13:恋心の行方・4
営業課の部屋に戻ると、信田さんが沙紀ちゃんに何かを伝言してからやってくる。
「今野、少し時間いいか?」
「はい」
「加山さん、この後病院行って貰える?」
「え? 病院ですか?」
聞き返した私に、念のため診断書を貰ってくる事。
費用はとりあえず立て替えておいて欲しいという事。
派遣会社には今の時点では連絡しないでおいて欲しいという事。
そういう事を理由も含めて説明して、病院の場所は沙紀ちゃんに聞いて欲しいと言い残して、信田さんは稜也くんと共に営業課の部屋を出て行った。
残された私のところに、沙紀ちゃんがやってくる。
「今ならまだ午前中の診療間に合うから。多分整形外科でいいと思うんだけれど」
地図をプリントアウトした紙を手渡されるので、素直に受け取る。
病院に行けといわれても、会社の傍のどこに病院があるかわからなかったから。
「本当は一緒に行ってあげたいんだけれど、そういうわけにもいかなくて。ゴメンね」
「ううん。大丈夫だから。心配掛けてごめんね」
沙紀ちゃんに謝り返すと「ゆうちゃんは何も悪くないんだから謝んなくていいんだよ」と言われる。
沙紀ちゃんだけじゃなく、きうちゃんも、桐野さんも、出水さんも、派遣のみんなが「大丈夫大丈夫」と笑ってくれる。
そこに一担の社員さんたちが混ざり「早く病院行って来い」とか「何も気にしなくていいから」とか言ってくれる。
気落ちしないようにと気を使ってくれる事が嬉しかった。
こんな騒ぎを起こしてしまって迷惑ばかり掛けているのに。
「本当にすみません。ありがとうございます」
頭を下げて笑顔で答えると、ぽんっと石川さんに頭を撫でられる。
「とっとと病院行って来い」
「はい」
石川さんは眉を寄せてわたしのおでこの辺りを指でなぞっていった。
「お前一応女なんだから、顔に傷残すんじゃねーぞ」
「一応は余計です」
「うっせ。とっとと行ってこい」
邪険にされているのかと思うような言い方だけれど、どことなく石川さんは苦虫を噛み締めるかのような顔をしていた。
病院が終わって会社に戻ったのは、もうすぐお昼の休憩時間が終わるっていう微妙な時間だった。
初診というのと、診断書を書いて貰う必要があるというのと、病院がちょっと遠いという事もあり、戻ってくるのがこんな時間になってしまった。
今日はお昼抜きかななんて考えながら営業課の部屋に戻ると、室内にはぱらぱらとしか人がいない。
まだみんなお昼から戻っていないのだろう。
けど、残っている人の中に稜也くんがいる。今日は電話当番じゃなかったはずなのに。
「お疲れ様です」
自分の席に戻ると、稜也くんがいつもの「りょーちゃんスマイル」で話しかけてくる。
さっき喫煙所で話していた「もう迷惑は掛けない」とか「諦めたら」とかって話していた事が胸に引っかかっている。
けれどそんな事とても聞けるような雰囲気じゃない。
今、初めて気がついた。
人懐っこいはずの「りょーちゃんスマイル」は、人と線を引く為のものなんだ。
そして今、稜也くんは私と間に距離を起きたいんだ。
そう思ったら、ぎゅーっと胸が掴まれるように痛くなる。
「一時になったらお昼出るんで、一緒に行きましょう」
どうして笑えるんだろう。
そう思ったけれど、問いただす事なんて出来るわけもない。
「はい。わかりました」
そう答えるのが精一杯だった。
椅子に座ろうとすると、後ろから信田さんに声を掛けられる。
「加山さん、診断書取れた?」
「はい。全治一週間らしいです」
「預かってもいいかな」
鞄から病院の封筒に入れられた診断書を取り出し、信田さんに手渡す。
傷は大したものではなく、打撲と切り傷合わせて全治一週間くらいかなと病院で言われた事も付け加えて。
封筒は開けずに、信田さんは「預かります」とだけ言い残して、自席へと戻っていく。
ふと稜也くんが視界の端に映る。
その顔には「りょーちゃんスマイル」なんてものは無く、じーっとパソコンの画面を睨みつけている。けど、キーボードに乗せられた指は動く事なく、じっと一点を見つめているだけ。
信田さんと話している間に、営業課の派遣さんたちや一担の社員さんたちが戻ってきたので、病院で大したこと無いとお墨付きをもらったことを話す。
それらしくガーゼで傷口を保護しているせいか、痛くない? と聞かれたりするけれど、痛みは全然無い。
まだお昼を食べてない事を話すと、食べておいでと快く言ってくれるので、ほっとする。
「お昼、行きましょうか」
そう言って立ち上がった稜也くんは、私を見てはいなかった。
お昼をどこで食べようかという話になって、前に石川さんと行った事がある夜は料亭になるビルの地下にある日本料理のお店にしようと稜也くんが言う。
一番混む時間帯を外しているので、待たずに個室の一つに通される。
