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Papagena  作者: 来生尚
SIDE STORY
23/99

彼女の横顔:1

「ちょっとー。りょーちゃんってばー、聞いてよぉ」

 本来の席順では僕の右隣に座るのは新しくきた派遣社員の加山さん。

 しかし今実際に横に陣取っているのは、所属する営業課第一営業担当の担当長佐久間さん。

 今日も気合の入った化粧と鼻が痛くなりそうな振り掛けすぎな香水の匂い。

 以前某ブランドの香水をつけていたら「やーん。気が合うわぁ。りょーちゃん、あたしのつけてる香水のオムを愛用してるのぉ? き・ぐ・う」と気持ち悪い事を言われたので、今は有名なメンズの香水を愛用している。

 しかし佐久間さんはあの時と同じ香水だ。

 どうやら俺がその香水が好きだと思っている節がある。

「何かあったんですか?」

 書類を作成する手を止め、右隣に座った佐久間さんに笑顔を向ける。

 とりあえず笑わなくてはやってられない。笑うしかない。

 伊藤さんに今日中に売り上げ傾向を分析して自分なりの解釈でいいから、今後の営業においての戦略を書類にまとめて提出しろって言われているのに。

 邪魔だな。早く終わらないかな。

「そーなのよー。もうっ、聞いてよー」

 聞いてます。

「加山さんってば、決裁文書を紛失してくれちゃったみたいで、内部監査に引っかかっちゃったのよぉ」

 ああ、それで加山さんがさっき伊藤さんと何やら立ち話してたのか。

 分厚いファイル片手に書庫の前で難しい顔をしていたから何だろうとは思っていたけれど。

 でも内部監査って、加山さんが来る前の8月に入らなかったかな。確か。

 佐久間さんはともかくとして、伊藤さんがその事実に気が付かないわけがない。

 それにファイリングを頼む事はあっても、書類をまとめるのは俺たち社員の仕事だ。

 横で見ているとわかるけれど、加山さんは頼まれたらすぐに仕事をする人なので、仕事を「詰む」ことが無い。

 例えばファイリングの必要な書類を放置するような人ではない。

 ものすごーく几帳面で真面目な人だというのが、加山さんが来てから一ヶ月の自分なりの分析だ。

 机が汚机と化している佐久間さんなら書類の一つや二つすぐに無くせそうだけれど、加山さんの綺麗に片付いた机を見ると不可能な気がするんだけれどな。

「それは大変でしたね」

「そーなのよー。ほっんとうに迷惑掛けられちゃってイヤだわぁ」

 そう思うなら自分で何とかすればいいのに。

 本音は口には出さずにもう一度「頑張ってくださいね」と付け加えて首を傾げて苦笑いをすると、満足したのか佐久間さんは去っていった。

 ああ、残り香が強烈すぎる。

 作りかけの書類も、頭が煮詰まって一行に進まない。

 いっそタバコでも吸ってリフレッシュしてこようかな。そうすればその間に濃厚すぎる佐久間さんの空気も薄まるだろうし。

 と思っていたら、ポンって伊藤さんに肩を叩かれた加山さんが机に戻ってきた。

 エクセルの事聞いてみようかな。関数入れたほうが早いってわかってるんだけれど、関数よくわからないし。

 と思って、横顔を見た。


 悔しそうに噛む唇。泣く一歩手前の赤い目。


「加山さん」

「……はい」

 声が震えている。今にもダムが決壊して涙が零れてきてしまいそうだ。

「休憩しませんか? タバコ吸いたくなったんですけれど、付き合ってもらえます?」

 提案に彼女の首が縦に動いた。

 もしかしたら言葉を出すのさえ感情が零れる一端になってしまうくらい、傷ついているのかもしれない。

 涙が零れてしまったらどうしよう。

 泣かせたくないな。

 こんなところで泣かせたら佐久間さんの思う壺だ。今だって意地の悪い笑みが視界の左端に映っている。

「行きましょう」

 立ち上がった僕に続いて彼女も立ち上がった。

 ぐすっと鼻をすする音が背後から聞こえる。

 慰めたい。髪を撫でて抱きしめて、腕の中で泣かせたい。


 あれ? 俺、今何を考えた?


