14:落涙
伊藤さんと入れ替わりに会議室に入ってきた今野さんが後ろ手で扉を閉める。
そして伊藤さんが座っていた席に腰を下ろす。
「どうしました」
柔らかな声に、張り詰めた心がはじけそうになる。心の隙間にそっと染み渡るような声に。
「大丈夫です」
「だから何がって聞いてるんです」
「え?」
「何が大丈夫なんですか、加山さん」
弾けそうな心を辛うじて支えて、機嫌の悪そうな顔の今野さんを見つめる。
いつもニコニコ「可愛いりょーちゃん」スマイルは姿を潜めて「ブラック今野さん」に似た雰囲気を醸し出している。
でもそうじゃない。ブラックじゃなくて、本当に怒っているのかもしれない。
今まで見たどの今野さんとも違う表情に顔が強張ってしまう。でも今野さんのせいじやなくて、涙が出てきそうで我慢しているからかもしれない。
「大丈夫じゃないでしょう?」
食い入るように今野さんを見つめると、今野さんの手がすっと目尻に触れる。
今野さんの右手の人差し指がわたしの左目の淵をそっとなぞっていく。
「目、真っ赤」
困ったように笑う今野さんが今度は親指で下睫のあたりを撫で、大きな手がそのまま頬を包み込む。
「泣くの?」
「どうして疑問系なんですか」
「何ででしょうね。ここではあんまり泣かせたくないから聞いてみました」
ふふっと思わず笑みが漏れると、今野さんがほっと肩の力を抜く。
「ちゃんと話を聞きますから、泣くの、もう少しだけ我慢できますか?」
こくんと首を縦に振ると、今野さんが頬を包んでいた手を頭に持っていき撫でていく。
それがすごく心地いい。でもなんだか。
「子供扱いですか?」
くくっと喉を鳴らして笑った今野さんの手が離れていく。
もう少しと思ってしまったのだけれど、どうやらテレパシー能力はお互い無いらしく伝わらない。
「してませんよ、これっぽっちも。だからこの後俺に付き合ってください」
言われた意味がわからずにきょとんとしていると、さっさと用意してくださいと何故か急き立てられる。
会議室を出て自分の席に戻ると、今野さんはその足で伊藤さんの席まで行ってしまう。
電話の終わった伊藤さんは顔を上げて今野さんに声を掛ける。
何やら話しているのはわかるのだけれど、会話の内容はわからない。まさか契約の事じゃないと思うけれど、一度だけ私を見た伊藤さんにドキっとした。
しばらくすると話がまとまったようで、一担の前にあるホワイトボードに今野さんが何やら書き込んでいく。
今野さんと私の欄に「ラボ」「直帰」と書かれている。
ラボって、あの営業企画部が管理しているラボのことかな。
書き終わると席まで戻ってきて、今野さんは自分のパソコンの電源を落とす作業を始める。
「ラボにある一担のシステム模型のパソコンの調子が悪く、僕らではどうに解決できないので加山さんにシステムとパソコンを見て貰いたいので、ラボに行くので準備してください。伊藤さんの許可は貰いました」
「え。あ、はい」
言われて慌ててパソコン上で作りかけのデータを保存し、パソコンの電源を落とす。
カバンを手に取りコートを持った時には今野さんの用意は全て終わっていた。
「じゃあ行ってきます」
「いってらっしゃーい」
一担のあちこちから「いってらっしゃい」の声が上がるが、お局だけは苦々しい顔でこちらを睨みつけていた。
ラボと呼ばれているショールームでの作業は営業企画のSEさんがいたこともあって、あっという間に解決した。
定時は18時。でも作業完了15時。
ラボを後にして、近くのコーヒーショップに立ち寄る。
直帰にしたのにこの時間に連絡したら戻って来いって言われそうだから、と今野さんが笑う。
平日の昼間の空いた店内の中で座り心地の良さそうなソファを見つけ、そこに二人並んで腰を下ろす。こうやって並んで座る事には大分慣れたかもしれない。
ここ数ヶ月に渡るダーツバーの日々を思い起こすと、今野さんはカウンター席よりもソファのほうが好きなのかもしれない。今も迷わずソファ席を選んだし。
確かに木の椅子よりもゆったり出来る。
甘くてホイップが乗っかっているホットコーヒーを手にした私に対し、今野さんは何故かこの時期にフラペチーノ。
「寒くないんですか」
「あー。これ? 寒く無いよ」
と言いつつも今野さんのフラペチーノはあまり減る気配が無い。
