16:呼出
ぎゅっと抱きしめられたまま腕に閉じ込められているわたしの髪を、今野さんの指先がゆっくりと撫でていく。
でももう片方の腕は絶対に緩めたりはしない。
何か言わなきゃ。そう思って顔を上げようとすると、ちょうど顔が当たる今野さんの胸ポケットのあたりで振動音が起こる。
顔を通じて伝わるそれに、今野さんの顔を見ようと顔を上げようとしたのに、ぎゅっと再び腕に閉じ込められる。
だから、そんな事してもね、気になるんだって。寧ろ頬骨のあたりがブーンブーンってしてるから離して。
いつの間にか止まっていた大音量の音楽に代わって、部屋の中には携帯のバイブ音が静かに存在を主張している。わたしの顔には静かにどころか騒がしいくらいにだけど。
「鳴ってますよ」
そんな事はわかっているとでも言わんばかりの冷ややかさで、チっと今野さんが舌打ちする。だけれど次の瞬間にはわたしに笑みを向ける。多分佐久間が見たら気絶しそうな甘ったるい笑み。
でも今明らかに、めちゃくちゃ嫌そうに顔を歪めましたよね?
わざわざ聞いたりしないけれど。
意外に感情の揺れ幅の広い人なんだな。仕事中はあんまりそんな風に感じないのだけれど。
少し緩められて目線は振動し続ける携帯へと向けられる。
しつこく鳴らされるそれに、もしかして仕事関係なのではないかという疑念に駆られる。
「あの。出なくていいんですか」
「……超邪魔」
え? あ? わたし?
携帯を手に取って、後ろ向きな考えが浮かんで体を離したわたしを、再び携帯を持たないほうが体を引き寄せる。
「はい。今野です」
明らかに声が不機嫌そうです。今野さん。
何かあったのか心配になって顔色を窺うわたしには、何でもないよというような感じで首を横に振る。
--お前、今どこ?
「内緒です。今日は直帰なので、急ぎの案件で無ければ明日聞きます」
頬がスーツに押し付けられているような状態なので、携帯での会話の内容は丸聞こえ。
相手が石川さんだというのは第一声でわかった。
それにびくりと体が反応したのが今野さんに伝わったのは間違いない。
本当に今すぐ切らんとする今野さんを慌てて制すると、石川さんは咳払いを一つする。
--ゆうは。
突然告げられた自分の名前にぎょっとする。
どうするのだろうと今野さんを見上げるけれど、視線は宙を睨んでいる。不機嫌そうな表情のままで。
「ゆうって何です? で、案件はなんでしょうか」
--今野。そこに加山がいるなら出して。
「加山さんですか? いいですよ」
はいっと目の前に差し出された携帯をおそるおそる手に取り、ゆっくりと耳元に持っていく。
今野さんの腕の中から解放され、表情を窺うように視線を送るけれど、苦笑して首を横に振るだけ。
--ゆう?
「はい。お疲れ様です」
--何してた?
「え……っと」
一瞬なんて答えようか躊躇したけれど、色々省略して答えるのが最適だろう。ついさっきまでの熱を悟られるわけにはいかない。
少し今野さんから離れたことによって、僅かながら冷静さを取り戻しつつある自分がいる。
「定時の時間まで時間があったのでお茶してました。すみません」
--あっそう。悪いけど四担と五担と一担で話したいことがある。戻ってきてくれ。ああ、そこの今野は別にいらないから帰らせていいよ。早く帰りたいみたいだから。
どうして四担と五担? で、今野さんは帰らせていいって言われても。
それをどうやって伝えろと。それは結構難題です、石川さん。
表情に全部出ていたのかもしれない。今野さんがわたしの頬をすっと一撫でしていく。そして仕事モードの顔に戻る。
「どうしました?」
「はい、今野さんは戻らなくていいけれど、四担と五担と一担で話があるから戻ってきて欲しいそうです」
掻い摘んで説明すると、今野さんがわたしの手許から携帯を奪う。
見慣れた横顔はいつもどおりの今野さんだ。
「話ってなんですか。珍しい三担当の取り合わせのような気がしますけれど。それに四担と五担に加山さんは関係ないですよね」
--お前には関係ねえよ。とにかく加山に戻るように伝えて。どーせお前らのことだからコーヒー片手にのんびりしてたんだろ。
「まあ間違ってはないですね。飲みきったら社に戻ります。では」
会話を切り上げてピっと今野さんが携帯を切り、更には電源まで落としてしまう。
不機嫌そうな様子でわたしを睨むの、やめてください。
「戻りましょう」
溜息交じりに言う今野さんに、首を縦に振るしかない。
