11:恋心の行方・2
食事を終えて化粧直しの為トイレに行き、なんか妙な視線を感じるので振り返ると、永遠の二十五歳がそこにいた。
目があった瞬間にぱっと視線を逸らしたけれど、あれは間違いない。
お局佐久間、四十五歳だ。
こんなところで遭遇するなんて(会うとは言いたくない)運が悪いとしか言いようが無い。
ぱぱっと軽くお化粧を直して、ソファでコーヒーを飲んでいる稜也くんのところに小走りで戻る。
「ねえっ。ヤバイっ」
「どうしたの?」
慌てて声を掛けたわたしに、稜也くんはのんびりとした口調で答える。
そんな悠長にしてる場合じゃないんだってばっ。
「佐久間さんがいた」
小声で早口で言うと、ぴくっと稜也くんの頬が引きつる。
「まじで?」
「まじ。まじ。本当にいたのっ。どうしよう」
「どこにいた?」
「……トイレ」
返答を聞くと、稜也くんがトイレのあるほうに目を凝らす。
私も目を凝らしてお局を探すけれど、その姿は見えない。
「じたばたしても仕方ないからね。ささっと買い物して帰ろうか」
コーヒーを飲み干して紙コップをトレーに置き、稜也くんが立ち上がる。
ぽんっと稜也くんが立ったままだった私の頭に手をのせる。
「大丈夫だよ。そんな不安そうな顔しなくても大丈夫だから」
「……うん」
だけど見つかったら稜也くんに迷惑掛かるんじゃないかな。
それに一担で働くのはあとちょっととはいえ、一緒に働くのにこれ以上風当たりが強くなっても辛いし。
「平気だよ。こんなに人が沢山いるんだから、そうそう見つかるもんじゃないって」
「そうかな」
「そうだよ。だから行こう」
トレーを持ち上げた手とは反対の手が、当然のようにわたしの手を握り締める。
きゅっと繋がれた指先から伝わる温かさと、見つかったときにまずいことになるからと手を繋ぐのをやめるんじゃなくって、不安を汲み取って繋いでくれる気持ちが嬉しくって、自然と頬が綻ぶ。
「一階のマーケットフロアを見にいこう。さっき欲しいって言ってたグラス、買う?」
トレーを戻し、手を繋いだままレストランを出る。一応周りを見回すけれど、お局の姿は見えない。
安心してほっと息を吐き出したのに気がついた稜也くんが、くすっと笑みを洩らした。
「そんな緊張しなくても大丈夫だよ。俺もちゃんと周り見てるし。気にせず買い物しよ。でもかえってこの方が気になって仕方ない?」
「うん」
繋いだ手を少し持ち上げて聞いてくる稜也くんに頷き返すと、ゆっくりと指が離れていく。
それが淋しいけれど、もしも見つかった時のことを考えたらこのほうがいいのかもしれない。
その後、ショールームで目星をつけていたものとマーケットフロアで気になったものを何点か買い、結局ソファは買わずに家具屋さんを出た。
今度またゆっくり見に来ようねと約束をして。
翌月曜日。
稜也くんは午前中は外出で直行。
隣の席に稜也くんがいないのは、何となく淋しい感じがする。
いつもどおりパソコンを起動して、本社からの連絡などをイントラネットで確認する。
広報部から出ている資料のPDFに目を通していると、始業時間ぎりぎりの時間にお局が出社してくる。
「おはようございます」
近付いてくるお局に挨拶をするが「フン」という返事が返ってくるだけだ。
これはいつもの事なので気にしない。
再びパソコンに目を戻すと、ガンっと椅子に衝撃がぶつかって、椅子ごと体が揺れる。
お局の鞄がぶつかったのかと思って(これもよくある)目を上げると、お局がいつも以上に激しい視線をわたしに向けている。
「この。泥棒猫がっ」
言われた意味がわからないまま、しばしお局と見つめあう。
泥棒猫?
