21:四月
「お電話ありがとうございます。……営業部営業課、第、い、四営業担当加山です」
鳴る電話を手に取り、慣れない担当名を口にするのをくくっと肩を揺らして笑う人がいる。
噛みそうになったのを目ざとく見ていたのか、耳ざとく聞いていたのか。
同じ島の右二つ斜め前に座る石川さんは今日も笑い上戸だ。パソコンを打つ手を止めて口元に手を当てて笑っている。
電話を四担長に繋いでから、ぎろっと石川さんを睨みつける。
「ちょっと笑わないでくださいよー」
「いやいや。さすがのゆうも噛むんだなと思って」
「もー。当たり前ですよー。昨日まで一担で今日から四担ですよ。ついつい一担って口走りそうになるんですよ」
「そりゃまーそーだよな。まあ頑張れ。間違え一回につきタバコ一本な」
「箱で渡す事にならないように頑張ります」
苦笑いと共に返すと、石川さんは軽く手を上げて再びパソコンの画面に意識を戻す。
昨日まで桐野さんが座っていた席で、引継ぎをした資料を捲る。
基本的には一担と取引先が変わるだけで業務内容が大きく変わるわけじゃない。一担ではきうちゃんが担っていた営業資料の作成が、四担と五担でのわたしの仕事になる。
資料が二担当分になるから作成する資料の量は多いと思う。それでもお局という精神的圧力が無いだけ気は楽だ。
お局は今日から総務に移り、一担長には伊藤さんがなった。
きうちゃんは「平和な一担初めてだぁ」と朝から喜んでいた。
今まで隣の席にいた今野さんの背中を後ろから見る光景は結構新鮮。意外に背中広いなーとか思うと口元が緩んでしまう。
いけないいけない。仕事仕事。
四担の担当だった桐野さんも、五担の担当だった鹿島さんも共にきっちりとした人だったので引継ぎで困るようなことは無い。
やり掛けだった一担の「簡単検索システム」という仮名のエクセルのファイルをアクセスで作りなおそうかと悩んでいると、ポンっとメッセンジャーの着信を知らせるポップアップが点滅する。
--どう? 四担。
--やることは基本的には同じだから大丈夫。先週引継ぎもしてたからね。
--そっか。無理しない程度に頑張って。
--ありがとう。
淡々とパソコンに向かっていると見せかけて送ってくれたメッセージに嬉しくなる。
背中しか見えないけれど、今、どんな顔してるんだろう。
きっとどうせ無表情を装っているんだろうな。
昨日までは同じ担当だったから業務で絡むことも多かったけれど、会社では必要以上に会話をしない事にしている。
お局対策っていうのもあったけれど、付き合っているのを仲のいい人たちは知っているのもあって、みんなが仕事しにくくならないように極力関わらないようにしている。
だからいつだってメッセンジャーだけが今野さんと会話する事が出来るツール。
「お電話ありがとうございます。……営業部営業課第五営業担当加山です」
今度は五担の番号が鳴ったので、意を決して出る。
よっし。噛まなかった。
もしかしたらドヤ顔で石川さんを見てしまったのかもしれない。目線があった石川さんの肩が揺れる。
--噛まなかったの、聞いてりゃわかるから、いちいち見んな。
--すみません、つい。
--別にいいけどな。ああ、今日お前電話当番ね。
--わかりました。13時にお昼出ます。
--俺のいい人っぷりに感謝するがよい。
何言ってるんだろうと首を捻ったけれど、答えは簡単に12時にわかった。
どうやら今野さんも今日は電話当番だったらしい。
何もないような顔をして、なんとなく部屋を出る時間をずらしてお昼休みに出る。
エレベーターを待つ今野さんに追いつくと「お疲れ様です」と「りょーちゃんスマイル」で振り返る。
他には誰も乗らない下りのエレベーターに乗り込むと、扉が閉まった瞬間にぐいっと腕を引っ張られる。
無言でキスを交わす。
指を絡め、唇を重ね、舌を絡め、傍にいるのに傍にいられないもどかしい時間を埋めるかのように。
ポーンという到着を知らせる音を聞く直前に、今野さんが離れていく。そして何もないようなクールな顔に戻る。
いつだって翻弄されるのはわたしばかり。
頬が火照ったわたしを見て、くすりと笑みを浮かべると甘い声が名前を呼ぶ。
「優実」
周りに社員さんたちがいないのをいい事に、プライベートの時のように名前で呼ぶ。
そうやって呼ばれるだけできゅっと胸が締め付けられる事に気が付いているんだろうか。
エレベーターを出て、二人肩を並べて歩く。
「稜也くん、何食べたい?」
「んー。昨日の夜が和食だったから洋食かな。もしくはイタリアン」
「今日の夜、ハンバーグの予定だよ」
「あのチーズが中に入ってるやつ?」
「うん。そう。だからハンバーグ以外にして欲しいな」
くすくすっと稜也くんが笑う。
「いいよ。じゃあパスタにしよ」
会社を出てしばらくすると、稜也くんの長くて骨ばった男の人らしい指が手に当たる。
ぎゅっと手を繋いで歩き出し、デザートの付くパスタランチをやっているお店に向かう。
なかなか勤務時間中にこうやって二人きりになることもないし、手を繋いで歩く事もないので気恥ずかしい。
ちらっと上目遣いで表情を窺うけれど、やっぱり涼しい顔のまま。
二人で手を繋いで歩くようになってから、一月と少し。
一つ年下(でも彼に言わせればわたしが早生まれで生まれた年は同じだから同い年)の稜也くんのペースにいつも巻き込まれてしまう。
淡々としてるだとか、真面目だとか言われるわたしだけれど、彼と一緒にいる時はものすごく感情の起伏が激しい。
そして彼もまた、草食系と呼ばれる無害さや透明感が二人でいる時には薄れている。というか消える?
