月は今日から満ちていく
「ああ、綺麗だ」
何度見たかもわからないこの星空に今日も感嘆の声が漏れる。
俺が生まれ育った場所は、夜でも明るい街だった。星空よりも超高層のビル群を見上げる方が多い。そんな街から父親の実家がある田舎に引っ越してきたのは3ヶ月前のことだ。元々は家族全員一緒に田舎へ引っ越す予定だったが、住んでた場所の近くにある大学へ通うため、俺は一人暮らしをして都会の街に残っていた。
しかし、4年を待たずして大学を中退し家族のいる田舎へと引っ越すことになった。大学は入学してすぐに後悔した。周りと馴染めず、授業にもついていけない。そのうち心が限界を迎えて、学校に行けなくなっていた。
家族からは、こっちの大学に入り直すことも勧められたが、今更勉強して大学に入り直す気になれなかった。それに、これ以上迷惑はかけられない。結局俺は今、病院で夜間警備の仕事をしながら自分の進路を探している。いや、今いる場所すら見失っているのが現状だ。
そんな生活での唯一の楽しみ、それは夜空を見ること。田舎にあるこの病院の周りに明るい建物はなく、夜になると黒く澄んだ空に満点の星空が浮かび上がる。この闇夜で過ごす時間だけが自分の心の影を隠してくれる、そんな気がしていた。
消灯時間を過ぎた深夜、5階にあるテラスへ出るのは点検という名目で許可をもらっている自分1人だけ。まるでこの星空を独り占めにしたような気持ちにさせる。今日もいつも通りに手持ちの懐中電灯で照らしながら、決められた業務である点検作業を行う。落とし物や異変がないかを一通り確認すると、3つ置かれたうちの真ん中のベンチに腰を下ろす。
持っていた懐中電灯の灯りを消して横に置き、天を仰ぐ。5月にしては涼しい夜の空気を体いっぱいに吸い込む。今度は目を瞑りゆっくりと体の中の空気を自然に返す。目を閉じていても自然と脳裏に浮かび上がってくる星空。そんな情景を堪能していた次の瞬間、誰かに肩を叩かれ飛び上がる。目を開け振り返ると、そこには病院のパジャマを着た中学生か高校生くらいの少女が立っていた。
「びっくりした。死んでるのかと思ったよ。こんなところで何してるの?」
びっくりしたのはこっちの方だ。俺はあまりの突然の出来事に何も反応することができなかった。背後からの足音や扉が開く音は聞こえなかった。もしかしたら、幽霊なのかもしれない。それとも、これは夢の中なのだろうか。そんなことを考えていると彼女が口を開く。
「大丈夫?」
テラスに取り付けられている申し訳程度のライトによって照らされた、心配そうな彼女の表情をみて、少し落ち着きを取り戻す。
「大丈夫。少し眠ってしまったみたい」
咄嗟に出てきたその言葉が真実なのかは俺にも分からない。自分からすれば目を閉じた一瞬の間の出来事だった。
「そう、それならよかった」
ほっとする見知らぬ少女の表情に、心配をかけてしまったことが少し申し訳なくなる。しかし、そんなことはどうでもいい。なんで彼女はここにいるのだろうか。
「君はなんでこんなところにいるの?」
服装からして、ここの入院患者だろう。しかし、もう消灯時間はとっくに過ぎている。それなのになぜこんなところへ出てきたのだろう。俺の姿が中から見えたのだろうか。
「私はね、月を見にきたの。部屋の窓から見てたんだけど天気が良かったからつい外に出てきちゃった。そしたらお兄さんが座ってたからびっくりしちゃったよ。」
彼女は続ける。
「私ね、元々都会の方に住んでいたから、こんなに月がよく見えなかったから。天気が良かったから思わず、見にきちゃった。」
彼女はベンチに腰をかけ、俺が座っていた側の座面を叩く。彼女に催促され、もう一度ベンチに腰をかける。彼女がここにきた理由は俺と同じか。そう思ったが、少し引っかかった言葉が頭の中を巡り、つい口から溢れる。
「月?」
「そう。月。」
見上げてみると、半分ほど隠れた下弦の月が金色に輝いている。
「私、月を見るのが好きなの。ここは他の星も綺麗に見えるけどね。」
「星は都会だとなかなか綺麗には見えないけど、月は都会でもあまり変わらないんじゃない?」
