10:昔の男
金曜の夜、いつものようにダーツを投げ、そして電車に乗る。
たった一駅だけれど車内は適度に空いていたので椅子に腰を下ろしてふーっと息を吐く。
なんだか毎週今野さんとダーツしてる気がする。
多分、気のせいじゃなければ、そんなに悪く思われてないんだと思う。いや、それでも足りない。多分好意を持たれている。
決してそういう事を口にしたわけじゃないし、何か特別距離を縮めようとしているわけではない事はわかるけれど、自分の事を俺っていう時の今野さんは一担での今野さんとは違う。
それは感覚でしかないから、自惚れじゃないかとも思うのだけれど、でも何度こうやって二人で飲みに出かけたんだろう。
今野さんといると楽しい。癒される。あのスマイルはすっごい武器だと思う。
断る理由がないから一緒にいるのか、それとも断りたくないから一緒にいるのか。それはまだよくわからない。
変に一歩踏み出して、仕事しにくくなるのも嫌だし。
それになによりも、もう傷つくのは嫌だな。
弟のヒロトが過剰に心配しているのは、私が昔こっぴどい失恋をしたからだ。
大学時代に付き合っていた彼氏とは結構長く付き合っていたのだけれど、二股掛けられた。しかも人妻子持ちに奪われた。
更にうけるのは、その決定的瞬間を弟のヒロトと「見て」しまったことだろう。
二つ年下のヒロトとは思春期こそは互いに口も利かない仲だったけれど、ヒロトがハタチも超えた頃から何となく距離が縮まって仲の良い兄弟になった。
恐ろしく趣味の似通ったヒロトとは映画をよく見に行った。
見たい映画の本数もかなりあったので、どうしても節約の為レイトショーばかりだったのだけれど、実の弟と一緒に映画館でレイトショーならば両親も心配よりも呆れた顔をしていた。
いい年なんだから兄弟べったりっていうのもどうかと思うわと言ったのは母だったか。
就職した彼氏とも大学時代のようには時間が取れなくなって会う時間も少なくなったこともあり、もっぱら映画はヒロトと行くようになった。
ヒロトは学生。私は当時フリーターだったから、時間だけは山のようにあった。
その日のレイトショーは確かSF物だったように記憶している。のちに有名になる三部作の第一部。
CGばかり凝っていてドラマ性がどうこうと批評されているものだった。
ヒューマンドラマが好きなヒロトだけれど、たまにはこういうのもいいよね、話題作だしとレイトショーを二人で見た。そして映画館を出た。
その時は時間の都合がつくのがシネコンではなくて、昔ながらの小さな映画館だった。
映写機から伸びる光の帯の中に舞うホコリが輝くのを見るのが好きな私は、その小さな映画館も大好きだった。
若干問題があるとするならば、少々治安の宜しくないというか、まあいかがわしいお店や飲み屋が点在する街にあるということだろうか。
実家からは少し離れたその駅まで、ヒロトと二人で実家の軽に乗ってきて、少し離れた映画館の契約駐車場まで歩いていく途中だった。
目の前のラブホの入り口からすっと人が出てきてぶつかりそうになり、慌てて身を翻すようにして避ける。
「あっぶねーなあ」
ヒロトの呟きとも批難とも取れる言葉に人目を避けるようにしていたカップルが振り返る。
本当はその背中を見たときに「あれ?」って思っていた。でもまさかって思っていたから振り返って目があうその瞬間まで、注意力散漫というか自分たちしか視界に入っていない迷惑なカップルだなー程度に思っていた。
でも目が合ってしまった。
着ているスーツはリクルートスーツと同じ物。ワイシャツの色だけが違う。ネクタイは外してワイシャツのボタンが数個外されている。
いつもする香水の匂いがしない。その代わりフローラルなシャンプーの匂いがふわっと鼻腔に広がっていく。
目と目があって、言葉も無かった。
真っ白で何も考えられなくなった。
「シン?」
彼氏の腕に掴まっている女性が怪訝そうな顔で彼の顔を見つめる。
だけれど彼の目に映っているのは自分だけ。その自分のなんと情けない事だろう。言葉すら出てこないというのはこういう事なのか。
「ゆう?」
怪訝そうなヒロトの声ではっと我に返る。
弟のヒロトとシンは面識が無い。何を思ったのかわからないけれど、にやりとシンが下卑た笑みを浮かべる。
「お前もやることやってんのかよ。こんなところで男と何やってんだよ」
こんな風に笑う人だった? こんな風に私を見たことあった?