「でもなー。パスタよりも優実が食べたい」
「えっ」
ほら。こんな風なことを言い出すんだもん。
「だって隣に優実がいないの寂しいんだもん。せめて残り香がだけでもあれば良いと思わない?」
「思いませんっ。そんな事したら午後仕事にならないでしょっ」
「本気にしてくれてありがとう」
言っている意味が、さっぱりわからない。
にやっと笑ったかと思うと、地下にパスタ屋さんがあるビルの、あまり使われていない階段へと引き込まれる。
とんとんとんと音を立て狭い階段を下りたかと思うと、踊り場でくるりと体を反転させる。
「キスして?」
「……ここで?」
「ここで」
本気で言っているのかと思って彼を凝視するけれど、どうやら本気らしい。
「ぱ、パスタは?」
「食べるよ。優実がキスしてくれたら」
と言いながら彼が優しく唇を重ねる。
触れるだけのキスを繰り返していると、その唇が首に、そしてカットソーへと伸びる。
「……やっ。何で?」
鎖骨をなぞるように唇が動き、ちゅっと音を立てて鎖骨の外側が吸われる。
腰に回された稜也くんの手に力が入り、わたしは彼のスーツを握り締めて縋りつくので精一杯。
「んっ」
つーっと背筋をなぞるようにしながら背中を指先が動いていく。
彼の動きの全てがぞくぞくとした感覚を引き出して、彼によって与えられた快楽の記憶を思い出させる。
「優実」
名を呼ぶ声にさえゾクリと快感が湧き上がり、心の中に火を点ける。
舌が首に戻り、そして再び唇に重なる。
舐められ、食まれ、なぞられ。キスの合間には甘さを含んだ吐息が漏れ出てしまう。
「……はぁっ」
唇を離した瞬間に漏れた吐息を彼は聞き逃さない。
「続きは帰ってからね。ミッション終了。午後も仕事頑張る為にパスタは大盛りにしようかな」
ミッションって何? ミッションって。
蕩けそうな目をしたわたしを笑い、そして腕の中でぎゅっと抱きしめる。
「そういう顔しないで。そういう顔されるとたまんない」
「……じゃあ、外でしないでっ」
真っ赤な顔で答えるわたしの頬を撫で、そしてニヤリと笑う。
その笑みが意味するところを、わたしは全くもって気付きもしていなかった。
--お前の彼氏、マーキング激しいな。
午後に来た石川さんからのメッセンジャー。
意味がわかったのはその日帰ってからの事。カットソーと肌との境界の見えるか見えないかくらいの場所にあるのは赤い花。
「なーんでこんな場所にキスマークつけたのよぉぉ。明日から恥ずかしくって会社行けないじゃないの。バカー!」
「だって俺のだってアピールしとかないと、優実意外ともてるんだよ?」
「そういう問題じゃなーい!」
お風呂に入ろうとして鏡の前で気が付いてバスタオルを巻いて出てきたわたしの怒る姿なんてどこ吹く風といった様子で、稜也くんは缶のカクテルドリンクを飲んでいる。
きょとんとしていた表情が一転、テーブルに缶を置いてブラック今野に変身。
「ところで優実さん。艶かしいお姿を晒してますが、それはお誘いと見ていいのかな?」
一歩二歩。確実に彼が笑みを浮かべながら近付いてくる。
一歩二歩。詰められる距離の分だけ後ろに下がる。
「誘ってないから」
「ふーん?」
「お風呂入りたいから」
「それで?」
「……せめて後でにしてください」
なけなしの譲歩案を出すと、ぴたりと彼が足を止めてあははっと笑みを零す。
そして今度は何故かお局を篭絡した「可愛いりょーちゃんスマイル」を浮かべる。
「いいですよ。加山さん。ゆっくりお風呂入ってきてくださいね。文句はあとでゆーっくり聞きますからね」
それ、その笑顔でその口調で言われると逆に怖いです。
「会話だけでお願いします」
「謹んでお断りさせていただきます。早くお風呂入って来たら? さっさと目の前から消えないと襲うよ?」
「お皿洗っといてねーっ」
脱兎のごとくバスルームへ逃げると、外からはクスクスと笑い声が聞こえてくる。
付き合う前に想像していた今野さんとは大分違うけれど、もう少し色々自重して欲しい部分もあるけれど、彼のペースに巻き込まれて、今、わたしの日常は楽しくてしかたない。
同じシャンプーの香り、同じ柔軟剤の香り、そして二つ並んだ別々の香りの香水瓶。
あの会社に、あの担当に派遣されて良かった。今は心からそう思う。稜也くんに出会えたから。