採卵士ネル
遥か上空を舞う龍の咆哮が、洞窟の中にも微かに木霊していた。洞窟の天井は割れており、そこからわずかに差し込む陽の光が苔やシダ植物を育む。
ゴツゴツとした岩肌か、ツルツルとした苔。おおよそ人を寄せ付けないであろうそんな岩壁を伝ってスルスルと器用に降りていく人影が。
洞窟の中の平坦な場所に降り立ったその人間は、ネルという名をもつ小さな子どもであった。同年代の子どもと比べても小柄な彼は、しかし龍の巣の中に降り立ったというのにいささかも恐れている様子はなかった。
ある程度キョロキョロとあたりを見回したあと、わかりやすい表情で何かに驚き、小走りで駆け出す。その先には、巨大な、卵。
「ふぁ〜、なにこれ……」
間の抜けた驚嘆の声をあげながら、両の手のひらで卵の表面を撫でる。硬質そうでいながらやや柔らかさも兼ね備える意外な質感の卵。大きさはネルの背丈以上。色は、今までネルが見たことのないもの。巣らしきものは特になく、むき出しの土の上にて陽の光をあびながら、ただ一つ鎮座していた。
地上に持って帰れば村の英雄になれること間違いなしの、特級な卵。しかし、残念なことにそれは難しいというものだった。
ネルの背にあるのは壊れかけた仕事道具。そして腫れが増してきた手首の捻挫。ネルは手首を見て、ため息をつく。
彼はここに望んでやってきたのではない。仕事中のちょっとした事故で落ちてしまい、登るのをあきらめて降りることを選択したのだ。
とはいえ、望んできたわけではないが、目の前にあるのはまさに望んでいたもの。それは、龍の卵。ネルは龍の採卵士なのだった。
ネルの住む島には、様々な野生の龍が生息している。その龍の卵を採取して、島の外の人間に売ることを島民であるリュカの民は生業としていた。
野生で育った龍は気性が荒く、到底手懐けることはできない。そのため、卵の時点で確保し、孵化させ、飼い慣らす必要があった。
リュカの民は龍の生態を熟知し、質の良い卵をいくつも集め、高額で売買していた。龍に対する畏怖と尊敬の念を抱き、適切な距離を保って龍と共存していた。
しかし皮肉なことに、リュカの民は孵化した龍でも手懐けることができなかった。龍の生態を熟知していたのだが、幼体期に関する育成方法、特に手懐ける方法についての知識だけがなかったのだ。
龍を買い取り、手懐けるのは大陸の人間。特にダルカニア帝国の者たちが大多数の卵を買い付け、孵化させ、使役していた。むしろダルカニア帝国はその龍を飼いならすというノウハウをもって武力を強化し、独立したといってもよい。
反面、ダルカニア帝国の人間は野生の龍に関する知識があまりない。そのため、卵の採取はもっぱらリュカの民、龍を使役するのはダルカニア帝国人ということになる。
そんな中、当然リュカの民がたまたま龍の孵化に立ち会ってしまうこともある。そしてそれは歓迎されない。
孵化した龍の幼体を育てるノウハウはリュカの民にはないので、孵化に立ち会ってしまった人間は教えを請うためにダルカニア帝国に渡らなければならなくなる。ダルカニア帝国としては卵が手に入るためにそれを受け入れるが、知識を与えたリュカの民を故郷に返すことはない。情報が渡ることを恐れてのことだった。
そのため、リュカの民にとって卵の割れる音は『運命が割れる音』と表現されているほど、忌避されるべきものだった。
幼いネルは、仕事柄どこでも生き延びられる知識を叩き込まれていた。龍の卵というのは、野生動物たちが跋扈する森林や洞窟の中で、幾日もかけて見つけ、機を伺い確保するものだからだ。
数日ぐらいは生きていける技術があるため、あまり焦ることなく洞窟探索をしているネル。知識からくる余裕もあるだろうが、ここまで豪胆なのは本人の気質も勿論ある。
卵の様子をしげしげと観察し、辺りにある食べられそうな植物を見繕い、手首には湿布となる植物をまく。そして自身の落下の時に破損した仕事道具の手入れをし、また卵の横にまいもどる。
「この子、なんて種類だろう」
この卵は大変魅力的な卵だ。大きさもさることながら、色艶もいい。孵化したらさぞかし美しい龍が現れることだろう。採卵士のネルにとっては、孵化後の龍を見る機会などはないのだが、どうしてもいつも卵の柄から中の龍の子を想像してしまう。
手首の腫れは一日休めばだいぶ良くなるだろう。仕事道具も何とか補修できそうだ。今日は一日休んで、明日地上へ登ろう。ネルはそう算段をつけた。
やることが決まれば、あとは寝て明日を待つだけだ。龍の親はまだ帰ってくる気配がないし、来ればけたたましい羽音で絶対に気がつく自信があるネル。万一のためにと岩陰に隠れることはせず、卵の近くに寄った。卵はほのかに温かく、安心感があったからだ。
洞窟上部から差し込む陽の光が徐々にかげっていく。背中を預けた巨大な卵が、暗闇の洞窟の中、仄かに光っているかのように見える。
そしてネルは微睡みの中、運命の割れる音を聞いた。