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李亜山高校、第二音楽室

作者: abeユキオ
掲載日:2025/11/19

 ◇


 朝、目が覚めるたび、ほんの数秒だけ、自分が誰なのか曖昧になる。


 見慣れた天井。薄いカーテン越しの光。壁際の鞄。脱ぎ散らかした靴下。

 部屋は昨日までのままだ。変わっているものなんて何もない。

 なのに、その中央に寝ている身体だけが、ときどき借り物みたいに思える。


 自分の手を持ち上げる。

 指は五本、爪の形も見慣れている。手首の骨ばった感じも、知っているはずだ。

 けれど、それを動かしているのが本当に自分なのかと問われると、少しだけ返答に詰まる。


 僕の名前は狩野栄一かりのえいいち

 李亜山高校りあやまこうこうに通う、ごく普通の男子高校生――と、自分で言っておかないと、朝のあいだに輪郭がどこかへ流れていってしまいそうな気がする。


 洗面台の鏡に映る顔は、ちゃんと人間の形をしていた。

 寝癖はいつも通り左にはね、目の下の薄いクマも昨日と同じところに貼りついている。

 鼻筋も口元も見慣れている。そう思う。


 それでも、ときどき鏡の奥から返ってくる視線だけが、ほんの少し他人のものに見える。


 鏡の向こうの僕は、僕より先にまばたきをしそうな顔で、じっとこちらを見返している。

 その違和感を長く見つめていると、たいてい遅刻しかける。


 だから、そこでやめる。

 歯を磨き、制服に袖を通し、何も見なかったことにして玄関を出る。


 通学路は毎日、ほとんど同じ記号でできている。

 コンビニの袋を提げて歩く会社員。踏切の警報音。アスファルトのひびから伸びる雑草。

 見慣れているのに、べつに覚えてはいないものばかりだ。


 それらは僕を認識していないし、僕もまた、それらを覚えようとはしない。

 世界の方から、話しかけてくることはあまりない。


 たぶん、その方が楽なのだと思う。

 名前を呼ばれず、何かを強く望まれもせず、代わりに誰かを強く望むこともないまま、一日が薄く積み重なっていく。


 そういうふうにしていれば、取り落とすものは少ない。


 ◇


 二年生になってからの教室は、ひと冬ぶんの冷えを薄く溶かしたみたいに、中途半端にあたたかい。


 春の光が窓から斜めに差し込み、黒板の前を埃がゆっくり泳いでいる。

 先生の声は、教科書の活字と同じくらい遠い。ノートの罫線は、眠気を上手に誘い込んでくる。


 平凡、という言葉がある。

 その平らな音の上に人生を寝かせてしまえば、きっと楽なのだろうと思う。

 実際、僕の一日はなめらかに流れ、どこにも尖ったところがない。


 けれど、尖らない代わりに、引っかかっているものがある。

 胸の奥、手を伸ばしても届かないあたりに、小さな音も立てないまま押されずにいる鍵盤がひとつあるような感じ。


 それを押してしまえば、何かが変わってしまいそうで。

 押さなければ、そのまま何も変わらずに終わってしまいそうで。


 どちらにしても、あまり気は進まない。


 それでも、ときどき思う。

 自分の中で鳴らないままのその一音を、もし誰かが代わりに鳴らしてしまったら、そのとき僕は、ちゃんと驚けるのだろうかと。


 ◇


「なあ栄一。幽霊って信じる?」


 放課後の教室で机に突っ伏していた僕の背を、小さく叩く指があった。

 寿ことぶきだ。小学校からの付き合いで、僕の平坦な人生に、ときどき余計な起伏をつけてくる役目の人間。


「その入りで話しかけてくるの、人生で何回目だよ」


「真面目な話なんだって。今回は」


 寿は教卓の前まで歩いていき、誰もいない教室をぐるりと見渡した。

 いつになく真剣な顔をしている。

 そういうときの寿は、だいたいくだらないことを言う。


「音楽室な。最近、放課後にピアノが鳴るらしい」


「ふうん」


「誰もいないはずなのに、だ。で、それを聞いた奴がいる」


 寿は窓際の席にもたれた。

 西日が、彼の後ろ頭のあたりで少しだけ眩しい。


