7:今とモト・1
3月上旬の木曜日。
「もうあと少ししかゆうちゃんと仕事帰りにしか遊べないんだから、たまにはあたしに貸してっ」
と喫煙所で稜也くんに詰め寄ったのは沙紀ちゃん。
苦笑交じりに「いいですよ」と言った稜也くんに対し、沙紀ちゃんがガッツポーズで笑みを浮かべる。
そんな二人の遣り取りを、わたしと信田さんは何とも言えない笑みで見つめている。
「悪いね」
そんな風に謝りの言葉を口にした信田さんに対し、稜也くんは首を横に振る。
「いいえ。別に僕は束縛して行動を制限したいわけじゃないですから。彼女も鹿島さんと一緒にいると楽しそうですし」
ね? と稜也くんに微笑まれ、頷き返すと沙紀ちゃんに何故か抱きつかれる。
「もーっ。ゆうちゃんってば可愛すぎるんだからっ」
「お前はレズか」
冷ややかなツッコミを入れるのは石川さん。
何となく気がつくと(というかメッセンジャーで沙紀ちゃんと煙草に行く約束を取り付けると、いつの間にかこのメンバーが揃っている)5人でこうして時間を過ごすことが多い。
「いつものメンバーで飲むけど、お前らもそれに来る?」
わたしの首に両腕を回したままの沙紀ちゃんが、石川さんに少々不機嫌そうな顔を向ける。
「んー。それも悪くないんだけれど、ゆうちゃんどうする?」
「わたし、この間言ってたタイ料理のお店に行きたい……かも」
思いっきり石川さんへの拒否を顔全体で表していた沙紀ちゃんに提案すると、沙紀ちゃんがいひひっと笑い声をあげて、わたしから体を離す。
「いいねー。そうしよっかー。じゃ、そういうわけで花のない飲み会を楽しんでくださいね、石川さんっ」
「お前らが加わっても花にもならねえよ」
「あーっ。そういう事言いますー? もー。絶対に飲み会になんて行ってあげないんだからねっ」
ふんっと顔を背けた沙紀ちゃんの肩を信田さんがポンっと叩き、自分の腕時計を指し示す。
「沙紀ちゃん。そろそろミーティング始まる時間だから資料用意してくれる?」
「はいはーい。じゃあ戻りますよ、信田さん」
くすっと笑っただけで信田さんは何も言わずに沙紀ちゃんに着いて行く。
うーん。結婚前提で付き合っているって知っているけれど、こうやって二人でいるのを見ても、全然そういう雰囲気を感じさせないんだよね。
あくまでも仕事上のお付き合いっていう雰囲気で。
わたしも稜也くんの事、そういう風に上手く誤魔化せているのかな。
ふいに顔をあげて稜也くんを見ると、稜也くんが手に持っていた缶コーヒーを目の前に差し出す。
「飲みます?」
「……そんなに物欲しそうに見てました?」
くすくすっといつもどおりの笑みを浮かべた稜也くんは、完全に「今野さん」だ。
「そんなこと無いですよ。はい、どうぞ」
目の前に差し出された半分くらい入っているコーヒー。
窺うように見つめると、ちょっと意地悪そうな顔をしてわたしを見下ろす。
「いただきます」
一口飲むと、稜也くんとしては珍しく甘いコーヒーだ。
「あ。もしかして甘くて飲むの嫌になったから人に飲ませようとしてますね?」
「そんな事無いですよ。じゃあ先に戻ってます」
くしゃっと髪を撫でてから稜也くんが喫煙所から出て行くのを見送ると、煙草をふかせている石川さんと目が合う。
石川さんが少し眉を上げてわたしを見る。
「仲いーじゃん」
「そんな事無いですよ。普通です」
なるべく淡々と答えて、稜也くんから貰ったコーヒーに口をつけると、石川さんがふーっと煙を窓に向かって吹く。
「まあ人なんて、そう変わるもんじゃねえからな」
意味深なその言葉が自分に向けられたものだとは思わず、曖昧に頷くことしか出来なかった。
その意味は、金曜日に知ることになる。
金曜日。
稜也くんはまたもや沙紀ちゃんの勢いに押され、石川さん流に言うならば「いつものメンバー」の飲み会に連行される。
場所は居酒屋。
メンバーはわたしや沙紀ちゃんを入れて、営業の15人。
その時によってメンバーの増減はあるけれど、大体これが上限かなっていう人数。