セキュリティカードを通して営業課の部屋の中に戻ると、石川さんが席を立ってこちらまで歩いてくる。
「ゆう悪いな。わざわざ戻らせて」
「いえ。大丈夫です」
今野さんは我関せずといった様相で自分の机に向かって先に歩いていく。
クール、なのかな。それとも不機嫌なのかな。
カラオケボックスで見た甘さの片鱗はなりを潜めて、いつもどおりなんだけれど、それが素っ気無く感じるのは意識しすぎなのかな。
「悪いんだけれど、あっちで話がある。いいか?」
「はい」
指し示されたのは課の会議室。
カバンとコートを席に置いて石川さんと連れ立って歩き出すと、苦虫を潰したような顔の佐久間が横を通り過ぎる。
ふんっと大人気ない余韻を残していくのを振り返ると、ちっという舌打ちの音まで聞こえる。
可愛さ溢れる自称25歳。
普段の年甲斐もなくクネクネしている気持ち悪いような可愛らしさはなりを潜めている。
思わずその姿に溜息が漏れる。
そこまであからさまに嫌わなくてもいいのに。よっぽど今野さんと二人で外出したのが気に入らなかったのかな。
大好きな「可愛いりょーちゃん」だもんなぁ。
石川さんに先導されて会議室に入ると、ぱたんと扉の閉まる軽い音がする。
なるべく二人きりにならないようにしていたのに、こんな形で二人きりになるなんて。
あの出かけて遊んで食事をした時以来、こうやって間近で顔を見上げる事すら殆どしてこなかった。
「ゆう」
「はい」
「お前、契約切られたのか?」
「……あ、はい。三月末までです。今日派遣元の人が来て知りました」
「そうか。まあ座れ」
今日この椅子に座って人と話すの三度目だ。今日は妙に会議室づいてる。それも全部契約絡みだし。
でもどうして契約の件を石川さんが知っているんだろう。
カチャリと音を立てて開いた扉の向こうから、伊藤さんを先頭に、課長、佐久間、四担の担当長さん、五担の担当長さん、それから五担の信田さんが入ってくる。
妙に大所帯だし、課の中のそうそうたる顔ぶれに体に緊張が走る。
一体わたし、何をやらかしてしまったのだろうか。
一担はともかくとして、四担や五担まで巻き込むような何かをしてしまったのだろうか。覚えにないけれど、もしかして間違って重要書類をシュレッダーにかけちゃったとか、社外秘の文書を間違えて取引先資料に入れてしまったとか。
ああ、どうしよう。
一人パニック状態になっているけれど、全員が席につくまで誰一人として口を開こうとはしない。
一番下座に座るわたしから見ると一番遠い上座に課長が最後に腰を下ろす。
「加山さん」
声だけダンディーと評される課長が口を開く。
やっぱりわたしかー! って当たり前だよね、この状況下でわたしが関係ないわけがない。
わざわざ外出先から呼び出されたんだもの。にしたって、課長以下三人の担当長が揃っているこの状況は一体何が始まるんだろう。
「一担からは君を更新しないと聞いていたんだが」
「はい。今日、派遣元から聞きました。3月いっぱいの契約で、更新は無いと」
「ぼくもそう聞いていたんだがねえ」
困ったような顔で、課長ははーっと溜息を吐き出す。
「聞けば君はミスが多くて、他の社員に尻拭いをさせることも多く、その結果一担の営業成績が振るわない原因になっているというじゃないか。そういう子を残しておいてもと思っていたのだが」
だーれーが、ミスが多くて、社員さんに尻拭いさせてるって? 全部佐久間だな、その言いっぷりは。
すでに「さん」を付ける価値すら心の中では無くなっているその人物を見る。
あんたの尻拭いをさせられてるんじゃないですかっ。いっつも、いっつも、いっつも。
「……課長。それは事実とは異なります。先日も申しましたが、加山さんはミスを連発して迷惑を掛けるような派遣さんではありません」
フォローしてくれたのは、事実上の一担長の伊藤さん。
ちゃんとわかってくれていたこと、そしてそれを課長にまで伝えてくれていたんだと嬉しくなる。
「寧ろ加山さんは使いにくいシステムの中で、どうやったら分析が容易になるのかを模索して提案してくれていました。そのようなスキルの高い派遣さんを手放すのは痛手です」
付け加えられた伊藤さんの言葉に、さっきここで悔し涙が出そうだったのに、今は嬉しくて涙が出そうだ。
逆に佐久間は心底憎憎しいといった表情でわたしを睨んでくる。
そんな風に思えるほど、どうして嫌われてしまったのだろう。終わりが見えた今はそれは恐れることではなく疑問でしかない。