皆木樹みなきいつきって名前、知ってるか?」


 知っていた。

 隣のクラスの、小柄な女子。黒髪で、いつも静かな顔をしている。

 大声を出しているところは見たことがないかわりに、誰かの話をじっと聞いている横顔なら、何度か見たことがある。


 無関心、というほど遠くにはいなかった。


「その子が聞いたらしい。誰もいない音楽室で、ピアノを弾いてる誰かの音を」


「……誰か?」


「さあ。幽霊か、人か、それ以外か。面白そうだろ?」


 寿は笑った。

 幽霊、という単語より、「面白そう」の方が妙に長く残った。


 面白いかどうかなんて、分からない。

 それでも、その日の帰り道、僕は何度も四階の突き当たりを想像していた。

 誰もいない音楽室。夕方の光。鳴るはずのないピアノ。


 押されないままだった鍵盤が、ほんのわずかに震えた気がした。


 ◇


 翌日の昼休み、僕は隣のクラスの前に立っていた。


 自分の行動力をいちばん疑っているのは、多分僕自身だ。

 こういうとき、人はよく勇気を出して、みたいな言い方をするけれど、別にそんな立派なものじゃない。

 ただ、放っておけば何も変わらないということだけは、なぜか容易に想像できてしまった。


 皆木は廊下側の席で文庫本を読んでいた。

 声をかけると、少しだけ驚いたように顔を上げる。思っていたより、目の色が淡い。


「あの。少し、いいかな」


「……うん」


 空き教室を借りて、向かい合って座る。

 窓の外からは、校庭の方で騒ぐ声が遠く聞こえていた。ここまで届く間に、いくつかの音が削れている。


「音楽室のこと、聞いたんだ。……放課後にピアノが鳴ったって。君が、聞いたって」


 皆木は机の上のペットボトルのキャップを指で軽く押した。小さな空気の音だけがした。

 何かを思い出すように、その視線がほんの少し揺れる。


「――うん。聞いたよ。……はっきり」


 最後の一言にだけ、わずかな重みが乗った。


「誰もいないはずなのに、鍵盤を押す音がしたの。一回だけじゃなくて、何音か続けて。普通に、誰かが第二音楽室で練習してるみたいに」


「じゃあ……気のせい、とかじゃなくて?」


「気のせいなら、よかったんだけどね」


 皆木は小さく息を吐き、目を伏せた。


「そのあと、変だったの。音は止んだのに、部屋の空気だけが残ってて。なんて言えばいいのかな。そこに“誰かが立ってる”みたいに、妙に重かった。私、そういうの分かる方じゃないんだけど」


 自嘲するように少し笑い、それからすぐ真顔に戻る。


「思い違いとかじゃなくて。ただ、確かに“いた”感じがした。音より、そっちの方が記憶に残ってる」


「……なるほどね」


 そう答えながら、背中のあたりにゆっくり冷たいものが降りてくる。


 皆木は窓の外へ視線を流したまま、小さく言った。


「もしかしたら、狩野くんも行けば何かあるかもよ。夕方の音楽室に。私はそのあと何回か見に行ったけど、もう何も起こらなかった。でも、あれは聞き間違いじゃないと思う」


「そんなことがあって、怖くはないの?」


「思い悩むほど怖かったら、人には話さないよ」


 そう言って、皆木はまた窓の外を見る。

 そこには何も特別なものはなく、ただ、見慣れた校庭の午後があるだけだった。


 ◇


 放課後の校舎は、昼間より音が少ない。


 人の声が減るぶん、建物そのものが軋む気配や、風が窓枠をこする音が少しだけ大きくなる。


 第二音楽室は四階の突き当たりにある。

 そこへ近づくほど、心臓の鼓動と階段を上る足音が混ざり合って、どちらがどちらか分からなくなっていく。


 扉の前で、ひと呼吸おく。

 理由もなく、ノックはしなかった。


 ドアノブを回し、中へ入る。


 誰もいない。


 机は整然と並び、黒光りするグランドピアノが部屋の奥で黙っていた。

 窓の外では日が傾き、カーテンの端だけがゆっくり揺れている。


 拍子抜けしたような安堵と、どこか物足りない感情が同時に胸の中へ広がった。


(ただの噂、か)


