくり考えておいて」
ぽんっと頭を撫でられ、稜也くんの顔を見上げると「ん?」と返される。
ちゃんと答えなきゃって思うんだけれど、答えが出てこない。
喉に張り付いたみたいに、結婚するという問いかけに対する「うん」という答えも「ううん」という答えも出てこない。
本当はちゃんと話しあうべきだとわかっているけれど、今この状況で話すことは出来ない。
「あとで」
それだけで稜也くんには通じたようで、頷き返してくれる。
ふんっと鼻を鳴らしたのは裕人だ。
「所詮はその程度の関係って事だな」
あざ笑うかのような裕人の言葉が腹立たしい。まるでわたしが稜也くんの事を大して好きじゃないみたいな言い方で。
「その程度ってどういうこと?」
声は掠れ、予期していなかった結婚話に緊張しているせいか震えている。
そのせいか、裕人の余裕たっぷりの顔は変わらない。
「ゆうにとって、そいつはその程度だって事だろう?」
「……だから、その程度っていうのはどういう意味なのって聞いているんだけど」
「ふんっ。一生を共にする相手としては思ってないって事だろう。んなの、見てりゃわかる」
「勝手に決め付けないでよ。まだ付き合い始めたばっかりなのに、結婚するとかしないとかすぐに決められるわけないじゃないっ」
「ほー。相手はゆうと結婚してもいいらしいけどな」
挑発するような裕人の言葉で稜也くんを見上げると、困ったかのように眉を下げて目を細めてわたしを見ている。
もしかしたら「うん」と即答しなかったから稜也くんを傷つけてしまったのかな。
まるで大丈夫だよとか気にしなくていいよとでも言うように、稜也くんがポンっと肩を叩く。
「結婚が一緒に住むっていう事なら、一緒に住めたらいいなとは思っているもん。あんまり失礼なこと言わないでっ」
ぎょっとした顔で裕人が固まるのとは対照的に、美乃里が歓声を上げる。
「おねえっ、同棲します宣言っ!?」
「えぇっ!?」
「え?」
わたしと裕人が同時に同じ言葉を漏らした。
「そ、そんなつもりじゃ。それは短絡すぎで……」
慌てて訂正して稜也くんを見上げると、何故か黒いほうの笑みで微笑み返された。
どうして今黒くなるの?
にやりっていう表現がぴったりな笑みだ。
「もしお父さんとお母さんのお許しが出るなら、一緒に暮らそうか」
どうして断定形?
結婚って言われた時と同じように頭が真っ白になる。
確かに一緒に暮らしたいとは言ったけれど。
でもでもでも、こういう展開になるとは思ってなくって。
「えっと……」
言葉に詰まるわたしを他所に、稜也くんはお父さんと視線を合わせる。
「黙って一緒に住むことも可能ですけれど、彼女の性格を考えるとお父さんとお母さんに内緒でというのは心苦しいと思いますので、お許しを頂けますでしょうか」
稜也くんの問いかけに、お父さんは「うーん」とうなり声を上げて、台所に立ったままのお母さんに目を向ける。
お母さんは溜息を吐き出してから、お父さんの傍にやってくる。
二人は視線だけで会話を交わし、やがてふっと息を吐き出す。
「構わないよ。二人で決めなさい。一時の勢いではなく、きちんと話し合いをして決めなさい。その結論に口出しするつもりはないよ」
お父さんの言葉に続けるように、お母さんがにんまりと笑いながら話し出す。
「もともと優実が彼氏を連れてくるって聞いた時に、結婚の挨拶かなって思っていたのよ。だからほんの少し、肩透かしを食らった気分だわ。でもね、結婚するにしてもしないにしても、一緒に暮らしてみることが二人にとって良い経験になるとお母さんは思うわ」
「こんな奴に優実をくれてやるのか?」
口を挟んだ裕人だったが、お父さんに静かに諭される。
「お前が優実の行動を制約する権利はないよ。優実のことより、お前は自分の彼女をとっとと見つけて連れて来い」
「彼女くらいいるっ!」
「えー!!」
美乃里は目を白黒させて裕人を指差す。
「おにい、彼女なんていつからいたの?」
「……大学時代からずっといる」
「それなのにおねえやあたしを最優先にしてたの? よく愛想尽かされなかったね。すっごいいい人なんだね、彼女さん」
ある意味わたしの事なんかよりずっと驚愕の事実に、家族全員あっけに取られる。
言葉を失うというのは、まさにこのことだろう。
しばらくの空白の時間のあと、はっとした表情でお母さんが「ご飯にしましょう」と切り出す。
全員が金縛りが解けたように動き出し、けれど裕人だけが少し気まずそうな顔をしてダイニングテーブルに腰を下ろした。
