System; Reconnection_10
完璧な論理の構築は最後の実証を以て初めて完成する。
地下監獄での解の探索を終えたレオンハルト・ヴィッセン。彼の頭脳と指先において疑似神経回路の成功率は、すでに計算上確実の域に達していた。
だが、手元にあるデータがどれほど完璧であろうとも、本番の前には絶対に不確定要素をゼロにしなければならなかった。
もし、平民の肉体と特殊血統の肉体との間に口伝の記述にはない未知の個体差が存在したらどうする。もし、曾祖父カイの遺したすべての生物には魔石が初期実装されているという仮説が、生きた人間の頭脳に信号を伝える段階で、想定外の反応を引き起こしたらどうする。
他の一切の他者を巻き込まず、かつソフィーを実験台にしないための唯一の合理的な手段。
被検体は、自分自身。
レオンハルトは、印刷所の地下保管庫のさらに奥。カンドルの光だけが静かに揺れる無人の小部屋で、一人鏡の前に立っていた。
衣服を脱ぎ去り、晒した自らの細い上半身。
その傍らには、特殊合金針と魔石混合インク。
レオンハルトは躊躇わなかった。高濃度アルコールで自らの皮膚と針を厳重に清めると、今一度鏡の中の自分の肉体を冷静に見つめる。
曾祖父カイの遺した、脳の思考の波形が生まれる頸椎の座標。そして、肉体の奥深くに眠る、生体魔石の座標。その二つの点を結び、皮膚からアクセス可能な曲線の配線図を脳裏から視界に浮かべていく。
「…始める」
誰に告げるでもなく呟き、レオンハルトは自らの首へと、容赦なくその極細針を突き立てた。
プツ、プツ、プツ、プツ。
脳髄に直接響くような、皮膚の裏側を細かく抉られる鋭い激痛。
だが、レオンハルトの手首は一ミリのブレも起こさなかった。監獄の地下で、凶悪犯の絶叫を背景にリズムを刻み続けた彼の指先は、今や自らの肉体を切り刻む段になっても、ただ規則正しく冷徹なまでの機能美を維持していた。
首元から、鎖骨のラインを抜け、胸元へ。
鏡のなかで、自らの青白い皮膚の直下に、魔石の粒子を孕んだ漆黒のインクが異様な紋様として刻まれていく。首元から心臓の直上までを滑らかに繋ぐ、一本の黒い疑似神経のライン。
針を突くたびに、脳を直接焼かれるような拒絶反応がレオンハルトの全身を襲い、大粒の汗と赤い血が胸元を濡らした。だが、彼は表情一つ変えず、ただ線の深度とインクの定着を監視し続けた。
数時間に及ぶ実証。
最後の一針が、心臓の直上の座標に完璧に嵌まり込んだときレオンハルトは静かに針を置いた。
胸元を拭い去り、彼は脳内の思考を集中させ自らの意思を、いま刻み終えた首元の回路へと接続させた。
頸椎から生まれた微弱な信号が、黒い疑似神経を滑り落ち魔石の粒子を連鎖的に駆動させながら心臓の奥の生体魔石へと導通していく。
瞬間。
パチリ、と静寂の部屋のなかに、鮮烈な音が響いた。
レオンハルトの右の指先から、明確な魔力の火花が、暗闇のなかに美しく咲き誇った。
本来只人にいかなる魔道具を使っても指先から直接現象を起こす資格など与えられていない。それが世界の絶対規約だった。
それを完全に書き換えてみせたのだ。
「……証明、完了だな」
レオンハルトは、光の消えた自らの指先を見つめ、熱を帯びた首元と胸元に、静かに白い包帯を巻き付けていった。
時を同じくして、王都の南街に佇む高級料理店。
その個室の片隅で、ジュリアン・オルタンスは、正面に座る妹のソフィーを見つめていた。
