8:今とモト・2
人なんて、そう変わるもんじゃねえからな。
そう言ったのは石川さんだ。
けれど今、全く同じような事を別の人に言われるのはどうしてなんだろう。
「人なんてそう変わるものじゃないですよねえ」
荒木さんが耳に髪を掛けながらさらりと言うのを、ただ黙って聞いている。
桐野さんが困ったように曖昧な笑みを浮かべ、沙紀ちゃんは枝豆を口に放り込んでいる。
「ふーん。それは荒木さんの実感?」
口に放り込んだ枝豆を咀嚼しながら沙紀ちゃんが荒木さんに問いかける。それを荒木さんは表情を崩さず聞いている。
「そうですね。さっき『ああやっぱりね』って思ったので」
「さっき? 何かあったの?」
柔らかな桐野さんの声に、荒木さんは「ええ」と簡潔に答える。
荒木さんはちらっと視線を流すのでその視線を追うと、その先には荒木さんの同期の寺内さんと稜也くんが座っている。
もしかして稜也くんの事なんだろうか。
何となく直感でそう思った。
「加山さん、今野くんと付き合っていてもつまらないんじゃないですか?」
「え?」
何でいきなり?
キョロキョロと周りを見回し、それから沙紀ちゃんと桐野さんの二人の顔を見る。
あの日いた沙紀ちゃんは稜也くんと付き合っていることを当然知っているけれど、桐野さんにはまだ話していない。
驚いた顔の桐野さんと、はーっと溜息を吐いた沙紀ちゃん。
「ああ、桐野さんご存知無かったんですね。てっきり知っていらっしゃると思っていました。すみません」
余裕の笑みでそう告げる荒木さんに戸惑うばかりで、どうしようどうしようで頭がいっぱいになる。
暫く間を置いた後、周囲に聞こえないようにと配慮をしてくれた小声で桐野さんが「そうなの?」と聞いてくる。
答えられずにいるわたしに代わって、沙紀ちゃんが首を縦に動かす。
それだけで桐野さんには伝わったようだ。
「ごめん。私、席外そうか?」
気を使ってそう言ってくれた桐野さんに首を横に振って「いいえ」と答えると、少し桐野さんが表情を緩める。
「突然だったからびっくりしちゃった。ゴメンね。それで荒木さん、さっきの話だけど、どうしたの?」
この中で一番年長の桐野さんが、あまり穏便とは言えないような内容だった話について荒木さんに問いかける。
荒木さんはいつもどおりの笑みを浮かべ、小首を傾げてわたしを見る。
その仕草が「女の人」なんだなって思う。色気があるというのかな。ああ、胸元が大きく開いていてそこが気になるからっていうのとは別に、雰囲気が。
「いいえ。あっさりとした人だからつまらないだろうなと思って」
「それは、同期として、彼があっさりとしてつまらない人間だと思っているからってこと?」
沙紀ちゃんの言葉には若干の棘が含まれている。目線もあまり好意的とは言えないものに変わっている。
けれどそんな棘なんて荒木さんは全く気にしていないようだ。
「いいえ。違いますよ」
「それは今ここで話す必要がある事だとは思わないけれど。何でそんな事ゆうちゃんに聞くの?」
続けざまに沙紀ちゃんに棘まみれに問われても、荒木さんはふふっと笑みを浮かべるだけだ。
何だろう。
ぞくっと背筋が寒くなった。
沙紀ちゃんはあからさまに不機嫌そうだし、桐野さんは困惑している。けれど荒木さんは余裕綽々で笑っている。
「だって、さっきもそうですけれど、あの人全く加山さんに興味を示さないじゃないですか。だから相変わらずだなあと思って」
「相変わらず?」
口の中が妙に乾いているけれど、声は普段と同じものが出た。
ばくばくと心臓が音を立てているし、ありえないくらい全身に寒気を感じているのに。
多分、これから聞きたくないことを聞くんだという予感はある。
「ええ。だって束縛なんてしないし、されるのも嫌がるし。ていうか他人に興味ないでしょう。だから一緒にいてもつまらないだろうなと思って」
「……それは」
思わず言葉を飲み込んでしまったわたしに、荒木さんは同情するかのような表情を浮かべる。
