彼女の横顔:6
その後の彼女は予告どおり飲んだ。
飲んで飲んで飲みまくった。
いつもよりずっとペースが速くて気になっていたんだけれど、ついに臨界点に達したようだ。
ぽわんとした表情のまま、座っている上半身があっちへフラフラこっちへフラフラ。
いつの間にか傍には石川さんがいて、彼女をどうしようかと難しい顔をしている。
「飲みすぎているみたいだから連れて帰る」とか石川さんが言い出したらどうしよう。「お持ち帰り」されたらと思うと腹が立つ。
「こーんーのっさーんっ」
慌てた様子の鹿島さんが、飲んだくれてゴキゲンな彼女の傍に俺を呼ぶ。
ほっといたら顔をお皿に叩きつけるか、それとも床に頭を打ち付けるんじゃないかっていう酷い有様で、思わずその体を受け止める。
あー、もう。何でこんなに飲んだんだよ。
もしかして契約の事か。
あんな風に泣いていたんだから、多分飲まずにはやっていられない気分だったのだろう。
もっとちゃんと話を聞けば良かった。こんな風に飲むほど落ち込んでいたなんて。
両手で支える彼女の横顔を見ながら、そんな後悔がこみ上げてきた。誘惑に負けている場合ではなかった。
鹿島さんを筆頭に、彼女を支える俺以外が彼女の周りにスペースを作っていく。
テーブル上から危険物を排除し、彼女の周囲に空間を作り出していく。
「加山さん。横になったほうがいいよ」
その言葉を合図に、彼女がころんと転がってきた。
「え?」
思わず手を離してしまった。それどころか所謂刑事ドラマとかで「手を上げろ」と言われた犯人の如く両手を上げてしまった。
「あーらら。本当に寝ちゃったんだ」
いや、あの。すみません、助けてください鹿島さん。笑い事じゃないです。
非常に嬉しいハプニングだけど、会社の飲み会の席でこれはっ。
あ。でも寝顔可愛い。
ついつい手が彼女の頬や髪を撫でていく。
いやいやいやいや。止まれ! 煩悩っ。
何とか逃れようと彼女の頭を持ち上げに掛かると、今度は抱き枕に抱きつくが如く両手が腰に回される。
おーい。頼む。誰かこの幸せすぎる状況から解放してっ。
なんとか周囲の助力もあって脱出成功し、布団と間違えられている俺のジャケットを握り締める彼女を横たえると、今度はその足が俺を誘惑しに掛かる。
フレアスカートが微妙に捲くれ上がって、普段は隠されている魅惑の太ももがチラっと視界に入る。
ん?
他の野郎共も見てるじゃないかっ。速攻で隠さなくてはっ。
彼女のコートを持ってきて、彼女の体の上に掛けるとようやくほっとした気分になる。
と、思ったら寝返り打ったー。
おいおい、一からやり直しか。
もう頭固定してやる。座布団重ねて枕にして、反対側に寝返らないようにして、またコートを掛けて。
……二度と泥酔させてなるものか。
「本当にさー、加山さん辞めちゃうのかな」
一通り世話を焼き終えた耳に鹿島さんの呟きが飛び込んでくる。
眠った彼女から遠ざからないように、しかし鹿島さんと会話が出来る場所に腰を下ろす。
「私は3月末で辞めちゃう身だから何も言えないのわかってるけれど、辞めちゃうと寂しくなっちゃうね」
同意を求められた信田さんが同意する。
「仕事できるし、いい子だし。こっちの思惑通り残ってくれるといいんだけれど」
はあっと溜息を吐き出したのは石川さんだ。
「引き止めるしかねえだろ。だけど派遣会社が絡んでるんじゃ、俺たちも出来る事には限りがあるからな」
「確かにねー。多分あれだけスキルのある人だから、次の依頼もあるだろうしね」
どこか他のところに彼女が移ることを想像した。
俺の目の届かない会社で、歓迎会やらなにやら飲み会があって。
んで、何かのきっかけでこんな風に泥酔したら?
