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Papagena  作者: 来生尚
本編
15/99

15:誘惑

 ストレス溜まった時はコレに限るねと、にこやかに笑う今野さんが連れてきてくれたのはカラオケボックス。

 コーヒーショップで泣き出してしまったのだけれど、はっと気が付いて顔を上げた瞬間に今野さんと目が合ってしまって急に恥ずかしくなった。

 ここ、会社の人が結構使うコーヒーショップだから誰かに見られるかもしれないし。それにまだ勤務時間中だっていうのに。

 慌ててそんなことを口にしたわたしを笑い飛ばして、今野さんが「じゃあ場所変えよ」と言って連れて来てくれた。

 持込OKのカラオケで、手には半分以上残ったコーヒーショップのホイップたっぷりのまだすこし熱の残ったコーヒーと、今野さんのほとんど減っていないフラペチーノがある。

 二つのカップを持ったわたしに笑いかけ、手続きを済ませて今野さんが鍵を見せる。

「ここなら佐久間のバカー! とか叫んでも誰も咎めないし」

 ぎょっとするような事をさらっと言い退け、今野さんは部屋の中に入っていく。

 夕方のカラオケボックスは二次会で夜半に来るのとは違い、高校生や大学生たちで部屋が埋まっている。

 普段、課の飲み会で使うような広い部屋ではなく、こじんまりとした部屋で、これならお一人様でカラオケしても肩身の狭い思いをしなくて済みそうだ、と次回以降のストレス発散の算段をつける。

「ついでに大声で泣いても誰も笑わないよ?」

 語尾を上げた今野さんは窺うようにわたしを振り返る。

「泣かせたいんですか」

「うん」

 ぎょっとして部屋の入り口で立ち止まってしまったわたしの手の中から融けかけのフラペチーノを手にとって、今野さんはもう片方の手で部屋の扉を閉める。

「泣かせたいし、笑わせたい。泣かないのはともかくとして、加山さんあんまり笑わないでしょ」

 まだ涙の熱の残る目許に水滴のたっぷり付いたフラペチーノが押し付けられる。

「ひゃっ」

 思わず出た声に今野さんが目を細める。

「冷たい? 泣いたら目を冷やしたくなるでしょ」

 くすくす笑う今野さんだけれど、そこまで考えてフラペチーノだったのかと気が付く。

 さっきお店に入った時から、そんな事考えていたんですか?

「でも、もう一回泣かせてもいい?」

 すっと遠ざけられたフラペチーノ。手許から目線を今野さんのほうへと移すと、その瞳が笑っていない。

「俺のこと、怖い?」

 首を横に振るわたしを鼻で笑って、わたしの手の中から今野さんがコーヒーカップを奪う。そして自分の手の中のフラペチーノのカップと一緒にテーブルの上の灰皿の傍に置く。

「座って」

 言われるままにソファに腰を下ろす。

 何故為すがままになっているのか自分でもよくわからないけれど、言われるがままにコートを脱いで置いたカバンの上に掛ける。

 一連の動作を見ていたのか見ていなかったのか、今野さんはいくつかの曲の予約をしていく。

 急に大音量で部屋の中に流行の歌が流れ出す。

 でも、決して歌うつもりではないようだ。マイクに手を出すわけでもなく、テレビの画面を見ているわけでもなく、淡々と曲を入れ続ける。

 何をしているんですかって聞けばいいんだろうけれど、あっけに取られすぎて言葉さえも失って目の前の光景を眺める。

 一通りの作業が終わったようで、「さて」と呟いて、今野さんがわたしのほうに向き直る。

「加山さん」

「はい」

 業務中のように柔らかな声で名前を呼ばれ業務中のように答えると、今野さんの手がすっと髪の毛を撫でるように触れる。まるであやすように。

「わたし、子供じゃありません」

 くくっと喉を鳴らすかのように笑う今野さんだけれど、その手が止まることは無い。

「何でいつもそうやって子供扱いしないでってムキになるの?」

「そうですか? ムキになっているつもりはないんですけれど」

「俺には子猫が爪立てて警戒して怒っているようにしか見えないけど」

「何でそんな事言うんですか?」

「気になったから。そうやって誰にも甘えないでしょ。俺にだけかと思ったけれど、見てたら石川さんにもそうだよね」

 石川さん。

 この場で急にその名前が出てくるとは思いもしなかった。

 目を見開いてしまったかもしれない。そのくらい驚いてしまった。迂闊にも。

 一瞬目を伏せた今野さんは、次の瞬間にはブラックな笑みを浮かべている。何故その笑みにいつも体が凍り付いてしまうのだろう。

「好き?」

「……え?」

「石川さん」

 固まって、そのままじーっと今野さんを食い入るように見つめてしまう。

 何で? 何で石川さん? どうして心の中にちょこんと置き去りにされているモノのことを知っているの?

 いつから気付いていたんだろう。気が付いていたなら、どうして今、手の伸ばせばすぐに届くところにいてくれるの?

 何ヶ月か(主に社内で)長い時間を共にしていたのに、わたしは今野さんの何を見ていたのだろう。

 今までどういう気持ちで毎週のようにダーツに誘ってくれていたのだろう。

 ああ、でもいつだってダーツの後には石川さんたち課の人たちと飲みに行ってたんだ。どうして?