 そう思って窓際へ寄る。

 ガラスに映る自分は、朝の洗面台と同じ顔をしていた。

 ここまで来る必要があったのかどうか、そんなことを考えた、そのとき。


 不意に、音が落ちた。


 一音だけの、ピアノの音。


 誰かが鍵盤に触れた、というより、ピアノのまわりの空気だけが切り取られて、そこへ音が置かれたみたいな響きだった。

 続けて、もう一音。

 単音が、ゆっくり階段を上っていくみたいに重なっていく。


 体がこわばる。

 首だけをぎこちなく後ろへ向ける。

 誰もいないはずの部屋で、ピアノだけが音を生んでいる。


 鍵盤は、勝手には沈まない。


 そう思ったとき。


「――こっち、見なくていいよ」


 やわらかい声が、背中のあたりから聞こえた。


 振り返る。


 窓際の反対側。ピアノの横に、ひとりの女の子が立っていた。


 白いセーラー服。黒髪。細い首。

 西日に縁取られた輪郭は、どこからどう見ても人間だった。


 ただひとつ、違うところがあるとすれば、そこにいることがあまりにも当然みたいな顔をしていたことだ。


「……君、いたんだ」


「さっきからいたよ。あなたが入ってくる前から」


 彼女は指先で鍵盤をなぞる。音は鳴らない。


「驚かないんだね」


「いや、驚いてるよ。中身は」


「外からだと、落ち着いてる風に見える」


「よく言われる」


 彼女は少しだけ笑った。

 その笑い方は、妙に丁寧だった。誰かに教わったみたいに。


「名前、教えてもらってもいい?」


「狩野栄一。二年B組」


「狩野くん」


 名前を呼ばれる。

 その響きが、音符みたいに耳の奥へ残る。


 おかしいくらい、それだけで胸の奥がわずかに鳴った。


「じゃあ、私も名乗らなきゃね。坂上優紀さかがみゆうき。……この学校の名簿にはいないけど」


「転校?」


「違うよ。もっと、根本的な感じ」


 彼女は軽く首を傾げて、


「死んでる」


 と言った。


 驚くほどあっさりした声音だった。

 まるで天気の話でもするみたいに、自分の死を口にする。


 言葉の意味が脳へ届くまで、少し時間がかかった。


「……幽霊、ってこと?」


「言葉としては、それがいちばん近いかな」


 坂上は自分の手のひらを眺めていた。

 光がその手を通り抜けているようにも、きちんと皮膚に遮られているようにも見える。


「触ってみる?」


 そう言って、彼女は一歩近づいた。


 僕は反射的に一歩下がりそうになる足を、ぎりぎりで踏みとどまらせる。

 逃げたくないというより、逃げた自分をあとで思い出すのが、ひどく嫌だった。


 手を伸ばす。

 指先が、彼女の肩に触れる――はずだった。


 何もない。


 通り抜けた、と分かるような抵抗すらない。

 空気と違う何かがある、という違和感さえなく、ただ、そこにあるはずの質量だけが綺麗に抜け落ちていた。


「ね。ちゃんと、死んでる」


 坂上は言う。

 僕の手は彼女の身体をすり抜けたまま、宙で止まっていた。


 触れられない――


 そのことが、怖さより先に、静かな痛みとしてなぜか胸に残った。


 ◇


「どうして、ここにいるんだ」


 ピアノ椅子に腰掛けた坂上のそばに立ちながら、僕は聞いた。


「もしかしたらここが、最後にちゃんと“生きてた”って思える場所だから、かな。たぶん、生前に気に入ってたんじゃない?」


 彼女は鍵盤を見下ろす。

 指をおろす。音が鳴る。

 さっきより、少し長いフレーズだった。


「その制服って、あの坂上女学院の?」


「そう。丘の上の、白い建物。そこに通ってたはずなんだけど――気づいたら、ここでピアノを弾いてた」


「死んだときのことは」


「よく、覚えてない」


 彼女は淡々と言った。

 その淡々さの中に、諦めとも慣れともつかないものが薄く混じっている。


「覚えてないまま、ここにいて。誰かが入ってくるたびに少しだけ期待して、少しだけ疲れて――そんなふうに、何度か季節を見送った気がする」


 窓の外へ向く視線は、遠くの景色ではなく、その少し手前の空気を眺めているみたいだった。


「皆木って子にも、会った?」


「うん。小柄な女の子のことなら。ちゃんと“気づいて”くれたから、つい演奏しちゃった」


「幽霊のサービス精神ってやつか」


「退屈なんだよ。死んだあとって」


 坂上は少しだけ顔をしかめて笑う。


「だから、ありがたいの。こうして話してくれるの」


「僕は、あんまり役に立てそうにないけど」