言われている内容よりも、まるで知らない人みたいに思えて怖くなった。知っているシンとは全然違うシンがそこにいる。
「知り合い?」
低い声で聞くヒロトに首を縦に振る。ヒロトはふーんと気の無い返事をして、それからはーっと思いっきり溜息を吐く。
「うちの姉貴がいつもお世話になってます。あんた誰」
姉貴なんて普段言った事も無いのに。いつだって「ゆう」って呼ぶくせに、やけに姉貴を誇張して、それからシンを睨みつける。
シンはふんっとヒロトを鼻で笑う。
「姉貴? 嘘くせえ」
はっと笑い声を上げたかと思うと、ヒロトはジーンズの後ろのポケットに突っ込んでいた両手を出してやおら煙草に火を点ける。
「てめーがやったからって姉貴も同じ事すると思うな、このクズ野郎」
ふーっと思いっきり煙草の煙を吹きかけて、ヒロトは煙草を口に咥えたままシンを睨みつける。
シンもされるがままにはなっておらず、女の人の手を振り払ってヒロトに殴りかかる。
が、すっと身をかわしたヒロトに肩透かしを食らった格好でよろめくにとどめる。
「人の女に手ぇ出しといて、何すかしてんだよ、この野郎」
再び殴りかかろうとするシンの右腕を咥え煙草のままヒロトが締め上げる。
ぐっと呻き声を出すシンをヒロトは冷ややかな視線で見下ろした。
子供の頃、そういえば空手習ってたっけ、ヒロト。泣き虫で弱虫で苛められっ子だったのを親が見かねて。
どうやら頭は混乱するとどうでもいいことだけを考えて冷静さを保とうとするらしい。その時の私は現実があまり見えてなかった。
だからクスっと笑みを浮かべた女の人のことなど、全く視界にも入っていなかった。
「人の女? じゃあ今てめーが連れてる女はなんだよ。てめーの母ちゃんとラブホに入ったとでも言う気か? それとも二股かけててゴメンとでも言う気か?」
締め上げながら冷静に問いかけるヒロトに対し、シンは脂汗を浮かべている。よっぽど痛いところに入っているのだろう。
そんな男二人の様子など、どこ吹く風で女の人は髪を掻き揚げ、そしてなぜかゴソゴソとカバンを漁りだす。
その時になって初めて、じっくりとその人を見た。
ふふっと私に向かって笑んだ女の人は、大人の雰囲気を醸し出した女性で、下品には見えないワンピースを身に纏っていた。
綺麗にマニキュアが塗られて整えられた指先がカバンを掻き回すのが、どうしてだかスローモーションのように思えた。そしてそれからのことも。
「シン」
柔らかな声でその人が彼氏を呼んだ。
彼氏は顔を歪めたままその人を見る。はっとしたような表情で女性を見た理由が、今でもよくわからない。ただ妙に驚いた顔をしていた。
「ちょうどいいじゃない。彼女にどうやって別れを切り出そうかってさっきまで言っていたじゃない。面倒な手の掛かる娘なんでしょう。彼女にもいい人がいるならば、食って掛かる必要なんてどこにもないんじゃない?」
まるで歌うように女性は言う。そしてカバンの中から細長い棒状の物を取り出す。
それが何なのか。自分が使った事は無くても、知識として知っていた。
ひらひらっと目の前で振る姿に、みるみるうちにシンは青褪めていった。
「子供出来たみたいなの。だから別れてくれる?」
前半はシンに、後半は私に向けて宣告された。
「ダンナにはもう話してあるから。離婚届もサイン貰ったし。ああ、養育権と親権はダンナが貰いたいって。だからいいでしょ?」
離婚届? 養育権? 親権? だからいいでしょ?
一体何がいいって言うの。頭が理解する事を拒絶する。
「早く籍抜かないと、結婚は半年待たないと出来ないし、この子がダンナの子じゃないのにダンナの子って戸籍に乗るの嫌なのよね」
ひらひらと舞う紙を見つめ、ヒロトはシンの手を離した。
呆然とするシンを投げ捨てるようにしたヒロトの瞳は軽蔑の色が浮かんでいる。
「帰るよ」
ぐいっと腕を掴んだヒロトに引き摺られるようにして駐車場まで歩かされる。
二の腕を掴んだまま離そうともしないヒロトの手には力が篭められていて痛かった。でもそれ以上に心が痛かった。
何が起きたのか理解するには難しすぎるけれど、でも涙が止め処なく溢れて辛かった。
それから彼氏には会っていない。シンという名を忘れる為に「昔の彼氏」としか心の中でも呼ばないことにしている。
ヒロトには「男を見る目無さすぎ」と呆れられ、それから過剰とも思えるほど実の弟は心配性になってしまった。