瞑った瞼の裏側が赤い。
それは我慢ならないな。傍にいなくなるのも嫌だし、それに誰かに「お持ち帰り」されたりしたら。
ギリっと奥歯を噛み締めた。
暗い想像に胃が熱くなって、苛立ちが膨らんでくる。
だけれど俺には彼女を止める権限なんてないんだ。だって彼女は俺の「彼女」ではないのだから。
イライラともどかしさと、それから独占欲が限界だ。多分、この腹の中の熱い塊は、そういう俺のぐちゃぐちゃとしてドロドロとした思いの全てを内在しているのだろう。
時間は丁度21時半。
中にはそろそろ帰りたい人もいるだろうし、一次会はこれにてお開きという事になる。
まあ大多数は二次会のカラオケに流れるわけだけれど。
今日はいつも俺がやる集金や支払いなどを全て荒木がやってくれて助かったけれど、石川さんにカラオケ空いているか見てきてと言われてしまえば、彼女を置いていくとわかっていても席を立つしかない。
「見とくから大丈夫だよ」
鹿島さんのそんな言葉に背中を押され、しぶしぶ、しかし猛ダッシュでカラオケまで行ってくる。
昼間にも訪れたその空間が、夜はまた違った表情を見せている。
大体の人数を告げ、部屋の予約を済ませると、大急ぎで居酒屋に戻る。
居酒屋のあるビルの下に、鹿島さんと加山さん以外の全員が降りている。
「どうだった?」
「予約取れましたよ。部屋に上着を置いたままなんでちょっと上がってきます」
正確には彼女が握り締めて離してくれなかったジャケットなんだけれど。
エレベーターで居酒屋のある4階まで上がり、一番奥の個室へと足を向ける。
起きていないかもしれないと思っていた彼女が、ぼんやりと赤い顔で、いつもよりも頼りなさそうな顔を俺に向ける。
くすっと笑った鹿島さんが「じゃーねー」と言い残して、先に下に降りていった。
気を利かせてくれた? まさかな。
「起きた?」
「はい」
乱れた髪があちこち跳ねたりうねったりしているので、撫で付けるようにそっと髪を梳いていく。
その合間に「よく寝られた?」と聞くと、恥ずかしそうに「はい」と返ってくる。
まるで猫が膝の上で撫でられているかのように、気持ち良さそうに目を閉じる姿は可愛くて仕方ない。
その姿に願ってしまった。
俺に全てを預けてくれることを。
目を閉じて頬を染める姿に、いらんことを想像してしまった。
「今度からは飲みすぎ禁止。もーハラハラしたし」
「ハラハラ?」
「するでしょ。スカートから艶かしい足を出して寝られたりしたら。俺以外に見せたくないのに」
本当になーんにもわかってない。
俺が今どんな思いでここにいるのかも。眠っている姿に何を思ったのかも。ついでに周りの野郎共がどういう目で見ていたのかも。
にこにこしている場合じゃないって。本当に。
痛くない程度に彼女の頬を両方から引っ張ると「いらいれす」という間抜けな声が返ってくる。
もう、本当にわかってないな。このやろー。
多分もう衝動を隠しておくのは無理だ。
俺の前に両手をついて、前のめりに座っている姿。ピンク色に染まった肌。いつもより明るくてトーンの高い声。明らかに崩れている彼女の壁。
その全てをこの手に抱きしめたい。
傍にいたい。傍にいて欲しい。
そんな気持ちが少しでも伝わってほしい。
「他所の会社に行かないでくれる? 目のつかないところで飲んだくれたらと思うと、俺、理性保てる自信ないから」
「理性?」
「そう。だから担当移ってもいいから、俺の目の届くところにいてよ」
酔っ払いに言っても無駄かもしれないけれど、言わずにはいられない。
俺の言葉に、彼女の目がとろんと蕩ける。
「そういう目をしてると、どうなるか知らないよ? 拒否るんだったら今のうちにしといて。止まらなくなる前に」
全く心当たりが無いといった反応だけれど、でもその瞳は確かに俺を映している。
まるで誘惑するかのように。
「誘惑に弱いですね」
……何でだよ。何で誘惑してるんだよ。俺のこと。
酔っ払いすぎじゃないのかな。女の人でも飲んでムラムラとかすることあるんだろうか。いやいや。まさか加山さんに限って。
でも据え膳食わぬは男の恥!
「いいの?」
本気で誘惑しているんだろうか。「冗談だぷー」とか寝てしまう前までの酔っ払い口調で言われたら、確実に俺、死ねる。
止まらない。止められない。
頼むから誘惑やめて。
「好きですよ。今野さん」
……はい?
その言っている意味を咀嚼できるまで、軽く10秒は掛かったと思う。
思いがけない彼女の告白。
好きだけれど、恋愛面での好きは石川さんですとか言われちゃったらどうしようとか。本当は石川さんのほうが好きなんですとか言われたらとか。
ほんっとうにもう頭ぐるぐる。
今日はそんなに飲んでいないのに、一気に酒が頭に回って思考がおかしくなった。
だって彼女はいつだって石川さんばっかり見ていた。
隣で見ていたから知っている。それなのに、俺? どうして俺?
彼女は彼女なりに説明してくれる。俺の知らなかった石川さんとの顛末。それから俺に対しての想い。
それを信じないわけではないけれど、にわかには信じられないというか。
正直、俺は対象外なんじゃないかと思っていたから。あんまりにも俺に対する態度があっさりしすぎていて。
「わたしの事、好きですか?」
不安そうに彼女の瞳が揺れた。
君は知らないんだ。俺がずっと君を見続けていたことを。すぐ横で俺は君を見つめていたのに。
「好きだよ。言ったことなかったっけ?」
「無いです。初めて聞きました。嬉しいです」
頬を染めて笑う彼女を抱く腕に力が篭る。やっと手に入れた。
手に入れた。ということは……。
にやりと笑みが浮かぶのを抑えられない。軽くキスをして、そして彼女に最後通牒。
「そういう可愛い事言って煽ると食べちゃうよ?」