「それはこれから決めることでしょう?」


 彼女は背筋を伸ばし、こちらを見た。


「ちょっと、お願いしてもいい?」


「……内容による」


「私のこと、覚えていてほしいの」


 その言葉は、意外なほど静かだった。


「ここにいるってこと。私が確かにいたってこと。……あなた一人だけでもいいから、ちゃんと覚えていてくれたら嬉しい」


「それだけ?」


「それだけ、って言えるほど軽い頼みでもないよ」


 坂上はピアノの蓋に片手を置く。


「人ってさ、忘れるでしょう。自然に。そこにいた人のことも、いなかった人のことも。私、自分でも自分を忘れそうで、ちょっと怖いんだよね」


 幽霊が、怖いと言う。


「だから、もしよければ。あなたの中に、私の居場所を少しだけ分けてほしい」


 居場所。

 その言葉が胸の奥へ落ちて、押されないままだった鍵盤が少し沈んだ気がした。


「……いいよ」


 口にしてみると、思っていたより簡単に出た。


「代わりに、ひとつだけ条件」


「条件?」


「僕のことも覚えていて。狩野栄一ってやつが、確かにここに来て、ピアノの幽霊と話したってことを」


「それは、ちゃんとやる」


 坂上はすぐに頷いた。


「忘れたくても、忘れられないと思う。だって、今まで私に話しかけてくれたの、あなたが初めてだから」


 その言葉は、冗談には聞こえなかった。


 ◇


 それから何度か、放課後の音楽室へ行くようになった。


 毎日ではない。

 家の用事もあるし、寿にどこかへ連れ回される日もある。

 それでも週に何度か、四階の突き当たりの扉を開けると、そこには坂上がいた。


 彼女はいつも、ピアノのそばにいる。

 ときどき鍵盤を叩き、ときどき窓の外を見て、ときどき僕のどうでもいい話を聞いてくれた。


 テストの愚痴。

 寿のくだらない失敗談。

 家で見た、印象にも残らないニュースのこと。


 そんな話をしているだけなのに、扉を開ける前の心臓の鳴り方が、だんだん変わっていくのが分かった。


「ねえ、狩野くん」


「なに」


「生きてるって、楽しい?」


「さあ」


 正直に言えば、それが良いことなのかどうか、いまだによく分からない。

 ただ、死んでいるという状態よりは、選べるものが多い気はする。


「良いときも、悪いときもある」


「曖昧だね」


「世界が曖昧だから」


 坂上は、くすりと笑う。


「でも、あなたの話を聞いてると、少なくとも“続いてる感じ”はするよ。日常が。……それだけで、ちょっと羨ましい」


 彼女は鍵盤に手を置き、短い旋律を弾いた。


「この曲、知ってる?」


「知らない」


「私も知らない」


「じゃあ、どうして弾けるんだ」


「覚えてるから。身体こころのどこかが」


 彼女が弾く前には、いつもほんの少しだけ息を吸う。

 その小さな間のあとに、名前のない旋律が落ちてくる。

 懐かしいと思うのは、メロディそのもののせいなのか、彼女の弾き方のせいなのか、うまく分からない。


 ただ、その呼吸の間を、僕は好きになっていた。

 息を吸う、その一瞬だけ世界が止まるような気がして、そのあとに落ちてくる音が、誰にも触れられない彼女の代わりみたいに思えた。


「ねえ、狩野くん」


「なに」


「もし、私のことを誰かに話したら、信じてくれるかな」


「幽霊が音楽室でピアノを弾いてる、って話?」


「うん」


「信じないだろうね」


「だよね」


 坂上は少しだけ肩をすくめた。


「でも、あなたは信じてくれてる」


「目の前で手がすり抜けたからな」


「そういう物理的な話だけ?」


「それだけじゃないけど」


 言葉を探しながら、僕は彼女を見る。


「――ここで音を出してるのが、君だってことくらいは分かる」


 坂上は少しだけ目を丸くして、それから笑った。

 最初に会ったときより、いくらか自然な笑い方だった。


「そういう言い方、ずるいね」


「何が」


「分かってて言ってるなら、もっとずるい」


 意味を問う前に、彼女は視線を落とし、鍵盤の上に指を置いた。

 その横顔に、西日がうすく差していた。


 僕はそのとき、なぜか、彼女の顔を忘れたくないと思った。

 忘れないように見る、という行為があるのだと、初めて知った。


 ◇


 ある日、音楽室へ行くと、ピアノの蓋が閉まっていた。


 坂上は窓際に立ち、外の景色をじっと見ている。

 夕陽は、いつもより少し低いところにあった。