運ばれてくる洗練された料理にほとんど手を付けず、大学での講義や、図書館で探した論文について、どこか張り詰めた様子で語る妹。ジュリアンは彼女の言葉の端々から、大学という新しい環境に身を置いてなお、彼女の生きる目的のすべてが魔法を使えるようになりたいという、あの根深い呪縛から一歩も逃れていないことを、冷徹に確信していた。
ジュリアンは、手元のワイングラスを静かに机に置き、妹の青い瞳を真っ直ぐに睨み据えた。
彼の脳裏には、あの夜、あの北街でヴィッセンの次男坊から突きつけられた要求が想起されていた。
「…ソフィー」
ジュリアンの低い声が、個室の静寂を浸食する。
「もし、だ。……もしお前が、自らの肌に、社会的な不名誉とされる消えない入れ墨を刻むことになって、その代償として、オルタンスの魔法が使えるようになるなら、お前はやるか?」
ソフィーは、一瞬だけ息を呑んだ。だが、その青い瞳の奥にある執念は一ミリの揺らぎも起こさなかった。
「はい、やります、お兄様」
それは迷いのない剥き出しの意志。
「そのためなら、私は貴族としての誇りも、美しさも、すべてを捨て去っても構いません」
その揺るぎない答えを聞いた瞬間、ジュリアンの胸の奥に去来したのは、驚きではなく、果てしない深い悲しみだった。
妹がこれほどまでに傷つき、狂気的な手段を求めているという事実。そして、その手段を提供しようとしているのが、あの一族であるという因縁。
ジュリアンは、悲痛な感情を隠すように、少しだけ遠い目をしながら、ぽつりと呟いた。
「どうしても、か。……どうしても、魔法が欲しいのだな、ソフィー」
「お兄様?」
ジュリアンは、グラスに残った酒を一息に煽り、観念したように妹を見つめ、レオンハルトが裏の回廊で進めていた最悪を、静かに話し始めた。
「……ならば、話さなければなるまい。お前が図書館であしらっていた、あのヴィッセンの話だ。あいつは今、お前のその身体を直すためだけに教会の地下監獄へと潜入している。そして、生きた囚人たちの肉体に、針を突き立て、お前のために、その身体に修練を叩きこんでいる」
ソフィーの顔から、一瞬で血の気が引いた。
平民の少年が、自分に告げた何があっても解決策を見つけるという誓いを果たすためだけに、監獄の底で自らの手を汚し、人体実験を繰り返しているという事実。
ジュリアンの言葉は、ソフィーの胸の奥底へと、これ以上ないほどの重みを以て沈んでいった。
週が明け、しばらく大学の講義室に姿を見せていなかったレオンハルトが、いつもの地下図書館の最暗部へと姿を現した。
窓の外では夏の盛りの陽気が王都を包んでいたが、地下の空気は変わることなく冷涼のまま。
席に座っていたソフィーは、レオンハルトの姿を見た瞬間、弾かれたように立ち上がった。
彼女の青い瞳が見つめていたのは、彼の顔ではない。衣服の襟元、そして上着の袖口から微かに覗く、痛々しい白い包帯の列だった。
「あなた、その怪我は……」
ソフィーの声が、震える。兄から聞いた、実験の代償が、目の前の少年の肉体に刻まれているのではないかという恐怖。
だが、レオンハルトは、その包帯の下を決して見せようとはせず、ただいつもの声のままで、一束の分厚い羊皮紙を彼女の机の上に静かに提示した。
「オルタンスさん。これが、僕が実験からまとめ上げた、君の身体を救うための入れ墨を利用した疑似神経回路の論文だ」
ソフィーは、差し出されたその論文の束を、震える手で受け取り、ページをめくった。
そこに記されていたのは、監獄の罪人たちの肉体で実証された、インクの定着抵抗、副反応を抑え込む配合比率、そして脳の電気信号を魔石へダイレクトにバイパスさせるための、精緻極まる設計図だった。