数あるフラペチーノの中では比較的甘みの抑えられているそれを目の前に差し出される。
「寒いかどうか試してみる?」
柄が長く先の小さなスプーンにちょこんと乗せられたフラペチーノ。眼前にあるそれをパクリと口に入れると、今野さんがははっと笑う。
「寒い?」
「寒くないです」
「でしょ」
笑う今野さんを見て気が付く。そういえばラボを出た後くらいから多分、今野さん、敬語使ってない。
それがどうした? って言われるかもしれないけれど、体育会系でやたら上下関係に厳しくて、普段は絶対に年下ゆえのスタンスを崩さないのに。
なんでだろ。
「暖房効いてるとこにいると喉渇くしね」
付け足されたそれに、やっぱりそうだと確信する。
いつもと違う。
会社にいる時とも、一緒にダーツしている時とも。
どこが違うって明確に言えないんだけれど、違う。今野さんらしくないような、でも今野さんらしいような。明確にこうだって言えないけれど。
「さっき伊藤さんが言ってたけれど、加山さんってMOSの資格持ってて、情報処理の資格も持ってるって本当?」
「あ。はい。資格持っていたほうが派遣としては有利かなと思って取りました」
「へー。すごいね。通信とかで勉強したの?」
「いえ、独学で」
ここに派遣される前にはMOSの資格は持っていなかったのだけれど、どうしても自分の技術力を試したいのと向上させたいのと、誰が見ても技術があるとわかってもらう為に資格を取得した。
一項目1万円強なので、財布事情としては痛かったけれど、お局佐久間さんを見返してやりたかったんだと思う。
ちゃんと仕事で評価して欲しいっていう気持ちがあって奮起できた。
でも資格とってもクビになる時はクビになる。なーんか、骨折り損のくたびれもうけとでも言えばいいのだろうか。資格が取れたのは良かったけれど、本当にコレで良かったのかな。
「あのさ」
「はい?」
体を少し前のめりにした今野さんが、まるで顔を覗き込むようにする。何かを確かめるかのようなその表情にドキっと心臓が音を立てる。
「ちゃんと知ってるから。頑張ってたのも、今も頑張ってるのも。みんなわかってるから」
欲しかった言葉を言われ、涙腺が緩んでいく。心の中に淀んでいた澱が、その言葉をキッカケに全部表に出てしまいそう。
「……悔しい?」
「え?」
険しい顔で今野さんは溜息を吐き出す。
「あれだけ仕事してたのに更新されなかったから悔しかった? だってすごく頑張ってたでしょ、加山さん」
どうして知ってるの? どうして悔しいってわかったの?
ずっと頑張ってきたのに。佐久間さんに気に入られていないのはわかっていたから、せめて仕事にケチをつけないようにと前向きに頑張ってきたのに。それさえも評価されていなかったなんて。
伊藤さんはああ言ってくれていたけれど、本当にちゃんと仕事出来ていたならば佐久間だって更新せざるを得ないはずだ。どんなにわたしの事を嫌っていたとしても。
そうじゃなくて更新されなかったってことは、まだ足りないところがあったはず。
もっと。きっともっと出来たはずなのに。
みんなと仲良くなりすぎたのがいけなかったのだろうか。佐久間に嫌な顔されるってわかっていても席を外して喫煙所で休憩していたのがいけなかったのだろうか。
どうしたら良かったのだろう。
でも今以上にどうやって仕事したらいいのかも、わからない。それに何より、私は評価されていない。
胸が痛くて張り裂けそうで、そこが熱いくらいの熱を持っていて、今にも破裂してしまいそう。
醜いもの全てを内在している、全身を沸き立たせるような、それでいて全てを壊してしまいそうな勢いのある塊がどんどん膨れ上がっていく。
「泣いていいよ」
頭上から降る声にはっとして顔を上げる。
「悔しいって言っていいよ。俺に全部見せて。受け止めるから、全部」
心の底から湧きあがってくる衝動を抑える事は出来ない。あっさりとダムが決壊するように心が溢れ出していく。
流れ落ちる涙を指で掬いあげ、今野さんがぎゅっと腕の中に私を閉じ込める。
嬉しかった。ちゃんとわかってくれている人がいること。頑張ってきた事も、今悔しくて泣きたいことも全部わかってくれる人がいる。
「ありがとうございます」
涙声で言うそれは、今野さんのスーツに吸い込まれていく。
「どういたしまして」
耳元で囁かれる声が心地よくて、ぎゅっと今野さんの上着を握り締めた。