「どうかした?」


「ううん」


 坂上は首を振る。


「ちょっと、思い出しただけ」


「何を」


「自分が、ここに来る前のこと。……ほんの断片だけど」


 彼女は窓ガラスへ指先を押し当てた。

 ちゃんと触れているように見える。冷たさを感じているのかどうかは分からない。


「坂上女学院の音楽室。そっちは、もっと綺麗だった。床もぴかぴかで、ピアノも、もう少し黒かった」


「ピアノはどっちも黒だろ」


「そうだね。黒の光り方が違うだけ」


 彼女は目を細める。


「でも、そこで弾いてる私の顔が、うまく思い出せないんだ。手とか、姿勢とかは出てくるのに。……自分の顔だけ、ぼやけてる」


 朝の鏡を思い出す。

 見つめても、輪郭がどこか曖昧な顔。


「それは、嫌か」


「うん。ちょっとね」


 坂上はこちらを向いた。


「だから、あなたに頼みたいこと、もう一つ増えた」


「まだあったんだ」


「私の顔を、ちゃんと見ておいて」


 ひどく真面目な声だった。


「私が自分を忘れちゃっても、誰かが覚えていてくれたら、少しはましかなって」


「……分かった」


 そう答えるしかないくらい、彼女の表情は切実だった。


 坂上は、満足したように微笑む。


「ありがとう」


 その一言だけが、やけに現実の重さを持って胸に残った。


 少し間を置いてから、彼女は静かに言った。


「でも、本当はね」


「うん」


「覚えていてほしいの、顔だけじゃないんだ」


 その先を、彼女は言わなかった。

 言わなくても分かりそうな気がして、僕も聞かなかった。


 ◇


 その日を境に、坂上の話す内容は少しずつ「思い出」の方へ寄っていった。


 具体的な出来事というより、断片的な感覚の羅列に近い。

 風の匂い。制服の生地の手ざわり。夜の寮の廊下に沈む静けさ。

 誰かに名前を呼ばれた気配だけが残り、その誰かの顔はきれいに抜け落ちている記憶。


「生きてるときも、ちゃんと生きてなかったのかもね、私」


 あるとき、彼女はそんなことを言った。


「毎日、きちんと授業を受けて、ピアノを弾いて、笑って。それでも、自分の形がずっとぼんやりしてた気がする」


「それは、なんとなく分かる」


「あなたも?」


「似たようなもんだ」


 そう答えると、坂上は少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ、私たち、似た者同士なんだね」


 生きていない者と、ちゃんと生きていない者。

 そう言われると、あまり反論できない。


「ねえ、狩野くん」


「なに」


「私、あなたに会えてよかったよ」


 唐突な言葉だった。

 けれど、彼女は冗談めかすこともなく、まっすぐこちらを見ていた。


「どうしたんだよ、急に」


「急にじゃないよ。ずっとそう思ってた」


 胸の奥で、何かが小さく軋んだ。


「そういうこと、あんまり簡単に言うなよ」


「簡単じゃないよ」


 彼女は笑わなかった。


「簡単だったら、もっと上手に言えてる」


 その言い方が、ひどくきれいで、ひどく困った。

 僕は視線を逸らす。逸らした先の鍵盤は、暮れかけた光を受けて静かに光っている。


 ふと、僕がこの鍵盤になれたのなら――彼女に触れられるのかなと意味のないことを考えてしまった。


 ◇


 季節は少しずつ進んでいった。


 教室の窓から入る風の温度が変わり、制服の下に着るシャツの厚さも変わる。

 寿は相変わらずくだらない話を持ってきて、皆木は相変わらず静かな顔で本を読んでいる。


 放課後の音楽室だけが、あまり変わらない時間を保っていた。

 そこへ行けば、坂上がいて、ピアノがあって、夕陽が同じような角度から差し込む。


 ――そのはずだった。


 ◇


 ある雨の日、音楽室の扉を開けると、中には誰もいなかった。


 ピアノの蓋は閉まり、窓ガラスには細かな雨粒が打ちつけられている。

 部屋の空気は、いつもより少し冷たい。


「……坂上?」


 呼んでみる。返事はない。


 しばらく待ってみても、何も起こらなかった。

 ピアノも鳴らない。背中から声が降ってくることもない。


 雨音だけが、一定のリズムで続いている。


 ふと、思う。

 ――初めてここへ来たときと、同じ光景だ。


 誰もいない部屋。沈黙。黒いピアノ。

 違うのは、その沈黙の中に、今は「不在」の気配があることだった。


 そこにいるはずのものが、たまたまいないのか。

