19:泥酔
んー、ちょっと今日は飲みすぎたかも。頭がぐるぐるし出している気がする。
でもまあいっか、たまには。
テーブルに頬杖を付きながら、鹿島さんのノロケ話を聞いていると、なんだか幸せのおすそ分けを貰っているような気がする。
わたしもそうなりたいな。そういう風に誰かの話をしてみたいな。
「そろそろこれにしとけ」
目の前に石川さんが烏龍茶を置いて溜息を吐く。
「お前飲みすぎだろ」
「んー。大丈夫です。それより甘いのがいいです」
「甘いのってジュースか?」
「違いますー。ホイップの上にチョコレートシロップが掛かっているヤツです」
はあっと溜息を吐いた石川さんが鹿島さんに目配せする。
「何でこいつコーヒー飲みたがってるんだ?」
「……知りませんよ。それにしてもやばいですかね」
「あー。そーだな。やばいかもしれないな。大分目がとろんとしてるしな」
わたしを間に挟んで交わされる会話にぼんやりと耳を傾けている。けれど、あんまり内容は頭に入ってこない。
「いっそコーヒー飲ませちゃったほうがいいんじゃないですか? 買ってきましょうか?」
「コーヒーじゃないんですっ。コーヒーじゃなくって」
その先は上手く言葉にならなかった。かくんと体が傾いで危うくテーブルに頭を打ち付けるところだった。
はっとして顔を上げるけれど、頭が重たくて目を瞑りたくなる。
ううん、もう瞑っているかも。気持ちが良い。
「沙ー紀っ。一体お前何杯飲ませたんだよ」
「そんなに飲ませてないよ。こーんーのっさーんっ」
「どうしました?」
「私そんなに飲ませて無いですよね。いつものペースでしたよね?」
「あー。うーん。どうでしょうね。でも随分ゴキゲンな顔で寝てますよ」
「よっぽど普段より笑ってんじゃねーの、こいつ」
頭上で色んな会話が交わされていくけれど、どれも頭に入らない。
耳を通り、頭を通らず、耳から抜けていく。
鹿島さん。信田さん。石川さん。今野さん。
よく知るその声が、心をふわふわと柔らかくしていく。
「しばらくしたら起こしましょう。とりあえず寝かしておいたほうが良さそうですよね」
「あー。そうだな。そっちに転がしとくか」
「転がしとくって、石川さん。ぬいぐるみじゃないんだから」
「とりあえず、この辺片付けとくか」
「そうだねー。頭ぶつけたりしてもいけないしね」
横に座っていた鹿島さんが立ち上がった気配がする。
カチャカチャという音だけが耳を通り過ぎていく。
手伝ったほうがいいのかなー。でも目が重たくて開かない。
ゆらゆらと体が右に左に揺れていくのが、ぐるぐるして気持ち良いような気持ち悪いような。
まるで眠い時にゆりかごに入れられたみたい。
んー、でもなんか体がぐわんぐわん動くと寝にくいなあ。
そう思っていると誰かの腕が揺らぐ体を受け止めてくれる。誰だろう。どうもご親切に。
「加山さん。横になったほうがいいよ」
何て甘美な誘い。ありがとう、鹿島さんっ。
言われるがままにテーブルから体を離してゴロンと横になる。
あー。気持ちいい。お布団みたい。いい匂いがするー。この匂いなんの匂いだっけ。柔軟剤?