これが自分としては当然の感覚だった。元々住んでいた場所も、星はあまり見えなくても月は晴れていればいつだって見えた。たしかに星空に浮かび上がる巨大な月も綺麗に見えるが、都会からきて圧倒されるのはこの星空ではないのだろうか。そんな俺の考えを彼女はキッパリと否定した。
「違うよ。」
その後に続けられるであろう、言葉の根拠を期待したが彼女は立ち上がった。
「そろそろ戻らないと、看護師さんにバレちゃうかも。ここに来てたのは黙っててねー。」
そういう時彼女は足早に病室へと帰っていった。
一体なんだったんだろう。この数分間の出来事は俺を不思議な感覚にさせた。まさか、他の人が来るとは思っていなかった。俺はもう一度ベンチに腰を下ろし、空を見上げる。彼女が彼女の言葉のせいだろうか。月がいつも以上に明るく見えた気がした。
それから三日後にも彼女はまた現れた。俺は、彼女にあったら渡すつもりでお見舞いのチョコレートを持ってきていた。
「これ、もし食事制限とかなければ食べて」
「ありがとう。好きなもの食べていいって言われてるから平気」
彼女は嬉しそうにチョコレートを受け取った。
「今日は曇っててあんまり見えないね」
彼女は寂しそうに呟いた。
「そうだね。月も隠れちゃってるね」
「ちぇっ、せっかくきたのにな」
「残念だね、また晴れたら来なよ」
「じゃあバレたらお兄さんの責任だよ」
「それはやめて欲しいな」
「あっはっは。じゃあ今日は戻るね」
楽しそうに笑った彼女は自分の病室へと戻っていった。後ろから見る彼女の姿は、少し重そう足取りをしていた。
その次に会ったのは五日後だった。夜空に月は浮かんでいない。
「今日は新月だから来ないと思ったよ」
「ちょっと外の空気を吸いたくなってね」
横さに座った彼女はいつもより元気がなさそうに見えた。
「元気なさそうだね」
彼女は、驚いたようにこちらを見た。
「そんな風に見える?」
「少しだけ」
「今日は月が出てないからかな」
「そんなに月が好きなんだね」
彼女は笑っていた。それでも、どこか暗さを感じたのは月の灯りがないからだろうか。
「月がなくても夜空は綺麗なんだね」
「こんなに星が見えればね。そういえば、最初に会った時に言ってたけど、ここの月は都会とはどう違うの?」
「都会の月はひとりぼっちだった。ここなら、たくさん周りに仲間がいるから」
「なるほど」
空を見上げる彼女の表情はどこか無理をしているようにも見える。やっぱり今日は様子が違う。僕は思わず余計なことを言ってしまう。
「何か伝えたいことは、しっかり言葉にした方がいいよ」
こんな言葉で伝わるだろうか。不安になり付け足す。
「俺なんかに言う必要ないけど家族とか主治医の先生とか、大切な人にはちゃんと伝えたほうがいいよ。不安とか、悩みとか」
何様のつもりなのだろうか。自分だってしていないくせに。自分が嫌になる。それでも、俺のようにはなって欲しくない。だから言う。
「自分には正直でいた方がいいよ。自分自身を苦しめるだけだから。俺はもう、どうしようもないところまで来てしまった。だからせめて、君に同じ思いはして欲しくない」
彼女は俯いた。そして、少し間が空いてから答える。
「そうだね。でも、家族だから言えないことだってあるよ」
初めて聞く少し震えた、少し雑に扱えばすぐに壊れてしまうような繊細な声だった。
彼女は一度深呼吸をしてから再び話し始めた。今度は落ち着いた、いつも通りの声で。
「大切な人だから、怖いんだ。悲しませたり、不安にさせるのが。心配させるのが一番辛い」
俺だって同じだ。心配させたくないし、悲しませたくない。だから自分の中にしまい込んで、どんどん溜め込んで、どうしようもなくなる。もう僕には何が正解かわからなかった。
黙っていると彼女は顔を上げてこちらを向いた。
「ねえ、いいこと思いついた。お互いに本音をぶつけ合おうよ。そうすれば少しは楽になるかもしれない」
「でも、俺は君のこと全然知らないよ」
「だからいいんだよ。私たちはお互いのことをよく知らない。ただ、ここで一緒に空を見るだけの関係。だから、遠慮なんかしないで誰にも言えないことを言い合おうよ」