 それとも最初から、存在しなかったのか。


 最初にここへ来たときの僕には、その違いが分からなかった。

 でも今は分かる。


 いない、ということだけが、強く在る。


 そしてそのとき、ようやく気づいた。

 僕はもう、噂の真相を確かめに来ていたわけじゃない。

 ピアノを聞きに来ていたのでもない。


 ただ、彼女に会いたかったのだ。


 会って、名前を呼ばれたかった。

 今日もそこにいると確かめたかった。

 触れられないと知っていながら、それでも同じ部屋にいたかった。


 その事実は、遅すぎるくらい遅く、けれど取り返しがつかないほどはっきりしていた。


 僕はゆっくりとピアノへ近づいた。

 蓋に手をかけ、そっと開く。白と黒の鍵盤があらわれる。

 それを見ていると、指先が勝手に動いた。


 覚えていた。

 坂上が何度も弾いていた、名前のない旋律。


 ぎこちない指で、それをなぞる。

 ところどころ音を外しながら、それでもどうにか最後まで辿る。


 音は雨音に混ざり、静かに消えていった。


 拍手はない。

 その代わり、胸の奥で長く押されずにいた鍵盤が、ようやく一度だけ、きちんと鳴った気がした。


 それが恋だと知ったのは、たぶんそのときだった。

 知った瞬間には、もう遅かった。


 ◇


 その日を境に、坂上には会っていない。


 噂の発端だった皆木に、何気なく確かめたことがある。

 昼休み、廊下で足を止めてもらった。


「皆木。……音楽室の噂、覚えてる?」


 彼女はわずかに首を傾げ、数秒ほど黙り込んだ。


「……音楽室?」


 その間、何かを探っているような気配があった。

 けれど、結局見つからなかったのだろう。

 皆木は、それを見つからないままそっと片づけるみたいに、小さく笑う。


「ごめん。たぶん、聞いたことはあると思うんだけど……今は、うまく思い出せないや」


 人の記憶が、何かに押し流されるみたいに遠ざかっていくところを――――僕は初めて見た。


 いや、思い出せなくなる、というより、その記憶だけが薄く削り取られていくのを見た、と言った方が近いのかもしれない。

 なのに不気味さは薄く、むしろ雨粒が地面に吸い込まれていくのを見るときみたいな、避けようのない自然さがあった。


 ◇


 放課後の音楽室へ向かう回数も、いつしか減っていった。

 テストが近づき、寿に引っ張り回され、皆木にノートを借りるため頭を下げる日々が、前より少しだけ忙しくなっていく。


 それでも、ときどき四階の廊下を歩く。

 第二音楽室の前を通る。

 扉を開けることはしない。


 そこに彼女がいないことを確かめたくない、というより。

 確かめる必要そのものがない気がするのだ。


 あの部屋は、彼女にとって――もう必要なくなったんだと思う。


 ただ、僕には……


 触れられなかった肩も、息を吸ってから落ちてくる旋律も、夕方の光の中でこちらを見る横顔も、全部そこにある気がしてしまう。


 坂上優紀という幽霊が、確かにそこにいたこと。

 僕に手をすり抜けさせて笑ったこと。

 弾く前に小さく息を吸い、名前のない旋律を落としていたこと。

 自分の顔を覚えていて、と真面目な声で頼んできたこと。

 そして、会えてよかったと、あまり上手じゃない言い方で告げてくれたこと。


 それらの記憶は、今のところ、ちゃんと残っている。

 残っているからこそ、ときどき息が詰まる。


 ◇


 朝、洗面台の鏡を見る。

 そこには相変わらず、寝癖のついた顔が映っている。

 けれど、その顔は前より少しだけ、自分のものに近づいた気がした。


 僕が僕であることを、誰か一人でも覚えていてくれるなら。

 僕もまた、誰か一人くらいのことを、ちゃんと覚えていられるなら。


 それだけで、平凡という言葉の平らさは、ほんの少しだけ凹凸を持つのかもしれない。


 通学路を歩く。

 踏切の音が鳴る。

 空は、よくある色をしている。


 僕は前を向く。


 それでも、ときどき思う。

 もう一度だけ彼女に会えたら、今度はちゃんと伝えられるだろうか、と。

 君に会いたかったのだと、遅すぎずに言えただろうか、と。


 答えはもう、どこにもない。


 ただ、心のどこかで、名前のない旋律だけが、いまも静かに続いている。

 触れられなかったものほど、長く残るのだとでもいうみたいに。

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