中
出ます。ご注意ください。
「ぎゃああああああっ」
断末魔のような声で妻が叫んだ。見ると妻の手から黒い煙が出ている。すぐに離せと叫んだがパニックになって聞こえないのか離そうとしない。
仕方なく腕を掴み離させようとしたが、いきなり石が重くなりぐんっと下に引っ張られ妻の手が下敷きになった。
「ひぎゃああっ!いだい!いだいぃぃ!」
グシャ、と嫌な音が聞こえ妻の手が潰れたことがわかった。
石を退かそうとしたがあまりの熱さに手を引っ込めてしまう。ならばと足で石を蹴り飛ばそうとしたがあまりの固さに足からグキッと嫌な音が聞こえた。
「いやあぁぁぁっ腕がっ腕がぁ!!」
見れば妻の腕が黒く腐っていく。医者じゃなくてもわかった。妻の両手はもう助からないのだと。
「なぜだ!なぜこんなことをする!!俺を恨んでいるなら俺にすればいいだろう?!なぜ妻なんだ!彼女は二人の子を持つ母親なんだぞ?!」
足を引きずりながら地面に手をついたまま立ち上がらないシビルに怒鳴った。妻が嘘をついて転ばせたこともシビルの目が見えていないことももう忘れていた。
そうしていれば手をさしのべられると思ったか?!いつの間にそこまで性根が腐った?!怒りに任せて叫ぶとシビルは呆然とした顔で「二人の子供…?」と呟いた。
「そうだ!俺の子供だ!頼むから子供達から母親を奪わないでくれ!!」
妻を助けてくれ!と叫ぶとまた妻の悲鳴が聞こえた。
見れば腕の黒い部分がどんどん広がりのぼってきている。さっきまでは肘くらいだったのに今は二の腕まで真っ黒になっていた。
「頼む!妻の腕を治してくれ!!お前は巫女なんだろ?浄化でなんとかしてくれよ!!」
巫女は水を浄化するだけで治癒などはできないのだと知っていたが、黒く腐っていく妻の腕を見て藁にも縋る想いで訴えた。
頭に浮かぶのは可愛い盛りの二人の娘だ。母が大好きな娘に両腕を失った妻を見せたくない。娘達を抱き締められない妻を想うとつらくて涙まで出た。
頼む!そう頼んだがシビルはひとつも反応してくれなかった。顔を上げるとストン、と表情が抜け落ち人形のような目で宙を見ていた。まるで死んだまま立っているような姿に寒気が走る。
「石に触ったのですね。触ることを許されているのは巫女だけです。それ以外の者が触れれば腐食します。無闇に触れてはならないと前に話したはずです。わたしの話をもう忘れてしまったの?」
初めて聞くような冷たい声に無意識に体が強張る。シビルはいつも優しくて柔らかい、温かい日射しのような声しか出ないと思っていた。
「そう、だったか?…そんな昔のことはどうでもいいだろ?妻の腕がどんどん黒くなっているんだ!助かる方法はあるんだろ?」
「止めることは……できます。わたしが浄化石に、触れれば。だけど」
「そうか!なら早く妻を助けてくれ!!」
そう言って手を伸ばしシビルの腕を掴もうとしたら、その手が失くなった。
「……え?」
視線を落とせば利き手が手首から失くなっている。認識した途端に痛みと血が吹き出た。
「なん、なん…?…シビル?!お前、何を、した?」
「どう、して?わたし、待って、いたのに。なんで?信じて、いたのに……ううん、あなたが、生きていて、よかった。帰ってきて、くれた。わタしは、そ…だけで、嬉しイの」
「…シビル?」
手首に心臓が移ったみたいにバクバクとうるさく血が止まらない。
お前がやったのか?と責めようと思ったがシビルの目は俺の方を見ているが俺を映してはいなかった。
顔よりも下、ロバートよりも背が低いシビルの視線は血が滴り落ちる手首に向いているように思えゾクリとする。
その上、片言で喋る彼女に肌が粟立ち本能が警戒しろと叫んだ。
「あーあ。壊しちゃった」
どこからともなく聞こえた声に身構えた。
ひらりと舞い降りた奴はシビルの傍らに立ち、顎をすくいあげると焦点が合わないシビルを見て不憫そうに笑った。
彼女はさせるがまま顔色ひとつ変えない。それがまた恐ろしかった。
「愛する男の故郷のために代償を払ってまで留まったのに、とうの昔に裏切られていたなんて可哀想だね。お前は」
痛みと恐怖で声が出ない。
目の前の男は俺よりも頭ひとつ分高く、だが俺よりも筋肉がなくひょろっとしている。頭まですっぽりフードで隠しローブを纏う姿にこいつ魔法使いか、と推測した。
いつもの俺なら力押しで戦っただろうが今はその元気もない。なにより利き手が使えないのだ。Sクラス目前とはいえ、利き手のない状況で目の前の奴と戦うのはまずいと本能で理解した。戦えば間違いなく負ける。
誰だ?コイツは。いつからいた?なんでシビルを知っている?知り合いなのか?
