17:気持
定時の鐘が鳴り、会議室からの解放を告げられる。
扉から出るのと同時に、石川さんに手首を掴まれる。
「ちょっと付き合え」
有無を言わせぬそれに「はい」と答える以外に無い。
ずっと避けていたシチュエーションだけれど、逃げるという選択肢は選びようがない。選ばせては貰えない。
「外で話すか」
喫煙所でって意味かな? それにも「はい」と答えると、さっさと荷物をまとめろと囃し立てられる。
外って、部屋の外って意味ではなく社外でっていう意味だったんですか。
石川さんの勢いに負けて素直に退社の準備をしていると、隣の席の今野さんが顔を上げる。
「何だったんですか。話って」
「契約の事で」
佐久間の件をここで口にするのは憚られたので、お茶を濁すかのように短い返答を返す。
今野さんは座ったままで、見上げるようにしてわたしの事を見つめる。
何かを言いかけて口を「あ」の形に今野さんが開いたかと思うと、ぐいっと後ろから手を掴まれる。
「帰るぞ」
低いその声は振り返らなくても誰だかわかる。
「あれー。加山さんとデートですか? 石川さん」
きうちゃんのご機嫌な声でドキっと胸が跳ねる。デート? え? デートなんですか?
振り返って石川さんを見てみたけれど、顔色一つ変えていない。肯定も否定もしないで受け流している。
「仲がいいんですね」
ニッコリと笑うの、やめてください。今野さん。心の底からそう思って笑ってます?
絶対本心では違う事考えてますよね。
そうやって今野さんに笑われると、心が引きつるように痛くて思わず眉を潜めてしまう。
「別に仲が良い訳じゃねえよ。仕事の話があるだけ。なんなら仕事終わったら合流しろよ。いつものところで飲んでいかねえか」
「いいですねー。報告書まとめたら合流します。他に誰を誘いましょうか」
「いつものメンバーでいいだろ。信田さんにはもう伝えてある」
「わかりました。では19時スタートくらいでいいですか?」
「ああ。任せる。じゃあな」
目の前で石川さんと今野さんが飲み会の段取りをぱっぱと決めていく。
ほっとして息を吐き出した事に誰も気が付いていない。一瞬でも「デート」という言葉に反応したわたしがアホでした。
「置いてくぞ」
「あ。はい」
机の下のカバンを取る為にしゃがむと、今野さんの机からボールペンが一本落ちてくる。
ボールペンに手を伸ばすと、椅子からボールペンに手を伸ばした今野さんの視線とぶつかる。
伸ばしていた手に今野さんの手が重なってぎゅっと掴まれる。けれどほんの一瞬だけのこと。まるで何も無かったかのような顔をしてボールペンを拾い上げて「りょーちゃんスマイル」を浮かべる。
「どうもありがとうございます。またあとで」
「……はい。お疲れ様です」
触れた指に胸が跳ねたのはわたしだけだったんだろうか。
心臓が痛いくらい音を立てて主張しているのに、今野さんは何も無かったかのような顔をして仕事している。
ほんの一時間前くらい前の出来事は夢だったのだろうか。もしかして白昼夢?
そう思ってしまうほどに、今野さんの横顔はわたしを拒絶しているように見える。
胸が痛んで後ろ髪引かれる思いを残しつつも、扉の前で陣取っている石川さんへと歩み寄る。
「たまには酒の前にコーヒーでも飲むか?」
「いいですよ、無理しなくても。甘いコーヒー嫌いじゃないですか。しかも禁煙ですよ、コーヒーショップ。煙草吸えるとこのがいいですよね、石川さん」
くくっと喉を鳴らして笑うのは石川さんのクセかもしれない。
扉を閉めながら石川さんが陽気な声を上げて笑う。あの出かけた日からあんまり二人きりにならないようにしていたけれど、やっぱりどこか心地いい。
見上げると石川さんの手が頭を撫でていく。
子ども扱いしてと言いたくなったけれど、さっきの今野さんの言っていたことを思い出して口に出すのはやめた。
「みんなが来る頃には出来上がってるかもしれませんけれど、飲みに行きます?」
「あー。とりあえずそうするか」
いつも課の飲み会で使っている居酒屋に着き、個室にしようかという話になって、人数がわからない事に気が付く。
「あ。じゃあ今野さんに電話して確認してみます。その間に一服しててください」
「んー。よろしく」
石川さんがお店の外の喫煙コーナーに出たのを確認して、今野さんに電話を掛ける。
電話するのなんて数えるほどしかしたことないなあ。たまにメールはするけれど。
コール音が二つ鳴った後「はい。今野です」と耳障りの良い声が飛び込んでくる。
「あ、あの、加山です。お疲れ様です」
--お疲れ様です。あ、ちょっと席外すんで待っててもらえます?
きうちゃんに何か言う声がして、その後に「すみません」と声が大きくなる。
--今どこ?
ドキっと胸が跳ねた。いつもの今野さんじゃない。さっきの今野さんだ。
廊下を歩いているのかもしれない。歩く音が電話越しに伝わってくる。
「いつもの居酒屋なんですけれど、人数確認したくて電話しました。10人以下なら個室も空いているということですけれど、どうしましょうか」
--んーとね、10人で足りると思う。急だったから派遣さんは鹿島さんしか来ないって言うし。
「そうですよね。じゃあ個室で予約しておきます。今野さんは……」
--行くよ。早く来て欲しい?
「なっ。なっ。なっ」
クスクスっと電話越しに聞こえる声に顔が紅潮していく。どうして傍にいなくてもたった一言でドギマギさせるんですか、本当に。
後で文句の一つも言ってみようかな。
そんなことを思っていると、電話の向こう側で今野さんを呼ぶ声が聞こえる。
多分聞き間違えでなければ、お局ボイス!