「伊藤さんが高く評価している派遣さんですので、手放すのなら四担と五担の事務として契約更新をお願いします」
思いがけない言葉は四担の担当長さんから出てきた。
角刈りという表現が似合う短髪でがっちりとした体格の四担長さん。
何故四担長さんや五担長さんがわたしが辞めることを知っているのか疑問だったけれど、そうか、さっき下で派遣元と話していたのを聞いていたのか。だから今日の今日なのに知っているんだ。
「3月末で五担の鹿島も四担の桐野も抜けてしまいますし、一から育てるよりは勝手のわかる派遣さんがいてくれたほうが都合がいいので」
付け加えたのは五担長さん。
鹿島さんも桐野さんも辞めちゃうんだ。
派遣の中では一番仲がいい鹿島さん。鹿島さんと同じ派遣会社から来ている桐野さん。二人とも辞めちゃうなんて。
そういえば、桐野さんはそろそろ満期だからって大分前に言っていたような気がする。
「いやー。しかしねえ。一担では手に負えないような派遣さんなんだろう? 決裁書類を紛失したとも聞いたよ」
「ですから課長。そのような事実は一切ありません。そもそも決裁書類を紛失したのならば、それはその社員がキチンと管理をしていなかったという事です。即ち社員を指導する管理者の責任を疑うべきでしょう」
明らかに向けられたトゲに、課長はむっとした。
そして佐久間へとその怒りの矛先を向ける。
「随分聞いている話と違うみたいだけれど、佐久間ちゃん」
「あの、えっと。その……」
言い淀む佐久間に呆れたかのような溜息を吐き出した伊藤さんは、全く佐久間には興味がないといった風で、再び課長を詰問する。
「そもそも毎回毎回派遣さんが半年で変わるのをおかしいと思わなかったんですか。他担当の派遣さんと比べても遜色のない派遣さんたちでしたよ、全員」
「それはだなー。ほ、ほらっ。木内さんは仕事が出来るから残っているんじゃないのか?」
今度溜息を吐き出したのは五担長さんだ。
「木内部長の娘さんを追い出せるわけがないでしょう。いくら佐久間さんでも」
きうちゃんのお父さんって偉い部長さんだったんだ。初めて知ったっ。でも木内部長って支社にはいないよね。
若いのにしっかりしているし、佐久間もきうちゃんには優しいし、仕事もしっかりこなすから、こういうハキハキしたタイプの子が好きなんだろうなと思っていた。
そうじゃないんだ。そうじゃなくて、追い出したくても追い出せなかったのか。
ぎりっと歯を噛み締めて、ギラギラとした目で佐久間がわたしを睨む。
向けられた強烈な敵意にたじろぐと、ポンっと石川さんに背中を叩かれる。
見上げると「大丈夫」と音にならない声が伝わってくる。
「そういうわけで、一担長さんは加山さんを不必要だと思っているようですので、今後の契約に関してはこちらで動くように致します。早い時点で切ると知っていれば、派遣元を巻き込む事もなく契約更新の手続きを取れたのですが。まさか加山さんを切るとは思ってもいませんでしたので」
五担長さんが話し合いの終了を告げる。
これ以上課長と話すつもりもなければ、佐久間を槍玉に挙げて糾弾する必要も無いと感じているのだろう。
「何かこれ以上不平不満があれば、組合を通してもいいですし、社内コンプライアンスにこの件を報告する事も考えさせていただきます」
労働組合の支社内の役職についている信田さんの発言に、びくりと佐久間の肩が揺れる。
けれど誰もが佐久間に冷たい視線を送っていた。
多分これはわたしがキッカケにはなっているけれど、その他の部分でも何らかの問題を起こしているのかもしれない。
組合。社内コンプライアンス。
それは一派遣には全く関係のないものだもの。
「加山さん」
四担長さんが静かな声で問いかける。
「君の意見を聞いていませんでした。四担と五担の派遣さんとして残ってもらえませんか」
視界にはこくりと頷く信田さん。伊藤さんも首を縦に振ってくれる。
促すようにポンっと背を押した石川さんを見ると、石川さんも頷いてくれる。好きにしていいんだよと言うように。
「わたしはこの職場が好きです。だから残って欲しいと言われて嬉しいです。でも派遣元の考えもあるでしょうから、今ここで即答は出来ません。次の派遣先も用意していただいているので」
ふふんっと佐久間が笑う。
次が決まっていて、わたしがここに残らないのだと思ったのだろう。どうなるかは自分自身でもわからない。けれど、望みの糸が断ち切られたわけではない。