一体何の事なんだろう。仕事でまた何か難癖をつけてこようという事なのかな。
次に何を言われるのだろうと構えていると、お局の鞄が額の辺りにぶつかる。
「きゃっ」
悲鳴を上げたのは前の席に座っているきうちゃんだ。
今日は一体朝から何なんだ。
きうちゃんの声は始業前のざわついた部屋の中に響いて、しーんと部屋の中が静まり返る。
「立ちなさいよ」
「え?」
「立てって言ってんのよっ。聞こえないの!?」
お局の怒鳴り声が頭上から降ってきて、再び鞄が私の顔めがけて振り下ろされる。
咄嗟に手を顔の前に出して、何とか難を逃れるが、それはお局の怒りをさらに買ったようだ。
「何避けてんのよっ」
般若の形相とはこういうことかといわんばかりの顔で怒鳴り、再び鞄を振り下ろそうとしているお局の腕を四担長さんが止める。
「佐久間さん」
筋肉質な体型から発せられたドスの聞いた声に、びくっとお局が肩を揺らす。
四担長の村田さんの視線が穏やかとは言いがたいもので、私も体が強張って動けなくなる。
「どのような理由があろうと、そのような言動は社会人として不適切なものです」
低い声がお局を糾弾する。が、お局だって負けてはいない。
「この女が何をしたか知らないからそんな事言えるんでしょっ」
「いいですか。佐久間さん。わたしは、いかなる理由があろうとも、社会人としてその言動は不適切だと言ったんですよ。木内さん、加山さんを救護室に連れて行って」
「はいっ」
きうちゃんが飛び上がるように返事をして、机を回り込んで私の腕を掴む。
「加山さんっ」
ぐいっと引っ張るきうちゃんに引っ張られて席を立ち上がり、にらみ合うお局と村田さんの横をすり抜ける。
村田さんは立ち上がる私ときうちゃんを庇うように、佐久間さんと私の間に体を入れる。
「あの……」
「何も気にしなくていい。まずは顔を救護で見せてきなさい」
否とは言わせない強い口調に、はいと頷いてきうちゃんと一緒に救護室へ向かう。
鞄の金具があたったようで、引っかき傷のようなものがオデコに出来ていたが、それ以外に傷らしいものは何も無い。
暫くすると信田さんが救護室に入ってきて、きうちゃんに先に戻っているように促す。
心配そうに何度も振り返るきうちゃんに、信田さんは「大丈夫だよ」と声を掛けて笑顔を作る。
けれどきうちゃんがいなくなった途端、信田さんの表情は思いっきり曇った。
「何があったかのかな」
柔らかい信田さんの声は糾弾するようなものじゃない。
だけれど会社であんな騒動を起こしてしまって、申し訳なくて俯いてしまう。
しばらく沈黙が続き、信田さんがふっと息を吐き出す。
溜息とは少し種類の違うそれに、顔を上げて信田さんを見つめると、視線がぶつかりあう。
「答えられない?」
「いいえ。……いえ、はい」
曖昧な答えに、信田さんが腕組みをする。
「あまり穏やかな遣り取りではなかったでしょう。だから心配でね。加山さんを批難しようという意図は無いよ。だから安心して」
作り笑顔なのかもしれないけれど、信田さんがいつもどおりの穏やかは笑みを浮かべる。
ほっとして、やっと全身を強張らせていた力が抜ける。
「よく、わからないんです」
「わからない?」
「はい。いきなり怒鳴られて。泥棒猫って言われて」
「それは確かに意味がわからないね」
同意した信田さんが視線を救護室の先生(正確には違うのかもしれないけれど、先生と呼ばれている)に向ける。
「奥の部屋、お借りしても?」
「大丈夫ですよ。総務に用がありますので席を外します」
先生はそう言うと救護室を出ていく。
恐らく気を使って席を外してくれたのだろう。
その後信田さんが携帯で四担長の村田さんに電話をし、救護室にしばらくいる旨を伝える。
その際、一担主任の伊藤さんにも伝言を頼んでいたようだ。
会社に来たのに仕事もしてなくて、それどころか騒動を起こして周りを巻き込んで、私何してるんだろう。
けど、お局がいきなり突っかかってきたから。
どうして今日稜也くんがいないんだろう。ううん、仕事だってわかっている。
けれど彼の不在に心細さが増していく。