肯定はできなかった。自分の本音を入院中の少女にはぶつけたくなかった。
「とりあえず、私の話だけでも聞いてくれる?」
彼女の提案に頷いて返事をした。彼女は一度真剣な顔を作ってから、少し微笑むように呟いた。
「私、もうすぐ死ぬんだ」
雷に打たれたような衝撃が身体中に走り、俺は思わず息を呑んだ。どこがで予測していた。今の彼女は最初に見た日よりも弱々しくみえる。
もしかしたら、彼女は重い病気なのではないかと思っていた。そして、彼女には残された時間があまりないのかもしれない。実際に彼女の口から放たれた一言は、俺の受け止め切れるような問題ではなかった。そんなことを人から直接言われたことは今までの人生で一度もない。
彼女の顔を見ることもできない俺の右手を彼女は両手で握った。彼女と目が合う。
「これはね、他人だから言えるの。他人だから無責任で居られるの、相手がどんな気持ちになるかなんて無視して。私ね、たぶんもうすぐ死ぬ。病院の先生も家族もできること全部してくれてるけど、きっと。自分ではなんとなくわかるの。それがすごく、すごく怖いの。でも、家族には泣いてるとこなんて見せたくない」
彼女の目から涙がこぼれ落ちる。震えた声で絞り出すように話す。
「これ以上悲しませたくないの。私が泣いたら、家族はどんなに悲しむだろうか。なんとしてでも助けたいって、無理だと分かっててもそう思うでしょ。だから、いつも前向きに生きてる。少しでも楽しんでやろうって。でもね、本当は怖いの。自分が死ぬのも、家族と会えなくなるのも。とっても寂しいし、悔しい。私だって、普通に学校に通って、友達作って好きな人も作って、青春したかった」
泣き崩れる彼女に俺はどうすればいいかわからなかった。ただ、彼女の手を両手で握り返した。自分の目からも涙が溢れる。
彼女は声を振り絞る。
「でもね。誰も悪くないから、誰も責められない。自分を責めても、何も変わらないし。だから、自分に言い聞かせてる。限られた生きていられる時間を楽しもうって」
自分も涙が止まらなくなる。彼女につられたから、彼女が可哀想だから、それだけじゃない。自分の愚かさに気がついたから。悔しかったから。
泣き崩れ、下を向いていた彼女が、こちらを向く。まだ涙は止まっていない。
「返事なんかいらないよ。聞いてくれるだけで良かったんだ。ありがとう」
感謝されることなんて何もしてない。何も言えなかった。でも、彼女は答えなんか求めていなかった。
ポケットからハンカチを取り出した彼女は、涙を抑え込むように自分の目に強く押し当てた。そして、僕と目を合わせて言った。
「少し楽になったよ。お兄さんは、自分はどうしようもないところまで来たって言ってたけど、そんなことないよ。だって生きていればなんだってできるんだから」
彼女の言葉は重く、重くのしかかる。彼女の不安に比べたら俺の悩みなんて、本当に小さなものだ。
「俺は、諦めていたのかもしれない。生きていることを、人生を。まだ生きてるのに、もうどうすることもできないって。聞いて欲しかったんだ、この気持ちを、誰かにわかってほしかったんだ」
今の俺は年下の女の子の前で泣き崩れてるみっともない奴だろう。ただ、心から湧き出た、嘘が混じってない、純粋な声だったと思う。自分の気持ちに正直になったのはいつぶりだろうか。
「生きてる時間は無駄にしちゃダメだよ。私より先に死なない保証なんてないんだし」
彼女は、赤く充血した目で笑って見せた。
「ねえ、やっぱりここの空は綺麗だね」
「そうだね。だけど月が出てないのは寂しいんじゃない?」
彼女は首を振った。
「ううん。寂しくはないよ。見えていなくても、月はそこにいるから。それにね、月は今日から満ちていくんだよ。だから、今日は始まりの日」
彼女は、誇らしげな表情をした。
その日以来、彼女がここに来ることは無くなった。名前も、年齢も、本当にいたのかすらも今になっては分からない。それでも夜空には今日も月が浮かんでいた。満月になるには、もう少し時間がかかるかもしれない。