彼女の横顔:3
「りょーちゃーん」
関数がどこか間違っているのか思うように動かないエクセルを加山さんに見てもらっていると、佐久間さんからのお呼びが掛かる。
俺のパソコンを覗き込んでいた加山さんが苦笑いするように眉を潜める。
「後は見ておきますから」
「……すみません」
折角彼女と接近しても怪しまれない楽しい時間を過ごしていたのに。邪魔すんなよっ。
鼻腔をくすぐる柔らかな香りは、この距離でなくては楽しめないのに。
最近よく邪魔されている気がするな。
はあっと溜息を吐き出しながら佐久間さんの席に歩み寄る。
一担長の佐久間さん。45歳独身。
官公庁を主な取引先にしている一担はこの担当長のせいで男性社員しかいない。
過去に響さんが在籍したりしていたけれど、配属になる女性社員さんが辞めるか異動するかしない限りいびり倒すからだ。
今はその矛先が加山さんに向かっている。
加山さんが辛い目に合わないためにも、佐久間さんのご機嫌はなるべく取っておいた方がいい。
ちなみに俺が佐久間さんに気に入られているのは周知の事実で、ご機嫌伺い係と認識されているっぽい。
それに不満など無かったけれど、今は不満だらけだ。
俺の貴重な時間を奪うなっ。
「これがねー。ちょっとよくわからなくてぇ」
走り書きのメモ。雑然と書類やノートやガムの包み紙や飴の小袋やらが散らかっている机の上では仕事がしにくかろうに。
「どれですか」
書類なのかメモなのかノートなのか。はたまたパソコンなのかわからずに机に向けて体を寄せると、佐久間さんがうっとりとした目を俺に向ける。
それには一切気が付かないフリをして、佐久間さんの前の席に座る伊藤さんに声を掛ける。
「例の議事録ですか?」
「ああ」
なるほど。社内会議の議事録をまとめている「はず」なんですね。
最終的にはきっと伊藤さんに丸投げされるであろう資料を机の上に目を走らせて探し、手っ取り早く打ち込んで佐久間さんに微笑みかける。
「これで出来ましたよ」
自分でも大分早く作業をこなしたと思う。
両手を胸の前で組んで、なんとかの乙女っていう銅像みたいな格好をしている佐久間さんが「ありがとう。りょーちゃん」と言うので「いえ」とだけ返して自分の席に戻る。
よっし。まだ加山さんがいるっ。
俺の席でパソコンを叩いている加山さんに頭上から声を掛ける。
「すみません。加山さんも忙しいのに手を煩わせてしまって」
ぱっと顔を上げた加山さんが笑った。
「大丈夫ですよ。えっとですね、今説明してもいいですか?」
「はい。お願いします」
教えてくれる事を漏らさず書き留める為に、机からノートを取り出して彼女とパソコンの前に並ぶ。
マニキュアの塗られていない指先がモニターを指差す。
彼女の口からは淡々とここの式がどうだとか、参照するセルがとかといった色気の無い言葉が続いていく。
本当にすごいな。
俺が入社してからここまでパソコン詳しい派遣さんは今までいなかった。
大概のことは澱みなく答えてくれる。しかもわかりやすい。
さらっと彼女の髪が零れ落ち、モニターを指し示していた指先が零れ落ちた髪を救い上げて耳に掛ける。
それが妙に色っぽく感じてしまう俺は、大分重症かもしれない。
それは唐突に訪れた。
二月上旬、彼女の元に派遣会社の人がきて、神妙な面持ちで彼女が戻ってきた。
珍しくパソコンを前にしても手が進まない。それどころか何度も何度も溜息を吐いている。
「めずらしいですね。加山さんでも悩む事あるんですね」
形だけ立ち上がっているエクセルファイル。それを首を捻って腕組みをして睨みつけているけれど、多分そのファイルがどうこうじゃない。
派遣会社と何かあったのだろう。
「失敬な。これでも悩み多きお年頃ですよ」
「じゃあ悩み相談してみます? とりあえずコーヒーでもどうですか? 今日は甘くないですけれど」
冗談交じりに聞くと、彼女がこくっと首を縦に振る。
険しかった表情が少しだけ和らいだから、多分本当に誰かに零したいような事があったのだろう。
「りょーちゃーん。ちょっと教えてぇ」
ちっ。邪魔が入ったか。
「ちょっと待ってて下さいね。喫煙所じゃなくてここで待ってて下さいね」
すぐに用件終わらせてくるから、間違っても喫煙所なんて行かないでおいて欲しい。
このタイミングで喫煙所に行ったら、絶対に石川さんが彼女の悩みを俺より先に聞いてしまう。
俺に心を開きかけているんだから、この好機を逃すわけにはいかない。
佐久間さんの呼び出しは、正直自分で解決してくれよって思うような内容だったけれど、これもご機嫌伺いと思えば仕方がない。
俯いて佐久間さんの書類を眺めていると、ふいに書類に影がさすので顔を上げる。
あれ、加山さん?
