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Papagena  作者: 来生尚
SIDE STORY
30/99

and more

「はい。はい。すみません。はい、派遣先には、はい。ええ。はい。では失礼します」

 やたらはいの多い電話を追えた彼女が彼を振り返る。

「終わった?」

 問いかける彼は彼女に煙草を手渡した。しかし彼女は首を横に振って拒絶する。

「大丈夫です」

「ん? 吸わなくていいの?」

「はい。一担来てから吸う回数増えてますけれど、もともとは一日一本吸うかどうかだったんですよ」

「です?」

「……もうっ。今野さん、少しは見逃して下さい」

 彼は飲んでいたコーヒーをローテーブルの上に置き、若干冷ややかさを篭めた目を彼女に向ける。

「今野さん?」

「……あっ」

 両手で口元を隠した彼女が眉をハの字にした困り顔で彼を見る。

「だって……」

「だって?」

「名前で呼ぶの、慣れてないから」

 恥ずかしそうに頬を染めた彼女に彼が手招きをし、自分のそばに来るように促す。

 素直に従った彼女は何故か正座で彼の横に座る。

「優実」

 甘さを含んだ呼びかけに、彼女は頬だけでなく耳まで赤くする。

「呼んで」

 優しい声で呼びかける彼だが、彼女に向ける視線は二の句を告げることを許さないようなもので。

「……稜也、くん」

 ぐいっと腕の中に彼女を引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねると、彼はにっこりと笑いかける。

「おなかすかない?」

 彼の腕の中で今後の展開に身構えていた彼女だったが、彼のその一言に体の強張りを解く。

 だけれどもチクっと胸が痛んだ。

「胃が痛くて、今はいいです。でもりょ、稜也くんは空いてま、空いてるよね?」

「んー。全く空いていないわけじゃないけれど」

 にっこりとにんまりに変え、彼は彼女の頬を撫でる。

「俺、昼頃には会社行かないといけないから、一緒に出て外で早めのランチにしようか」

「うん」

 頷いた彼女の頬にちゅっとキスを落とすと、彼女がぎゅっと身を固くする。

 そんな仕草さえ可愛いと彼は思ったが、口には出さなかった。

「11時頃に出れば間に合うかな。だからあと2時間くらいか」

 時計を見上げた彼の横顔を見上げた彼女は、普段は見かけない少し伸びた髭に目が止まる。

 可愛い可愛いと言われる事の多い彼だけれど、やっぱり男の人なんだなと思い、急に胸が音を立てだした。

「具合、悪いよね?」

「うん、ちょっと頭痛い。胃が少し痛いけれど、でも気持ち悪くないから大丈夫」

「そっか」

 撫でていた彼女の髪にキスを落とし、彼は立ち上がってキッチンへと向かう。

 あっさりとそばを離れた彼に手を伸ばしかけ、でも出来なくて彼女はうつむいてしまう。

 心の中に過去の出来事が思い浮かんでいた。

 もう大分前に別れた昔の男との事。

 別れのときに投げかけられた一つの言葉が、心の中に傷として残ったままだった。

 ふいにその言葉を思い出し、彼が悪いわけではないのに泣きたい気分になった。

 勘のいい彼は冷蔵庫から出した野菜ジュースを片手に彼女の元へと戻ってくる。

 コーヒーだと胃が辛いかなと思って持ってきたのだ。

 明らかに表情の暗い彼女に、彼が「どうしたの?」と声を掛ける。

 言っていいものかどうかしばし悩んだ後、彼女は意を決して彼を見つめる。

「稜也くん、わたしって子供っぽいですか?」

「何言ってんの?」

 突然の問い掛けに、彼は苦笑を浮かべる。

 何がどうしてそういう発想になったのか、全くもって理解不能だったからだ。

「だって……」

 俯いてしまった彼女の顎を持ち上げ、彼は彼女の唇にキスをする。それも触れるだけのような優しいものではなく、濃厚で思わず吐息が漏れるような。

 唇と唇を離すと、二人の間に混ざり合った唾液が糸のように繋がる。

 紅潮した頬。乱れる呼吸。

 あと一歩を踏み出したいと思ったが、彼は彼女の体調を慮って自分にブレーキを掛ける。

「子供っぽいと思っていたら、こんなキスなんてしない」

「でも……」

 潤んだ瞳は涙によるものなのか、それとも情欲によるものなのか。彼はその判断をしかねた。そして前者だと判断した。

 彼女の表情に影が差しているからだ。

 ぎゅっと彼女は両手でサイズの大きいジャージの太ももの辺りを握り締める。

 彼の貸してくれた服からは彼の匂いがする。まるで彼に包まれているような幸せな気分になる。でも……。

「だって……しないじゃない」

 殆ど消えそうなくらいの小声で言われた言葉の意味を彼は的確に理解した。

 恥ずかしそうに耳まで赤くして俯いてしまった彼女が今、自分に求めている事を。いや、自分を求めている事を。

「優実」

 彼の鼓動は、彼女の名を呼んだ瞬間に一段階早くなった。

 呼んでも顔を上げない彼女を腕の中に抱きしめて、そして彼女の耳元に囁く。

「いいの?」

 ぞくりとする感覚に彼女の肌が粟立つ。

 それを知りながら、彼は彼女の耳に、首に、キスを落としていく。

「……んっ」

 漏れ出る声に彼はほくそ笑む。

 答えは無いけれど、もう止めるつもりはなかった。

「好きだよ」

 再び唇を重ね合わせ、彼女をどこまでも追い立てていく。

 キスの合間、彼女が吐息交じりに囁く。

「……すき。りょうやくん」

 それを合図に、彼はその手を直接彼女の肌に這わしていく。

 初めて触れる彼女の肌、シャンプーの香り、時折漏れ出る堪えきれないような声。

 それに酔ってしまうのではないかと思うほどに、彼の理性は狂わされた。




「寝てる?」

 ベッドに腰掛けて、未だ布団の中から出てこられない彼女の髪を撫でる。

 真っ赤に顔を染めた彼女が、仕事に行くためにスーツに着替えた彼を見上げる。

「……一緒にご飯食べたい」

 二時間ほど前に提案した事を覚えていたのだろう。律儀な態度に彼が微笑む。

「いいよ。無理しなくても」

 彼女と体を重ねて、思いがけない副産物というか、予想だにしなかった事に遭遇、いや、思いも寄らない事実に心中ガッツポーズをしてしまいたいくらい喜んだが、結果、彼女の体に多大なる負担を掛けてしまったことを知っている。

 涙を浮かべ苦痛に顔を歪めて事が終わるのを耐えきった彼女は、彼が出社の用意を済ませる間も気だるさから起き上がる事もままならかった。二日酔いの影響もあるかもしれない。

「着替えるから待ってて」

 ゆっくりと体を起こす彼女に手を差し出すと、思考力が鈍っているのか、素直にその手に自らの手を重ねてくる。

 何も纏わない彼女の体には、彼が付けた赤い花が残っている。

 彼の視線に気が付いたのか、真っ赤になった彼女が急いで毛布を自分に巻きつけてベッドを飛び降りるようにして、彼の手からすり抜けていく。

「焦ると危ないよ。13時までに会社に着けばいいんだし。ゆっくりシャワーしてきたら?」

「……はい」

 頬を朱色に染めたまま振り返った彼女に思わず笑みが漏れた。

「道理で初々しいわけだ」

 彼女のいなくなったベッドに目を向け、きっと彼女が気にするだろうととりあえず布団で被せて、嬉しい誤算の痕跡を隠した。

 煙草を燻らせる彼は、くすくすっと誰に対してでもなく笑みを零した。

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