「私もそう続かなかったんで、人の事言える立場ではないんですけれど、結構冷たい人だからそのつもりでいたほうが良いですよ」
ばくん。
心臓が思いっきり撥ねた。
「ありがとうございます。荒木さん」
それだけ言うと、煙草の入ったケースをぎゅっと握り締める。
「いいえ。本当に相変わらず変わらないなあと思っただけなので。ああ、他意はないですよ。今はただの同期だと思ってますし」
にっこりと笑う荒木さんに対し、引きつった笑みを返すのが精一杯だ。
他意は無いと荒木さんは言うけれど、ビシビシと伝わってくるのは「敵意」だ。
「そうなんですね。ちょっとトイレいってきます」
煙草ケースを手に持って立ち上がると、沙紀ちゃんが立ち上がる。
「一緒に行こうか?」
「ううん。大丈夫。それより沙紀ちゃん、あっちで信田さんが呼んでるよ」
手招きしている信田さんのことを沙紀ちゃんに教えると、沙紀ちゃんがチっと舌打ちをする。
将来の夫にそれはありなの? 沙紀ちゃん。
不機嫌そうな沙紀ちゃんを振り切り、トイレで鏡を覗き込む。
冴えない顔。
荒木さんに比べたら美人でもないし、胸も無い。
まだ始まったばかりだけれど、荒木さんの言うとおりあっさりと終わりが来るのかなあ。それは嫌だなあ。
あの荒木さんでもダメなんだから、きっとわたしなんて……。
鏡の中の自分があんまりにもみっともなくって、振り払うようにトイレを後にする。
とぼとぼと歩いてお店の外に出て、誰もいないそこで「はーっ」と思いっきり溜息を吐き出す。
何で今こんなに泣きたい気分なんだろう。
でも泣いたって何も解決しないしなあ。
気分転換しよう。
そう心に決めて、残り少なくなった煙草を買いに行くと沙紀ちゃんにメールを送る。
あまり戻ってこないと心配するだろうし。
エレベーターホールで下りのエレベーターを待っているものの、一階で大勢乗り降りしているのか、一向にエレベーターの表示が一階から動かない。
その間に、どんどんおなかの中にもやもやが溜まっていく。
大した時間じゃないのに待つ時間が嫌で、ここは七階だから降りるの面倒だけれど、階段で降りることにする。
角のコンビニまではそう遠くないけれど、今はこの空間から立ち去りたい気分だった。
荒木さんの顔も、稜也くんの顔も見たくない。
沙紀ちゃんに何か優しい言葉を掛けられたら、口からは醜い言葉が飛び出してきてしまいそうだ。
誰も使わない階段をとんとんと規則正しい音を立てながら降りていくと、丁度四階のあたりでどどどどどという激しい足音が上から近付いてくることに気付く。
なんだろうと思って上を見て足を止める。
もし従業員の人が急いでいるなら邪魔になるかもしれないしと、四階と三階の間の踊り場で足を止める。
「優実っ」
想像に反して、稜也くんが慌てて降りてきてわたしの腕を掴む。
「どうしたの?」
あまりの普段とは違った様相に問いかけると、はーっと思いっきり稜也くんが息を吐き出す。
「それはこっちが聞きたいよ。何があった?」
「どうして?」
「どうしてじゃないよ。鹿島さんが優実が一人で買い物行ったみたいだからって言うから出てきたら、エレベーターの下ボタンは押してあるのに優実はいないし。どこに行ったのかと思って焦った」
一気に言い切ると稜也くんがぐいっと腕を引っ張るから、ぽすんと稜也くんの腕の中に引き込まれる。
「いなくなるなよ、急に」
ぎゅっと抱きしめられると、いつもよりずっと早い稜也くんの心音が聞こえる。
本当に急いで慌てて追いかけてきたんだって、何よりもはっきりと伝わってくる。
「ごめんね」
「ダメ。謝っても許さない」
キツイ口調に顔をあげると、稜也くんはあからさまに不機嫌そうな顔でわたしを見つめている。
「石川さんと中抜けする約束でもしてた?」
「……え?」
ありえない問いかけに瞬いて稜也くんを見上げるけれど、稜也くんの不機嫌そうな顔は全く変わらない。
「え、じゃない。さっきも石川さんと仲良さそうにしてたし、昼間だって二人でコソコソ何か話してたし」