 それが恋の始まり。



 僕はいつも彼女の横顔を見る。

 時に彼女は僕のすぐ傍にまでやってくる。

「その関数、上手く出来てたら俺にもファイルコピーして下さい。どうにもこの社内ソフトの使い勝手が悪くてデータ抽出まではいいんですけれど、まとめ難いんですよ」

「そうなんですか。あー、csvで出てくるあれですね。確かにあれは使いにくいですね」

「そうなんですよ。報告書の期限が迫っているのに、全然上手くいかないんですよ」

 縦に一体いくつセルがあるんだっていう状態の生データと格闘してみたものの、横で満足げにエクセルを見つめる加山さんのようには上手くいかず、思わずヘルプ要請をする。

 自分でやらなくては今後の為にはならないとわかっていても、かなり詳しい加山さんの力を借りられれば、大分データ解析の目処が立ちそうだ。

 それに彼女のやることをメモしておけば、次回以降は手をわずらわせなくて済む。

 自分の椅子ごと俺のパソコンの前に移動して来て、難しい顔で頬杖付いてデータを睨みつける。

 まさに「睨みつける」が正しいような険しさだ。

 巧みにマウスや俺には全く未知の領域のショートカットキーを駆使してデータを端の端まで見ているする姿は、まさに圧巻。

 その素早さに舌を巻く。

「これって」

 手の動きと画面上の動きを見ていると、ふいに彼女の瞳がぶつかる。

 一台のパソコンを二人で見ているのだから、その距離は必然的に近いもの。

 ごく至近距離でぶつかった視線に、彼女が恥ずかしそうに頬を染めて視線を逸らす。

 真面目一本やりの鉄の女じゃなくて、ふいに見せるそんな表情が可愛くてたまらない。

 そう思ったら、佐久間さんのとは違う控え目な香りが彼女から立ち上がった。女性に淡白すぎると言われる事が多いはずなのに、その匂いに負けた。完敗だ。

 誤魔化すために浮かべた笑みで、こちらの気まずい思いは伝わらなかったようだ。良かった。


 付き合ってと言われて多少好みであれば断らないので、女性に対して免疫が無いわけではない。それなりに不自由もしていない。幸いな事に。

 この生まれもった顔つきのせいで年よりも若く見えるせいなのか、可愛い可愛いと言われる。

 そして佐久間さんには「可愛いりょーちゃん」などと呼ばれている。

 そういう外見もあって、草食系と分類される事が多い。

 若い頃ならともかく、猛烈にヤリたくてしょうがないなんて思うこともないし、好きで好きで堪らないっていうような強烈な想いを抱いた事も無い。

 束縛したりするような事もないし、自分の時間も大事にしたい。

 それが淡白すぎて付き合う女性たちにはどうにも物足りなかったりするらしい。

 それなのに、未だかつて女性に対して「執着」というものをした事が無かったはずなのに、気が付けば「執着」「嫉妬」「独占欲」の渦の中にいた。


 あまり表情の変わらない彼女だけれど、たまに嬉しそうな顔をする時がある。

 それがどんな時なのか気が付いたのは偶然ではないかもしれない。

 俺が見た視線の先に彼女がいて、彼女の視線の先に石川さんがいた。

 だから何となくわかってしまった。石川さんが好きなんだろうな、と。

 パソコンを教えてもらう為(という口実)に至近距離で接したりするけれど、彼女の表情はあまり変わらない。むしろフラット。

 だけれど喫煙所や飲み会で石川さんと絡むとき、彼女の瞳が柔らかくなって笑う。

 なんか悔しいなと。

 だから彼女をエクセルを口実に二人きりの飲みに誘ってみた。

 だけれど何となくこちらがやんわりと仕掛けているのに、全く全く全くもって気が付く気配も無い。

 それどころか毎週誘ってもどういう裏があるのか考えさえもしていない。