--じゃあまた後で。
プツっと切られた電話を眺めていると、煙草を吸い終わった石川さんが戻ってくる。
「何人だって?」
「あ。10人で足りるそうです」
「じゃー個室にするか」
横をすり抜けて店員さんと話をする石川さんの姿を見ながらも、頭の中ではさっきの今野さんの声が再生されている。
もしかしたら大分重症かもしれない、わたし。
通された個室に入り、コートを掛けてカバンを置くと、石川さんが目の前にメニューを差し出す。
「とりあえずビールにするかと聞きたいところだが、その前に話がある」
思いのほか真摯な声にドキっと胸が跳ねる。
広い部屋の中で二人きりで向かい合っていると、前に二人でミニ懐石を食べた日の事を思い出す。あれからまだ何ヶ月も経っているわけじゃないのに、ずっと前の事のように思える。だけれどつい昨日のことのようにも思える。
「何でお局の事、誰にも相談しなかったんだ」
「……相談するような事じゃないと思っていました」
「俺にも?」
問われた意味がわからなかった。
どうして石川さんに佐久間の事を相談しない事を責められるのだろう。どうしてこんなに詰問するみたいな言い方をするのだろう。
それよりも何よりも、何て答えたらいいのかわからなかった。
どうしてそんな事を聞くのか、わからなかった。
「誰かに言って解決する事ではないと思っていたからです。何が原因かはわかりませんが、佐久間さんに嫌われていたようでしたし、それを人にあれこれ言うのは悪口を言うような気がして」
はーっと石川さんが溜息を吐きだし、手近なところにあった灰皿を引き寄せる。
カチカチっとライターで火を点けて煙草の煙を燻らし、反対側の手でがしがしっと頭を掻く。
「んなの、理由なんて考えなくてもわかるだろ」
「更年期だからですか?」
「違うだろ。今野が原因だろ」
「こんの、さん?」
やっぱり「可愛いりょーちゃん」に近付く女は誰一人として許せないとか、そういう感じなのだろうか。
だとしたら今野さんを自分の隣の席に座らせるとか、派遣は男性に限るとかにすればいいのに。そういうところに頭が回らないのだろうか、お局。
「ゆうがパソコン出来るから今野がゆうにあれこれ聞くだろ? それが気に入らなかったんだよ。元はな」
「そんな理由ですか」
がくっと肩を落としたい気分になった。むしろ今落ちているかもしれない。
公私混同も甚だしいな、色ボケお局めっ。
「じゃあ他担当に移るっていうのは、お局対策的には大当たりってことですね」
頭を抱えたい気持ちでいっぱいになったけれど、それがきっと正解って事なのだろう。
恐らく石川さんは「今野さんに近付くな」と言いたいのだろう。お局の風当たりを考えると。
「まあな。だからお前が相談してきたら、早めに他所の担当に移すことも出来たんだって」
「そんなこと、出来るものなんですか?」
「口実は色々作れるよ」
煙を吐き出しながら石川さんが煙草を揉み消す。
そして続けざまにもう一本煙草を咥える。咥えたかと思うと、目の前に箱を差し出して、わたしに一本手にとるように促す。
「ありがとうございます」
「煙草の一本くらいどーぞ」
言いながら目の前にライターの火を差し出すので、その火に煙草を近づける。
二本の煙草から同時に煙があがり、白い雲のようにたなびいていく。
「四担、来るか?」
その言い方、その目線。それが全く違うものを指しているように思えた。
仕事の話をしているのに、まるで違う誘いをしているみたいに。
「わかりません。わたし一人では決められません。派遣元も仕事を幾つか探してきてくれているので個人の意思だけでは決められませんから」
事実をありのまま口にし、思わせぶりな石川さんと正面からぶつかることを避けた。
額面どおりに仕事の話をするわたしをどう思ったのだろう。
石川さんはほんの少しだけ口元を歪めるように笑みを浮かべる。
「本当にゆうは真面目で融通が利かない。俺が言っているのはそういうことじゃないよ」
「なんですか?」
「お前の気持ち。お前はどうしたいのかって事」
「え?」
「ゆう。お前はどうしたい?」
言いながらテーブルの上に乗せられたわたしの手を石川さんが掴んだ。ずるいです、石川さん。胸のドキドキが止まりません。
まっすぐに見つめてくる視線は、さっきの今野さんの視線と同じような雰囲気を感じる。
けど、でも……。
「どうしたいかと聞かれたら残りたいですよ。職場は好きですし、それに時給も良いですから」
「……そっか」
掴んでいた手を離し、石川さんがふーっと煙を吐き出す。
石川さんはいつだってずるい。自分の気持ちを口にする事をしない。まるで傷つくのを怖がっているかのように。先にわたしに「何か」を言わせようとする。
煙草を揉み消し、カバンを持って立ち上がる。
「ちょっとトイレ行ってきますね」
「ああ。飲む前に搾り出しておけ」
「……それ、女性に言う言葉じゃないですよ。石川さん」
ケラケラ笑いながら手を振る姿からは、先ほどの石川さんの片鱗も見えない。いつもどおりの人当たりの良い気さくな石川さん。
好きだけれど、でも、それは。
トイレに行く途中で仕事を早めに切り上げてきたのだろう見知ったいくつもの顔に出会いホッとする。
今は二人で話をしたくない。石川さんと。
すれ違う時に今野さんがポンっと肩を叩いていく、いつもの「りょーちゃんスマイル」で。その笑顔にほっとする。
よかった。いつもどおり笑ってくれて。