挿話:3月31日
この職場での最後の仕事を追え、ありがたい事に送別会を開いて貰えて、それも終わる。
普段なら飲み会に参加しない課長や担当長さんたちもみんな参加してくれていて、花束なんて貰ったら涙が出てきてしまった。
同じように花束を受け取った沙紀ちゃんは、うれし泣きみたいな顔をしていた。
二次会のカラオケも終わったところでお店に出ると、普段はあまり表情を変えない加山さんが顔を歪めている。
どうしたのだろう? そう思って声を掛けると、彼女の頬に涙が零れ落ちた。
「寂しいです、桐野さんがいなくなっちゃったら」
ぽろっと流した涙に、同性にも関わらず、きゅんっと胸が締め付けられた。
彼女との付き合いは長くは無い。
一緒に働いた期間は半年。
それに私が彼女に一方的に嫉妬していたせいで、最近まで個人的に話す機会をあまり持たなかった。
二月に彼女が同じ担当の今野くんと付き合っていると知ってからは、彼女に対しての悪感情が無くなったのだけれど。
どうしても「石川さんの好きな加山さん」は好きになれなかった。
そんな風に彼女と線引きをしていたというのに、こうやって辞める時に寂しいと泣いてくれるなんて。
思いも寄らなかった事態に、嬉しいやら申し訳ないやらで。
「ゆうちゃーん、泣かないでよぉ。あたしだって寂しいよぉ」
つられて沙紀ちゃんまで泣き出してしまう。
何故か二人に抱きつかれ、おろおろと周りを見回すけれど、ほほえましそうに見ているだけで助けてはくれない。
「二人がいなくなって、明日からわたしどうやって仕事していけばいいんですかぁ」
すんっと鼻を鳴らす音がして加山さんを見ると、彼女を苦笑しながら見ている今野くんと目が合う。
どんな時だって彼は彼女の事を見ているんだ。
二次会も終わってまばらに残った人たちは、どちらかというとしょっちゅう飲むメンバーばかりで、加山さんと今野くんの間柄を知っている人ばかりだ。
緘口令が引かれている現状だけれど、このメンバーなら大丈夫だろう。
「今野くーん、信田さーん。何とかしてください」
ヘルプを求める私に、今野くんも信田さんも苦笑で答える。
「無理無理。桐野ちゃん、あとは頼んだ」
信田さんは笑って手を振り、他の社員さんとの会話に戻ってしまう。
今野くんはというと、同期で明日から営業企画に移る寺内くんに何かを告げると、困ったような顔をして近付いてくる。
本当に困っては……無いように見える。いつもどおりの笑顔のせいで。
「どうしたんですか?」
「二人とも泣いちゃって」
ふえーんと泣き声を上げる沙紀ちゃんと、はらはらと涙を零す加山さん。
対照的な二人だけれど、どちらも別れを惜しんでくれているというのは伝わってくる。
ふーっと今野くんが息を吐き出すと、びくっと加山さんの肩が揺れる。
「飲むと泣き上戸になるんですか? 加山さん」
「……そんなに泣いてません」
いつもよりもずっと感情的な声で否定した加山さんに、くすっと今野くんが笑みを漏らす。
「はいはい。でも桐野さんが困ってますよ」
「えっ。あ、はい。ごめんなさい、桐野さん」
ぱっと離れた加山さんは、アイメイクが崩れることもいとわずに零れていく涙を拭う。
「あー。こするとパンダになりますよ」
見かねたように今野くんが加山さんの手を掴み、代わりにハンカチを手渡す。
しょうがないなと口にするけれど、絶対にそうは思ってないだろうなと彼の口調の柔らかさに感じる。
「帰ります?」
「帰りませんっ。だってこれでお別れしたらもう一緒に仕事できないんですよ。寂しいじゃないですか」
ふっと笑った今野くんが、くしゃっと加山さんの髪を撫でた。
「わかりました。最後まで付き合いますから、あんまり飲まないで下さいね」
ぽんっと加山さんの髪を撫でた後、返事も聞かずに今野くんは寺内くんのところへ戻っていく。