独身者たちが夕食食べるついでに飲んじゃおうぜーから始まったのが、事のあらましらしい。
結局飲めれば何でもいいんじゃん、理由なんて。と沙紀ちゃんは言っていたけれど。
今日は四担の派遣の桐野さんも来ていて、沙紀ちゃんと三人で延々くだらない話に盛り上がっていた。
稜也くんの隣に座るのは少々気恥ずかしいのもあり抵抗があるので、入り口よりも少し中ほどあたりで三人で固まって話している。
「ねー。煙草行かない?」
沙紀ちゃんに聞かれて、咄嗟に桐野さんを見ると「いってらっしゃーい」という柔らかな声が返ってきたので、沙紀ちゃんと二人、肩を並べて店外の灰皿へと向かう。
桐野さん一人残しちゃってと思って振り返ったけれど、桐野さんは近くにいた社員さんと話を始めているようだ。
お店の入り口が見えてきたところで、沙紀ちゃんが「あっ」と声を上げる。
「煙草忘れたから取ってくる」
「わたしので良ければ一本あげるよ」
「いいのいいの。先行っててー。ついでにトイレも行ってくるしー」
沙紀ちゃんが今来た通路を戻るので、先にお店の外に出ようとしたところでドキっと胸が音を立てる。
外の壁に寄りかかるようにして稜也くんが立っていたからだ。
稜也くんは煙草を吸わない荒木さんと、そこで話をしているようだった。
邪魔になるかなと思って、入り口傍のベンチに座って沙紀ちゃんが来るのを待つ。
何の話をしているのかは気になるけれど、何となく二人が話しているところに混ざり難い雰囲気だし。
どうしようかなーなんて考えていると、ぽんっと頭の上に手が載せられる。
「石川さん」
手の主を見上げて名前を呼ぶ。
「具合悪いのか?」
「いえいえ。沙紀ちゃん待ちです。それほど飲んでないし大丈夫ですよ」
本当に大丈夫なのに、石川さんは溜息を吐き出してわたしの横にどかっと腰を下ろした。長い足が通る人の邪魔にならないかっていう思うくらい投げ出して。
「お前さー」
目の前に灰皿が置いてあるので、石川さんが煙草に火を灯す。
一連の動きを目で追っていると、ふっと石川さんが口元を緩める。
「あんま見んな。居心地わりーよ」
「え? あ。すみません」
ぽんっともう一度石川さんの手が頭の上に乗る。
「別に謝る必要ねえし。吸わねえの?」
「んと、沙紀ちゃんが来てから吸おうかなと思ってて」
「そっか」
頭の上に置かれたままの手が気になるけれど、それをどかしてくれる気配は無い。
その手がそっと撫でるように動くのを感じ、石川さんに目を向けると、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
その笑みの意味がわからないけれど、視界には猛ダッシュという雰囲気が良く似合う形相の沙紀ちゃんが飛び込んでくる。
「こーらーーっ!!」
声と同時にバシっと頭の上の石川さんの手が弾かれる。
「あたしのゆうちゃんに触んなっ」
くくくっと笑う石川さんなんて目に入らない様子で、沙紀ちゃんがわたしと石川さんの間に無理やり腰を下ろす。
沙紀ちゃんが窮屈にならないようにベンチを詰めようとして軽く立ち上がったところで、目の前を通った稜也くんと目が合う。
「お疲れ様です。煙草休憩ですか?」
「そーそー。お前は?」
「煙草吸ってきました。先戻ってます」
あっさりと稜也くんは荒木さんと何かを話しながら去っていき、石川さんはまた意地の悪そうな顔をわたしに向ける。対照的に沙紀ちゃんは思いっきり溜息を吐き出した。
二人が何を意図してそうしたのかわからないけど、何となく居心地が悪い。
石川さんと沙紀ちゃんがどうこうっていうんじゃなくって、あんまりにも稜也くんの視界にわたしが入っていなかったから。
それに、荒木さんが稜也くんの腕を掴んで何か小声で話していたから。
それを稜也くんが少し体を傾けて聞いていて、その後二人で楽しそうに笑っていたから。
この感情の正体を知っている。
けど、会社ではあくまでも同僚のスタンスは崩さない。それが約束だから。
悶々とした気持ちを抱えながら、煙草に火を灯すしかなかった。