 これって、脈なしって事だよな。

 そう思いながらも誘う事はやめられない。当たり前のように金曜日の夜二人でダーツに興じてカクテルを飲む。

「今野さんがいつも頼んでくれるこのカクテル、好きです」

 ほんのりと頬を染めて好きですって言われたら、俺の中の色んな事が過剰に反応する。

 可愛すぎて勘弁。

「そう? 良かったです。気に入ってもらえて」

 触れてしまいたい。そんな欲望を押し隠す為に自分のグラスに手を伸ばすと、彼女は「それ何?」と首を傾げる。

「ブルーラグーン。飲みます?」

「はい」

 こくっと喉が上下に動くのに見蕩れてしまう。

 やばいなー。なんか色々、やばい。

 今までこんな衝動を感じた事が無かったのに、彼女の一挙一動に捕らわれる。

「美味しいですね。甘いの飲んだ後だとさっぱりします」

「本当に加山さんってチョコ系好きですよね。だからコーヒーもいつもモカなんですか?」

「はい。でもコーヒーショップで飲むときだけですよ。普段はあんまり飲まないです」

「え。そうなんですか? いつもカフェモカ飲んでるから意外ですね」

 ダーツバーに来る前の待ち合わせはいつも会社がある東口ではなくて反対側の西口のコーヒーショップ。

 先に出た彼女はいつだってそこでカフェモカを飲んでいる。たまに季節限定商品などに浮気する事もあるようだけれど、基本的には一途にカフェモカ。

「だって缶コーヒーのとかペットボトルのとかって甘すぎて嫌なんです」

「だから会社で飲むときはブラックコーヒー飲んでるんですね」

「はい」

 あ。笑った。

 きゅっと胸が締め付けられるような気がして胸が痛くなる。

 俺にそうやって笑ってくれるのは、いつだってこの二人きりの空間でだけ。

 多分お酒のせいでほんの少し彼女の垣根が低くなっているんだろう。普段はその笑みは石川さんにしか向けられない。

「不思議ですよねー。ホイップ乗っているコーヒーのほうが甘く感じないって」

 心底不思議だと言わんばかりでおかしい。パソコンの難題だったらひょいひょい片付けていく彼女が、腕組みをして考えている。

 考えるポーズはいつだって同じだ。パソコンでも、コーヒーのことでも。

「コーヒーショップのホイップは砂糖入っていないからかもしれませんね。それにコーヒーもエスプレッソで濃い目だから甘く感じないのかもしれませんよ」

「へー。そうなんですか。今野さん物知りですね」

「加山さんほどじゃありませんよ」

「ううん、そんな事ない。初めて知ったもん。ありがとうございます」

 ほんの一瞬崩れた彼女の壁。どこまでも壊してしまいたい。

 そっとそっと傍にいよう。いつか彼女が自然と壁を崩してこちらまでやってくるその時まで。

 今はきっとダメだから。俺を受けて入れてもらう余地はなさそうで。

 彼女が見つめるその先にいる人に向けられる視線の意味を知っているから。

 横顔ばかり眺めているけれど、今はいい。

「今野さん、ウォッカベースのお酒が好きなんですか?」

「そうですね。たまたまですけれどね」

 並んで揺らすグラス。

 少しずつお互いの興味や趣味や好みを知っていく。そうやって、ちょっとずつ近付いていくのも悪くない。

「わたしは甘いのばっかり。今野さんはさっぱりばっかりですね。だけど口が甘ったるくなった時に一口貰えるからちょっとラッキーかも」

 ……そういう事言うなよ。こっちがどれだけその一言で浮かれるかわかってやってる? んな訳ないか。

「じゃあ僕も甘いの飲みたくなったら下さいね」

「いいですよ」

 間接照明だけが照らす彼女の顔が今はまっすぐ俺を見ていた。

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