いつの間にか私に抱きつく腕を緩めていた沙紀ちゃんが、涙に濡れた顔で笑みを浮かべる。
「ラブラブだなぁ。ゆうちゃんと今野くんは」
からかうような口調に、加山さんが顔を真っ赤に染める。それこそおでこまで真っ赤じゃないかってくらい。
「そんな事無いです。普通です、普通っ」
きゃーきゃー言いながら頬を染めて否定する加山さんからは、鬼だとか言われている片鱗は全く感じない。
まだ飲もうかとお誘いが掛かったけれど、明日から新しい職場に行く事になっている私と沙紀ちゃんは三次会でさよならして終電前に帰ることにした。
そのかわりに週末にでもまた「いつものメンバー」で飲もうと約束して。
結局飲み会は全員明日仕事だからお開きってことで、駅で別れるという場面になって加山さんは一度止まった涙を再び零れさせる。
「絶対にまた飲みましょうね。今週末空けときますからね!」
いつになく強引な様子の加山さんに「楽しみにしてるね」と返すと、涙の量が増えていく。
加山さんの隣に立っている今野さんがポンっと彼女の肩を叩くと、加山さんの表情は一気に崩れる。
「やっぱり泣き上戸ですね、加山さん」
「違うもん。寂しいんだもん」
「はいはい。でも一生の別れじゃないんだから、ちゃんとさようならしましょうね」
まるで子供に言い聞かせるかのような口調の今野くんの腕を加山さんが掴み、こくりと首を縦に振る。
「お疲れ様でした、桐野さん。また必ず会いましょうね」
「うん。約束ね」
私の答えを聞いて更に涙を流した加山さんを、今野くんが腕の中に引き寄せた。
うわー。うわー。うわー。
すごい。生で人のラブシーン初めて見た。
硬直する私の事など気にせず、今野くんがとんとんとんっとリズミカルに加山さんの肩を叩き、加山さんは今野くんに縋るように今野くんの両腕を掴んでいる。まあ、その分だけ二人の間に隙間はあるけど。
いやいや、でもさ。
少し自重しようよ、二人ともっ。
「あーあ。ホント飲むとゆうちゃんは今野くんラブ丸出しになるよね」
くすくすと笑い声を上げるのは沙紀ちゃん。三次会前の涙は既にどこかに吹き飛んだ様子で笑っている。
「酔うと面白いよね、加山さんって」
そんな評価を下すのは沙紀ちゃんの彼氏の信田さん。
沙紀ちゃんに業務以外で絡む事は無いみたいだけれど、こうやって気がついたら飲み会なんかでは自然と傍にいることが多い。
「普段は全く興味ありませんって顔してるよね、加山さん。お局が勝手に誤解して加山さんいびったって周囲が思うくらいにクールに今野に接してるのが嘘みたいだ」
更に付け足した信田さんに、うんうんと沙紀ちゃんが首を激しく縦に振る。
「あたし心配だなー。どっかでボロが出るんじゃないかって。ダーリン、しっかりゆうちゃん守ってあげてね。同じ担当になるんだし」
「わかってるよ。沙紀の大事な友達だもんな」
「わかってるなら、よろしーい!」
そう言ってふんぞり返る沙紀ちゃんの事を、信田さんは笑って見つめている。
触れるわけでもないけれど、信田さんが沙紀ちゃんを大切に想っていることは瞳の優しさだけで伝わってくる。
沙紀ちゃんも加山さんも、いい恋を見つけたんだろうなぁ。
それに引き換え私って……。つくづく男見る目ないなあ。
見た目と口の上手さだけで石川さんの事好きになってさ。
あーあ。
新しい職場行ったら、今のこの気持ちを完全に振り切るんだ。その為の転職なんだし。
「また週末に会おうね。私、電車そろそろやばいから行くね」
「うん。またね、桐野ちゃん」
「またね、沙紀ちゃん。加山さん」
手を振ると、沙紀ちゃんはぶんぶんと全身を使って、加山さんは真っ赤に目を腫らした顔で小さく手を振り返してくれる。
「またね」
もう一度だけそう言うと、仲の良さそうな二組のカップルに振り返らず、大急ぎでホームへと駆けていった。