「あーらら。本当に寝ちゃったんだ。でも重くないですか?」
苦笑交じりの鹿島さんの声がして、意識はそこで途絶える。
「かーやーまーさーん。朝ですよー」
ぎょっとするような言葉にパチっと目を開く。
やばいっ。朝まで寝ちゃった。寝坊した? 確か飲み会に行っていたはずなのに。
慌てて目を開くと、目の前には座り込んだ鹿島さんが笑っている。
「おはよう? ここお開きにするって」
「あっ。はいっ。すみませんっ」
良かった。朝じゃなかった。でも飲み会の最中に寝ちゃうなんて、なんたる失態っ。
慌てて体を起こすと、さらっと誰かのスーツが体から落ちる。それを手にとって鹿島さんを見ると、くすっと笑われる。
「それ、加山さんが手離さなかったから、とりあえず置いていったみたいだよ」
くすくす笑う鹿島さんが他の人たちがいなくなった個室の中、引き起こすように手を差し伸べる。
どうやらお会計も済んで、先にみんな外に出たらしい。
それにも気が付かないほど熟睡していたとはっ。
「これ、わたしが?」
離さなかったのかな。寝てる間に誰のスーツをお布団の代わりにしちゃったんだろう。
申し訳ないことしたなあ。皺になってないかな。
はっ。ヨダレついてたりしたらどうしよう。
「そう。ぎゅっと掴んで離さなかったから、脱ぐ時も大変そうだったよ」
「うっかりお布団と間違えたのかもしれません。すみません、迷惑掛けてしまって」
きょとんとした顔をしたあと、あははははと鹿島さんが笑い声を上げる。
「起きたらいつもの加山さんだ」
ははっと笑っている鹿島さんはお酒で頬を染めていて、いつもよりも少し楽しそうで声のトーンが高い。
「この後カラオケ行くー? みんなは加山さんは帰した方がいいって言うんだけれどね、誰が送るかが問題で」
「今日はちょっと飲みすぎたので、カラオケは辞めておきます。家、隣駅なんで一人で帰れますよ」
はーっと可愛い溜息を吐き出して、腰に手を当ててびしっと目の前に指を指す姿はまるで先生のようだ。
「ダメっ。そんな酔っ払ってる加山さんを一人で帰せませんっ」
「でも」
「ダメ。絶対にダメっ。だから誰かに送らせるよ。こういう時は下っ端がそういう仕事するんだけれどね、ヤツがいくら草食系とはいえ送りオオカミに変身しないとは限らないしねー」
ん?
首を捻ると、わかってないなーって鹿島さんが呆れる。
「だって今野さん、加山さんのこと狙ってるもん。そんなヤツと一緒に帰らせるわけにはいきません」
ドキっと胸が跳ねる。
ありえるなと想像したら、頬が熱を持った。一緒に帰るなんて事になったら、絶対に「誘惑されときなよ」って言われるに違いない。
氷の解けた烏龍茶を一口飲んで、平常心を保とうとする。けど、頭の中にはちらちらと昼間のカラオケでの情景がチラついてしまう。
柔らかい声と、爽やかな香水の香りと共に。
「あのさー。聞いてもいいかな」
それまでの口調よりも一段低い声で囁かれる。
変に胸がドキドキしていたのに、その声でふわふわした気持ちから現実に引き戻される。
「加山さんって誰が好きなの?」
「あ、あの」
「どうせなら告っちゃいなよ。みんなまだいるんだし、送ってもらうなら好きな人のほうがいいでしょ」
こっそりと「どうせ送って貰うなら」って思っていた事を指摘されて、かーっと頬が赤くなる。
「何か悩んでいるなら話聞くからさ。ここまで飲ませちゃった責任もって」
いつになく真剣な表情の鹿島さんが、ぎゅっと手を握る。
本気で心配してくれているんだろうと、手の温かさから伝わってくる。
どう説明したらいいのだろう。自分の気持ちと向き合うことを今まで避けてきたのに。避けたかったからこそ、飲んで逃げたのに。
「あの、ですね」
「うん」
「わたし、多分最初は石川さんの事が気になっていたと思います。それは間違いないです。そこまではわかるんですけれど」
「うん?」
「自分でもよくわからなくなって。響さんがいて、二人で会ったりしたらいけないと思って、そう、言った事があるんです」
少し驚いたような顔をしたけれど、鹿島さんは変わらずぎゅっと手を繋いだまま話を聞いてくれる。
「二人で会ってたの? 外で?」
「はい。休みの日に一度だけですけれど」
「それで石川さんは?」
「ばーかって」
「は?」
「だから、ばーかって言ってそれっきりです」
繋いでいないほうの手で鹿島さんは頭を抱えた。「あの人は全く」と呟いて溜息を吐き出して。
「それはいつ頃?」
「響さんが支社に来た頃です」
「年末、よりも前かな」
「はい。12月くらいです。確か」
「そっかー。それで加山さんはどうしたの?」
