人喰い龍
洞窟に差し込む陽の光と、背後の生き物の気配でネルは目を覚ました。龍は一晩かけて卵の殻を割り、すでに半身を外気にさらしている。後ろで巨大な龍の卵が割れる音をおぼろげに聞き続けていたにも関わらず、ネルは一晩スヤスヤと寝ていたわけだ。
龍は窮屈な殻の中からようやく抜け出し、大きな大きな翼を広げて陽に当て、乾くのを静かに待っていた。小さなネルが足元から見上げると、龍のその様はまるで神の御使いが舞い降りたようにも見えた。
足元でネルが動いたのを察知し、龍がのっそりとその顔を動かす。
『龍は生まれながらの捕獲者だ』とリュカの民はいう。その言の通り、獲物を見定めるために顔の前面についた両の瞳、まだ柔らかいながらも掴んだら肉に食い込み二度と逃れられないだろう鋭い爪。同じく掴むためにも、そして噛み砕くためにも優れていそうな鋭利な歯。孵化したばかりたというのに揃い過ぎではないかとネルは思った。
しかし、ネルは恐れない。それはリュカの民の知恵があったからではない。父が何度か龍の孵化を見せてくれていたからだった。今目の前にいる龍ほどの大きさはなかったが、赤子の龍の生態をネルは知っていたのだ。
龍を孵化させてはならない。それはリュカの民の掟。しかし、ネルの父は異端であった。というよりも、厳密に言うとネルもその父も、リュカの民ではない。オロソという少数部族の末裔だった。
大陸から遠く離れた龍の島に、二百年ほど前渡ってきたのがリュカの民。もともと狩猟民族であったこともあり、植生豊かな島での生活にすぐ馴染んだ。恐ろしい龍とも時間をかけて距離感をつかみ、共存した。
一方、ダルカニア帝国人は小柄なリュカの民とは異なり、大柄で交渉に長けていた。帝国が龍の島を見つけたのは百年ほど前。帝国人はリュカの民に対して高圧的な態度で接し、明らかに見下していた。
凶暴な龍と共に過ごしてきた自負のあるリュカの民は、長年培ってきた龍に対する知識を秘匿することで帝国人と対等に渡り合おうとしていた。それは成功とまではいかないが、ある程度功を奏していた。それでも屈辱を感じる日々を彼らは送っていた。
そんな中でさらに立場の弱い少数民族であるオロソの一族。一族はあからさまにどちらからも軽視されていた。
ネルたちオロソの一族はリュカの民よりさらに小柄だ。その小さな体で密林や険しい岩山にスルスルと紛れ込み、獣を狩り、果実を採り、龍と交流する。
オロソの一族は、リュカの民が移り住むはるか昔からこの島に生きていた。彼らは文字を持たず、原始に近い生活を送っていたが、不思議な力があった。龍を、小動物を、すべての生き物を瞬時に見つけるのだ。それが鬱蒼とした密林の中であっても。
また、細かな道具を作るのがとてもうまかった。現地調達した木や蔦などを使って、簡単な捕獲道具から精密なからくりを持つ罠まで、多種多様な道具を器用に作ってみせた。
ダルカニア帝国人やリュカの民から軽んじられながらも、その彼らが喉から欲しがるような珍しい龍の卵はオロソの一族がどこからともなく採取してくる。見下されている当の本人たちには、帝国人もリュカの民も、狩りの下手な未熟者にしか見えていないのだった。
そんなわけで、ネルにとって今のこの状況は特段慌てるようなものではなかった。
孵化したばかりの龍の顔を見上げる。顔立ちは猛禽類のようだが、瞳からは感情が感じられる、ような気がしていた。そっと手を伸ばすと、生まれたての龍は一瞬首を引いたが、こわごわとその手の匂いを嗅ぐ。
(こう見ると、龍って鳥に近いのかな〜。刷り込みができるのも鳥と似てるし。でも、卵の殻の柔らかさは爬虫類に近い)
そんな呑気なことを考えながら、刷り込みに成功し、ネルは巨龍を手懐けた。
生きるのに必要な食料も道具も、洞窟の中で確保し、巨龍の赤子とともに過ごした。巨龍の赤子にも食べられそうなものを見繕い、与えるうちに絆は強くなった。そうして過ごすうちに、手首の傷は癒え、ネルは洞窟から出られる頃合いだと考えるようになった。
巨大な卵ではなく孵化した龍を連れては、村人から怒られてしまう。そもそも、入口というか出口というべきか、洞窟の天井の穴は小さくこの巨龍を連れ出すことは難しい。
「でも、とりあえず外に出なきゃ」
巨龍の食欲は日に日に増していき、洞窟内で確保できるものでは到底足りなくなってきていた。
修理した仕事道具を背負い直し、来たときと同じようにスルスルと洞窟の岩壁を登っていくネル。
……彼は別に慢心していたわけではない。巨龍を簡単に手懐けられたからと浮かれていたわけでもない。そもそも、刷り込みというのはオロソの一族だけではなく、リュカの民、そしてダルカニア帝国人ですら知っている知識だ。
龍を手懐けるのが難しいとされるその理由。それは、唐突なる不可解な行動。不意に訪れる凶暴性。相手が、野生の生物だと思い知らされる一瞬。その一瞬で命を奪われるのだ。
生まれてからずっとそばにいるネルに親愛の情を示し、夜は寄り添って眠り、食べ物を分け合った巨龍。ネルがその龍を置いて洞窟を出ようとしたとき。
唐突に巨龍の鋭い顎がネルの細い脚に噛みついた。