メニューを見て注文が終わると、稜也くんがふーっと溜息を吐き出す。
あまり顔色が良くないように見えるし、病院から戻ってきてからずっと無表情な感じだったのも気になる。
「ごめん。俺がずっとはっきりしない態度でいたから、優実が怪我することになって」
暗い表情は自分を責めていたからなのかもしれないと、今になって気がついた。
いくら「大丈夫だよ」って言っても稜也くんはきっと気にしてしまうのだろう。
「稜也くん。悪いのは稜也くんじゃないよ」
テーブルの上に置かれた稜也くんの手を握り締める。
悪いのは稜也くんじゃない。それは絶対だ。
「大丈夫。こんな怪我なんてすぐ治るから。ね?」
「んー」
同意するというよりは空返事をして、稜也くんは空いているほうの手で私のおでこに触れる。
「けど、傷つけたのは事実だから」
「うん。お局がね。これ、稜也くんがやったわけじゃないでしょ。だから稜也くんのせいじゃないの」
事実を伝えたのに、稜也くんは苦しそうに顔を歪める。
「だけど……」
そう言って口篭ってしまった稜也くんの手を離し、掘りごたつ式の席から立ち上がって稜也くんの隣に座る。
真昼間から恥ずかしいとは思ったけれど、稜也くんの首に両手を回して抱きついた。
稜也くんが喫煙所で話したときからずっと距離を置きたがっているような気がしたから。
もう迷惑は掛けないとか。諦めるとか。そういう事なんじゃないかなと思って。
背中に回った稜也くんの手は、私を引き離すかのような動きをするけれど、しがみ付くようにして首を横に振る。
「優実」
咎めるように呼ぶ稜也くんの声に首を横に振る。
呆れたかのような溜息が聞こえたけれど、聞こえないフリをした。
そうしないと、稜也くんがどこかに行ってしまうような気がしたから。
「優実」
もう一度呼ぶ声は、まだ少し硬さは残っているものの、いつものような優しい声だった。
少し力を緩めて、稜也くんの顔が見えるようにお互いの間に空間を作る。
「もう二度と、こんな風に傷つけたくない。だから会社では距離を置きたい。構わない?」
「……別れるって言わない?」
恐々問いかけると、稜也くんがふっと頬を綻ばせる。
「それも考えたけど無理っぽい。優実が傷つくのは嫌だけれど、手放すのも嫌なんだ」
きゅっと背中に回された腕に力が篭る。
「ごめん。こんな事に巻き込んで」
「しょうがないよ。お局は稜也くんが自分とお付き合いしてくれない限り、ずっと変わらないよ」
「あ。それは無理」
くすくすっと笑い声が狭い室内に響く。
いつもの「りょーちゃんスマイル」でもなく、自然な笑みが稜也くんの表情に浮かんでいる。
ぎゅっと抱きしめられて、稜也くんの吐息が耳の傍に掛かる。
「考えたんだよ。別れたほうが優実は傷つかないだろうなとかさ。佐久間さんしつこいから、また優実に何かするんじゃないかなと思って」
「うん」
確かに。それはありえるかも。
あの怒りようでは、何かまたしてこないほうがおかしい。
「けど、それなんか方向違うなと思った。こうやって優実を抱きしめたりする権利を放棄して守ってるつもりになってても、自己満足にもならない自己犠牲でしかないって、優実が腕の中に来てくれたからわかったよ」
耳元で囁いていた唇が、頬に押し当てられる。
「滅多に自分から動かないのに、こういう時は積極的なんだね、優実」
からかうような言い方に、ぽっと頬が熱くなる。
咄嗟に手を離そうとすると、逆にぎゅっと腕の中に閉じ込められる。
「怪我させてごめんね」
もう一度謝りの言葉を口にするから、もう謝らなくていいのにって言う為に顔を上げると、稜也くんの唇が触れる。
唇を舐められ、口をそっと開くと、空いた隙間から稜也くんの唇が入り込んでくる。
歯列を舐め、舌を絡み合わせ、この後に続く何かを想像させるようなキスをするから、堪えようと思っても自然と甘い吐息が漏れる。
「誘惑禁止」
キスの合間にそんな事を稜也くんが囁くけれど、絶対誘惑してるの私じゃない。
唇の動きに翻弄されていると、トントンっと部屋の扉を叩く音がする。
びくっと飛び上がるように体を動かした私を腕の中から解放した稜也くんは、肩を揺らして笑っている。
「ひどい。そんなに笑わなくてもいいのに」
けれど、何が面白かったのか稜也くんは「はははっ」と声を上げて笑っている。
「俺、よく諦めようなんて思えたなって思ったらおかしくなった。絶対無理だ。別に優実を笑っているわけじゃないよ」
声を上げて笑う稜也くんに、返す言葉が見つからなかった。
とりあえず別れるとかって事にならなくて良かった。
私は多分、自分で思っていたよりもずっと稜也くんの事が好きなんだ。
照れたりして上手く伝えられない事のほうが多いけど、きっとそれは間違いない。