 ぐるぐると頭は回るのに、答えなんてどこにも無い気がする。

 知りたかったら聞けば? とブラックな笑みの向こう側で言われているような気さえしてくる。その答えは今野さんしか持っていないけれど、聞く勇気なんて持ち合わせていない。

 わたしの事どう思っているんですかなんて聞くのが怖い。だって自分の気持ちさえ掴みきれていないんだもの。

「でも俺のことも好きでしょ」

 にやっと笑った今野さんが頬を撫で、顎を掴む。

 これって、これって、これって一体??

 パニックで頭の中が真っ白だ。一体どうしてこうなった。

 ぱくぱくとまるで魚のように口を開閉するしか出来ないでいるわたしのことなど、今野さんはお構い無しだ。クールな表情で余裕綽々といった笑みを浮かべている。

 猫で例えるならば、今野さんが猫で、わたしは猫の前でなすすべもない鼠だ。

「だから泣いて。悔しくて悔しくて仕方が無いって言って泣いてよ」

「そ、そんな気分、とっくに吹っ飛びましたっ」

 今頭の中に契約の更新とか微塵もないし。

 それに全然会話の脈略ないじゃないですか。それとこれとはつながりませんっ。

「へー。それは残念だな。さっき可愛かったのに」

 ああ、ブラックな笑みだ。

 でも気が付いてしまった。わたし、多分今野さんのその笑い方好きなんだ。きっと罠にかかった哀れな鼠なんだろうけれど。

「可愛かったとか言われても、何も出ませんよ」

 精一杯の虚勢を張ると、今野さんは首を傾げて少しだけ顔を近づける。

 これって、これって。この体勢って。

 慌てたのはわたしだけで、今野さんの表情は変わらないままで、しかも本当にほんの少し、距離で言うなら数センチだけ近付いただけに過ぎない。

 何大慌てしてんのよっ。ばかっ。

 頬が一気に染まっていくのが、この至近距離にいる今野さんにわからない訳がない。

 絶対わかってる。

 でも絶対わかっているくせに、そんなことおくびにも出さない。笑みというポーカーフェイスが崩れない。

「出して」

「だから無理だと」

 というか、何を?

 既に会話の内容さえ頭には入ってこない。耳を通り過ぎ、鼓動の音だけが全身に響き渡っている。そして鼓動の中心から全身に熱が広がっていく。

 わかってる。

 見ないフリをしていたけれど、本当は心の中の蕾は一つじゃなかった事くらい。いつからかはわからないけれど、どうしようもなく惹かれていたことも。

「心を見せて。俺に」

「ぶ、ぶ。物理的に不可能です」

 脳の回転が確実に可笑しい。

 あははははっと高らかな笑い声を上げたかと思うと、今野さんはおなかを抱えて笑い出す。

 確かに可笑しいことを口走ったのはわたしです。でもそんなに派手に笑わなくってもいいじゃないですか。

 はははっと笑う今野さんに抗議をするように拳を握り締めて振り下ろす。当然痛くない程度の柔らかいものを。

「笑いすぎですっ」

 幾度か腕を叩いたわたしの手を、大きな今野さんの手が受け止める。

 きゅっと握られた手首から電流が走ったかのように全身に緊張が流れる。

 動きを止めたわたしとは対照的に、今野さんがゆっくりとした動きで手首を離してわたしの掌と今野さんの掌を指を絡めるようにして握り締める。

「とりあえず誘惑されときなよ」

 言われた意味を考えるより先に、唇に重なった柔らかな感触に思考を奪われる。

 ふんわりといつもと同じ今野さんの香水の匂いが鼻を掠める。それは距離が近い分だけ、いつもよりも濃厚に強く香りのノートを主張している。

 一瞬の出来事に目を見開いたまま固まっていると、繋いだ指先にぎゅっと力が篭められる。

 再び重なりそうになった唇に、まるで息を吹きかけるように言葉を紡ぐ。

「あ。あのっ」

 上ずった声を笑う事などせずに今野さんが困ったように眉を寄せて苦笑する。

 何かを言おうと口を開きかけた今野さんのより、先に言わなくてはいけないことがある。

 繋がっていないほうの手の指先で今野さんの口元を触れるようにすると、今野さんは繋いでいた指先から力をそっと抜く。

 お互いの指は解けてわたしの膝の上で行き場を失っている。

「今野さん」

「はい」

「あの、好きになっていいんですか?」

「どうぞ」

 ふわっと笑ったかと思うと、口元に添えられた指を節ばった大きな指で捕まえられ、反対の手が中途半端な距離を保っているわたしを引き寄せる。

 目を瞑ると、柔らかい唇が降り注ぐ。甘い甘い誘惑に心が蕩けてしまいそう。

 最初は遠慮がちに何度も啄ばむように重ねられた唇が、次第に情熱的なものに変わっていく。

 角度を変えて重なった瞬間に開いた唇の中に舌を差し入れられ、口内を舐め尽すかのように今野さんの舌が動き回る。

 その動きが堪らなくて耐え切れなくて、ぎゅっと今野さんのスーツを握り締めると、背中に回された手に力が篭る。

 呼吸をする事さえ忘れて与えられるキスに酔っていると、ふいに唇が離れていく。

「……はぁ」

 思わず漏れた吐息に今野さんが笑う。

「俺じゃないよね、誘惑してるの」

 くすりと笑って頬を撫でていく今野さんを見返しているわたしは一体どんな顔をしているのだろう。

 戸惑い? それとも?

「好きになって。俺のこと」

 もう結構好きなのにと伝えようと思ったけれど、思いは言葉にならなかった。

 思いを伝える為の唇には、音の代わりに今野さんの唇が重なったから。

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