どうしたんだろうと見つめていると、彼女が首を横に振る。
「加山さん、ちょっとこっちに」
伊藤さんが立ち上がり、彼女と一緒に課の会議室に入っていった。
加山さんと伊藤さんがわざわざ個室で話すって何があったんだ?
胸がざわついた。多分あまりいい事じゃないっていう予感。
ふふっと佐久間さんが笑う。それはあんまり感じのいい笑みじゃない。
加山さん、伊藤さん、佐久間さん、派遣会社。
もしかして。
どくっと胸の奥で音がして、何故かドキドキと鼓動が早くなっていく。
「4月になればすっきりするわ」
疑念はその一言で確信に変わった。だからあんな顔してたんだ、加山さん。
さっきの彼女の表情を思い出しながら佐久間さんの所用を片付けていると、外線電話が音を立てて鳴りはじめる。
「お電話ありがとうございます。……営業課第一営業担当今野です」
佐久間さんの机にある外線電話を手に取ると、何故か佐久間さんが頬を染めて俺を見た。だけれどそういうことには気が付かないフリをする。
「はい。はい。少々お待ち下さい」
電話を一端保留にして、佐久間さんに声を掛ける。
「これで出来ていると思います。伊藤さん宛だったので、声掛けてきます」
苛立ちなのか、焦りなのか、よくわからない感情に捕らわれたままで、佐久間さんに「りょーちゃんスマイル」と呼ばれる笑みを向ける余裕がない。足早に会議室に向かう。
営業課の部屋の一番奥にある会議室で伊藤さんに声を掛け、伊藤さんと入れ替わりに会議室に入る。
鍵も閉めておいた。抜かりはない。
彼女が座る場所とL字型になるような入り口すぐの席に腰を下ろし、改めて彼女の表情を窺う。
もう泣きそうじゃないか。
今にも涙が零れ落ちそうなほど目は潤んでいるし、目尻や目の周りも赤い。
大丈夫だと言い募る彼女に腹が立つ。
どこが大丈夫なんだよ。どっからどう見ても弱ってるじゃないか。それを俺には見せたくないから大丈夫って言うの?
「大丈夫じゃないでしょう?」
言った瞬間、びくっと肩が跳ねた。
泣きそうなのバレバレなのに、もしかしたらバレてないつもりだったのかな。
バレてますよ。泣きそうなの。
右手を頬に添え、指を目尻に滑らせる。瞬きしたらその涙が零れてしまうんじゃないだろうか。
「泣くの?」
泣かせたくないな。きっと人前で泣き顔とか見せたくないだろうし。それに俺も見せたくない。
もしもここで泣き崩れてしまったりしたら、きっと佐久間さんが喜ぶ。そしてそれによって加山さんが傷つく。それは避けたい。
「ちゃんと話を聞きますから、泣くの、もう少しだけ我慢できますか?」
唇を噛み締めながら首を縦に振る加山さんの頬を撫で、髪を撫でる。
本当は抱きしめたいんだけれどな。さすがに社内だし。
ああ、そうだ。急ぎじゃないけれど伊藤さんに頼まれていたラボの件を片付けてしまうか。それならおおっぴらに加山さんを連れ出せる。
ふいに思いついた妙案を提案すると、伊藤さんはあっさり了承した。
恐らく伊藤さんなりに今は加山さんと佐久間さんを離した方がいいだろうと判断したのだろう。