「普通に話してただけだよ。コソコソだなんて」
「じゃあ何で石川さんが優実に触るの。俺、優実が他の奴に触られるんのすっごく嫌なんだけど」
「ごめんなさい」
「ごめんとかいらない」
謝っても一刀両断って感じで、全く聞く耳を持ってくれない。
どうしてそんなに怒っているのかもわからなくて、何を言っても聞いてくれ無い気がして、ただ稜也くんを見つめる事しかできない。
暫くの間、お互い無言で見つめあっていると、ふっと稜也くんが息を吐く。
それと同時に、彼の纏う空気が和らぐ。
「何で一人で買い物行こうと思ったの」
仏頂面の稜也くんに問いかけられるものの、答を口に出すのは憚られる。
荒木さんに嫉妬して泣きたくなったから気分転換したくなった。なんて言えないよ。
「……気分転換。それに煙草一本しか無かったから買おうかなって思って」
「何で気分転換?」
声の端々に、まだ怒りが収まらないというのが窺える。
答えに口篭っていると、稜也くんがとんっとわたしの体を壁に押し付ける。彼の両腕と体に囲まれて、逃げ場なんてどこにも無い。
視線を彷徨わせると「俺を見て」と稜也くんが言う。
視線を合わせて彼を見つめると、彼の瞳は怒りで燃えるかのようだ。こんな感情的になるところなんて見たこと無い。
どうしてそこまで彼を怒らせてしまったのだろう。
「ごめんなさい」
理由はわからないけれど、怒らせてしまった事が申し訳なくて謝ると、壁をゴンという音を立てて稜也くんの拳が叩く。
「ごめんはいらない。俺は聞いてるんだけれど。マジで石川さんと約束してた?」
「してないっ。本当にしてないから。ただ居たたまれなくって出てきただけだからっ」
あまりの雰囲気に言いたくなかったことを口走ると、稜也くんが「ん?」と話をするように暗に促してくる。
誤魔化しとか、一切通用しそうに無い。
「荒木さんが……」
「荒木が?」
「稜也くんと一緒にいてもつまらないだろうって」
「何で」
「束縛しないしされないし、他人に興味ないからって」
「余計な事を」
大分口が悪くなっている稜也くんがチっと盛大な音を立てて舌打ちする。
「荒木の言う事に耳を貸す必要無いから。それで優実は逃げ出したくなったって事?」
逃げてなんかないつもりだけれど、そう言われたらそうなのかな。
稜也くんの勢いに負けて、うんうんと首を縦に振ると、稜也くんは溜息を吐き出しながらわたしの肩におでこを乗せる。
「次にこういう事あったら、まず俺に言ってね。一人で抱え込まないで」
「うん」
「頼むから、俺から逃げないで」
顔を上げずに呟くように言った稜也くんの言葉は、じわっと体の中に広がっていき、そうじゃない。そうじゃないって、わたしの心が叫びだす。
「違うの」
「違う?」
顔を上げた稜也くんと視線がぶつかる。
言いたくないけれど、ちゃんと言わなきゃ。きっとこのままじゃダメな気がする。
「稜也くんから逃げたんじゃないの。自分から逃げたの」
「自分からって?」
稜也くんの指先が頬に触れて、それから髪を梳くように撫でていく。
その指先が気持ちよくて目を閉じる。
たくさんのモヤモヤとした嫌な気持ちが、指先一つで溶けていきそう。稜也くんの指は、まるで魔法の指だ。
「怖くて。荒木さんみたいに綺麗でもないし、胸もないし。わたしなんかって思ったら居たたまれなくて」
くすっと稜也くんが笑みを洩らし、耳元で囁く。
「それでも俺は優実しか欲しくないよ」
ぺろんと耳を舐めるから、うひゃぁと色気の無い叫び声を上げてしまう。
「優実」
優しいその声はキスの合図。
指先が再び頬を撫で、顎を持ち上げるように動く。
瞳を閉じると、柔らかな唇が押し付けられ、心の中の霧が晴れていくようだ。
「一緒に煙草買いに行こうか」
ぎゅっと握られた掌から、稜也くんの体温が伝わってくる。
「あのさ、優実は自分なんてって言うかもしれないけど、俺にとっては特別だからね」
コンビニに向かって歩きながら言った稜也くんの言葉が、ほんの少しだけわたしに自信をくれた。