「……証明は、すべて問題なく終わったよ。…ああ、僕のこの包帯は実験の傷なんかじゃない。僕の肉体にこの回路を刻み、指先から魔法の火花を起動させてみせた、その名残さ」
レオンハルトは、包帯を巻いた自らの右手を静かに見つめながら言葉を重ねた。
「だけど、ソフィー。一つだけ、君に謝らなければならないことがある。この疑似神経のインクは、魔石の粒子を高濃度で混ぜ合わせる都合上、どうしても黒以外では、針に乗って皮膚の直下へと定着してくれないんだ。僕の技術では、君のその陶器のように滑らかな白い肌を永久に汚してしまうことになる。……ごめん」
真摯な謝罪。
だが、ソフィーの胸にあるのは、肌が汚れることへの恐怖などではなかった。
自分を救うためだけに監獄の底で泥を被り、そればかりか、自らの身体すら実験台にして魔法の火花をもぎ取ってきた、この少年の底知れぬ狂気と圧倒的なまでの純心。
論文に描かれた精緻な線を見つめながら、ソフィーの瞳から、隔意は完全に消え去っていった。
「……構いません、レオンハルト。私を、全部、あなたに預けます」
「ありがとう、ソフィー。……だけど、この論文は、ここで無かったことにする」
レオンハルトは、ソフィーの手から論文の束を静かに取り戻すと、彼女の手を伴って大学の敷地を出た。
連れて行ったのは一族の広大な家。
その邸宅の奥にある一室は、一族が出産と育児における保護のためにカイの遺した衛生医学を徹底し、消毒と完璧な空気管理が施された世界最高のクリーンな環境だった。
部屋の大きな暖炉の前に立ち、レオンハルトは、先ほどソフィーに見せたばかりの論文を、躊躇なく火の中へと投げ入れた。
激しい炎が、世界を書き換える禁忌の設計図を、一瞬にして貪り、灰へと変えていく。
「な、何を……!?」
驚愕するソフィーに対し、レオンハルトは暖炉の炎の照り返しのなかで冷徹に宣告した。
「人体への直接刻印は、一歩間違えれば世界を破滅に追いやる。だから、この世に、誰でも魔法を使えるようになる回路の記録なんてものは一切遺さない。紙の記録はすべて消す。そして、君への施術が終わった後、俺のこの首元と胸元の入れ墨も、火傷で焼き潰す」
自らの肉体をも焼き潰すと宣言する少年の凄まじいまでの業。
ソフィーは、その圧倒的な覚悟の重さに、ただただ胸を締め付けられ、涙を浮かべて首を振ることしかできなかった。
レオンハルトは清められた台の前に立ち、首元と胸元の白い包帯をゆっくりと解き明かしていった。
包帯がハラハラと床へ落ちる。
露わになった彼の青白い皮膚の上には、頸椎のすぐ下から始まり、鎖骨を美しく跨いで心臓の直上へと滑らかに伸びる、漆黒のラインが刻まれていた。
それは、ソフィーがこれまでの人生で、自分の歪んだ世界のすべてを閉じ込めて描いてきた、あのキュビズムの印影そのものだった。
ソフィーは、その痛々しくも、美しい黒を見つめ、言葉を失った。
そして絞り出すような声。
「……私の絵を、本当に、人間の肉体の上に再現したのね」
「皮膚の向こう側で神経を繋ぎ、信号を届けるには、君のその絵の才能が、最初から完璧な答えだったんだよ、ソフィー」
レオンハルトは針を静かに構え、カンドルの光のなかで彼女を見つめた。
「さあ、始めよう。君の世界を、俺が新しく書き換えてやる」
ソフィー・オルタンスは、少年の硝子のような瞳に宿る、絶対的な信頼と狂気の火を見つめ返し、自らの抱えていたすべての羞恥と苦悩を解き放つように、静かに、衣服の最初のボタンへと指をかけるのだった。