裕人のまさかの彼女いる宣言や、わたしの同棲するかもという話題で食事中も食事が終わった後も盛り上がり、あっという間にお酒が減っていく。
楽しい雰囲気で飲んでしまったのと、昨日の夜レイトショーを見たせいで睡眠時間が短いのと、朝からずっと緊張しっぱなしだったのもあって、眠気がやってくる。そんなに遅い時間でもないのに。
こくりと首が傾いだのを気付いて、稜也くんが顔を覗き込んでくる。
「眠い?」
「んー。ちょっと」
「少し寝たら? それか今日は実家に泊まっていったら?」
「……少し寝れば大丈夫だから」
くすりと稜也くんが微笑んだのを確認してから目を閉じる。
「あーあ、寝ちゃった。おねえ、飲みすぎると寝ちゃうんですよ」
「みたいですね。以前一度見たことがありますよ」
「そうなんですか? 珍しい。おねえ、外では絶対に酔わないのに。あと……」
美乃里がなにやら稜也くんに説明しているのがわかったけれど、それ以上は耳に届く音を意識と一緒に遮断した。
「あまり遅くなるとご迷惑ですし、そろそろお暇します」
急に鮮明に稜也くんの声が耳に飛び込んできた。
はっとして重たい目を開くと、傍にいたはずの稜也くんの姿は無く、リビングのローテーブルの周囲に人の姿は見えなかった。
ゆっくりと体を起こすと、春物の薄いジャケットを羽織って帰り支度の済んだ稜也くんがリビングの入口付近に立っている。
横になったままその光景を眺めていて、はたと気がつく。
置いていかれちゃう。
体に掛けられた毛布が床に落ちるのも気にせず体を起こすと、こちらを見た稜也くんと目が合う。
「目が覚めた?」
稜也くんの問いかけに、裕人や美乃里、お父さんお母さんも振り返る。
「あら起きたの」
「起きないと思っていたのに、珍しい事もあるもんだな」
「今野さん、遅くなるからそろそろ帰るって」
「今日はゆうは泊まってけ」
あれこれと代わる代わる家族が話しかけてくるけれど、あまり耳には入ってこない。
その代わりに視界がぼやけてきて、膝の上に置いた手の甲にぽたんと涙がこぼれてくる。
「おいていっちゃうのぉ?」
稜也くんがぎょっとした顔でわたしを見つめ返す。それがまた胸を抉るように痛い。
「なんでそんなかおするのぉ」
ふえーんと、まるで子供のように泣き声を上げるわたしに、明らかに稜也くんの顔が固まった。
「きらいにならないで。おいてかないでよぉ」
「あー。ダメだね。おねえ完全にスイッチ入っちゃってる」
美乃里の冷淡な声と溜息に、ますます悲しくなってくる。
「ミイ、ひどいっ。どうしてそんないいかたするの?」
「もーっ。鬱陶しいっ。あたしもうしらなーい。パスパスパスっ。後は今野さん、よろしくっ」
そう言うと美乃里はリビングから出て行き、裕人も両親も溜息を吐き出しながら部屋から出て行ってしまう。
何で、何で追いてくの。
みんなわたしのこと嫌いなの?
一人残された稜也くんだけが、苦笑を浮かべながら近付いてくる。
「一緒に帰る?」
稜也くんのコートをぎゅっと掴んで引き寄せる。
「かえる。だからおいてかないで」
「じゃあ泣き止んで。そんな顔した優実を連れて歩けないよ」
ポンポンと髪を撫でる稜也くんにぎゅっとしがみ付く。
「おいてかないで。おいてかないで」
「置いていかないよ。大丈夫だよ」
背中に回った手がぎゅっと抱きしめ返してくれるのを感じて、ほっとする。
「ずっとそばにいてね」
「いるよ。約束するから」
ちゅっと軽くおでこにキスされるのを感じて顔を上げると、くくくっと稜也くんが肩を揺らして笑う。
「飲みすぎると泣き上戸って、優実面白いね」
「おもしろくなんかないもん。ひどーい」
さらにポロポロと涙を流すわたしを、稜也くんはあはははと声を上げて笑った。
「あとね、おねえって飲みすぎると泣き上戸になるんですよ」
「へえ。そうなんですか」
「しかも子供みたいに泣きじゃくるんですよ。超たち悪いんです。しかも絡む相手は気を許した相手だけ。だからおねえがもし泣き上戸スイッチ入って今野さんに絡んだら、超気を許してるって思っていいですよ」
「今まで大概俺かミイが餌食になってたけどな。飲みすぎると必ず寝るか泣くかするから面倒くさいんだよ、ゆうは」
「ああ、だから石川さんに彼女のことを頼んだんですね」
「あんな先輩でも、実態知ってれば、ゆうが飲みすぎんのセーブさせてくれるんじゃないかと思ってさ」
そんな会話が寝ている間になされていた事など、知る由も無かった。