「期待したくないから近付くのを止めました。だからあれ以来出かけたりとかしてないです」
うんうんと頷いて「そうだよね。そうしたくなるよね」と同意してくれたことに、少しだけ気持ちが楽になった。
だって拒絶したんだもの。あの時石川さんはわたしの事。
あの時の光景が瞼の裏に浮かんで、その時のがっかりした気持ちが蘇ってくる。
「今野さんとは何もないの?」
問われて、瞬間的に今日のことが浮かんで急激に心臓が音を立て始める。
あれは説明したくないなあ。恥ずかしすぎて。
けれどその変化を名探偵鹿島さんが見逃すわけが無い。
「何かあったんだね」
キラリと光る視線は追求から逃す事はしないわよと言っているようだ。
とりあえず今日のことは隠しておこう。ダーツバーのことなら言っても構わないかもしれない。
「あー。ええっと。いつからかは正確には覚えてないんですけれど、毎週のように金曜日に飲みに行ってます」
「え? まぢで!?」
理知的な探偵は、あっという間にテレビの前でスキャンダラスな話を聞いた視聴者のように態度を豹変させる。
「全然気付かなかったー。二人ともそんな素振り全然見せないんだもん。金曜の飲み会は加山さんは来ないものだって思い込んでたし、今野さんは遅れて参加するけれど金曜日には何か予定を入れているような事を言ってて、まさか二人が会ってたなんて思いもしなかったよ」
「……そうなんですか?」
毎回ではないけれど、飲んだ後に課の飲み会に合流すると言って去っていった今野さん。そうじゃない時は隣の駅までだけれど、一緒に帰ったりしてた。
金曜日の飲み会は誘われないなーなんてのんびり考えていたけれど、何度か断った事があったからそのせいだったのか。
こくこくと何度も鹿島さんが首を縦に振る。
「そっかー。そういう裏があったのかー。今野さん、やるなあ」
妙に関心している鹿島さんに、うんうんと同意するように頷き返す。
「でも最初はエクセルのお礼でって言われて、それから賭けに負けたからまた次も飲みましょうってことになって。それでいつの間にか毎週飲みに行くようになって」
「へー。その間何にも言われたりされたりしなかったの?」
「……しないです」
今日の昼間のカラオケ以外は。
それは隠しておこうと思った。絶対に口を割るものかと。
「だからわからなかったんです。今野さんがどういう風に想っているのかなんて」
「加山さんは石橋を叩いて渡るタイプだから、相手の気持ちがわからないと動けないんだろうね。でも好きなら好きって言ってもいいんだよ。誰かを傷つけるとか自分が傷つくかなとか考えないでさ」
ぽりぽりっと鹿島さんが頬を掻く。
「石川さんって面倒見がいいからね、あの人といると変に期待するのはわかるよ。私にも覚えがあるし。ああいうぐいぐい引っ張っていってくれるタイプに惹かれるの、わかる。騙されちゃうんだよね。相手が自分の事好きなのかなーとか、自分が好きになっちゃったのかなーって」
「鹿島さんも?」
「あー。内緒よ。ダーリンには言わないでね」
目配せした鹿島さんが口の前で人差し指を立てる。あれで意外とヤキモチ焼きで面倒くさいのとノロケを付け足して。
「でも憧れは憧れでしかないでしょう? 私にはただの憧れの人だったな。加山さんはどう?」
真っ直ぐに見つめる鹿島さんから目を逸らし、宙を見上げて考える。
石川さん。石川さん。石川さん。
頭の中で色んな石川さんを思い出してみる。
ゆうって呼ぶ声。意地悪な笑い方。からかって楽しそうにしている顔。タバコを吸う横顔。
その全てが胸をくすぐるけれど、でも違う人の顔が頭に浮かぶ。
優しくて柔らかい声。魅惑の笑顔。ダーツをして楽しそうに笑う顔。時折見せる企み顔。
二人の姿を思い浮かべ、どちらの手を取りたいのか。
ううん、違う。どちらに傍にいて欲しいのか。
「わたしは……」
鹿島さんの手を離し、膝に置いたままのスーツをきゅっと握り締める。
喉の奥に何かがひっかかり、胸がドキドキと音を立てる。
握り締めたスーツからはよく知る香りがタバコの匂いと混ざって立ち上り、心を落ち着かせなくする。
全部見てたはずだ、全部わかっていたはずだ。傍で見ていたから。でも何も言わずに傍にいてくれたんだ。
きゅんっと胸が締め付けられる。
「わたし、気が付かなかったんです。あんまりにも傍にいたから。自分の気持ちも相手の気持ちも」
「うんうん」
「一緒にいるのが居心地が良すぎて。でも、わたし……」
くすっと笑って鹿島さんが口の前に人差し指を立てる。
「それ以上は私じゃなくて本人に言ってあげなよ」
ちょうどカチャリと音を立てて、背後で個室の扉が開いた。