いるだけで恐怖を感じる魔法使いなんて会ったことも聞いたこともなかった。
くそっもっと装備や前準備をちゃんとしておくんだった。負けたバブルムスーにいるのは雑魚兵しかいないと思ってたし早く浄化石を得ようと移動を早くするために荷物を軽くしてしまった。
ポーションも仲間の荷物持ちに預けているし、左手じゃうまく剣を扱えない。
他の捜索隊とブッキングしないように情報操作もしていたし、だからライバルも来ないと思って油断していた。いつもなら索敵を使って状況を確認してから動いていたのに!
なんで、なんで、こんな化物みたいな奴が来てるんだよ!!
見るだけでもわかる。立ち上るオーラが禍々しく気を抜けば首をはねられるイメージがこびりついて離れない。
魔法使いだと認識したがそれも間違いかもしれない。ローブで覆っていても細身の印象は変わらないが黒は視覚情報に誤作動を起こさせる。ローブのタイプによっては無数の武器を隠し持っているかもしれない。
考えたらキリがないのに思考が止まらない。震えも、恐怖もおさまらない。どうしたらいい?どうする?どうしたらここから生き延びられる?
……いやいやいや、まずは交渉だ。賞金狙いなら金を払えば多少は話をしてくれるだろう。妻の腕が治ったら仲間と合流し、みんなでこの魔法使いを倒せばいい。
浄化石に触れられない以上賞金を手に入れるにはシビルが絶対に必要だ。
大丈夫。シビルは俺の女だ。今も俺を待っていたなら俺の言うことを優先する。問題ない。すべてうまくいく。
止まらない冷や汗を拭いながら臆していることを悟られないように睨みつけた。
「すまないがそちらの話は後にしてくれないか?今は妻を助けるのが先決だ。金を言い値で支払うから先にこちらの用事を終わらせたい。
シビル、早くこっちに来い。婚約者だった俺の願いを聞いてくれ」
「婚約シャ、だっ……た……」
「バカ正直だね。せめて愛の告白や『お前を迎えに来たんだ』くらい言ってやれば、気休めになっただろうに………ああ、そこの死にそうな妻に気を遣っているのか」
婿養子も大変だな、と嘲笑われたが妻の様子を見て驚愕した。二の腕まで伸びていた黒ずんだ部分が頬にまで侵蝕していた。
「ロバ……、助け、て」
呼吸が苦しいのか声が出ていない。白く美しい肌も豊満な胸も腐食し爛れていた。
「頼むシビル!妻を助けてくれ!!」
何度も頼んだがシビルは聞こえていないのかこちらに向いているものの見当違いの場所を見ていて苛立った。
それでも巫女か!困っている者を助けるのが貴族の役目だろう?!などと覚えたてのノブレス・オブリージュを語ったり、巫女と聖女をごっちゃにして叫んだがシビルの顔は人形のように少しも変わらなかった。
「どうする?助けるかい?………ふんふん。わたしの婚約者を奪ったクズ野郎の妻なんて助けてやるかバーカ、だってさ」
「嘘をつくな!!」
シビルの口はまったく動いていなかったじゃないか!
「いや、この流れで助けてもらえると思ってるお前達の方がおかしいだろ。婚約者であるこの娘を見捨て、別の女と勝手に結婚して子供まで作ったと聞こえたが?
その上その妻と共謀して巫女の持ち物である浄化石を騙して奪おうとしたよな?
不貞、不義理、裏切りという罪を犯しておいてなんで救ってもらえると思っているんだ?逆をされてお前は助けるのか?」
「いや、だって、シビルは巫女だから…」
「巫女だからなんだよ。巫女だって人間だぞ?元婚約者で一番近くで見ていたお前がよくわかってるはずだろう?
巫女だから許してくれる。巫女だから何をやったっていいなんて誰が言った?お前の身勝手な妄言だろうが。甘えてんじゃねーよ」
シビルが俺を助けない?いやそんなはずはない。だって俺だぞ?こんなに格好よく人望もあり実力もある俺が好かれこそすれ嫌われるなんてありえない。
元婚約者になったってシビルは聖女のように優しいから俺を許すはずで。
別れても俺を好いているからきっと喜んで助けてくれるはずで。
嫉妬しても子供が好きなシビルなら俺の幸せのために潔く身を引くはずで。
離れたからこそ俺の偉大さを知り、巫女なんてひとつも役に立たなかったと泣きついて『浄化石をあげるからわたしのことを生涯飼ってほしい』と潤んだ目で懇願してくるはずで。
シビルが俺を嫌うはずがない。恨んでるなんて絶対にありえない……はずで。
「お前がしたことはここで刺し殺されても文句なんて言えない立場なんだぞ?」
ゾクリとする背中の毛が逆立ち悪寒が走る。
チラリとシビルを見ればどこを見ているのかわからない顔で大人しく男に抱きしめられている。それがまるで俺が捨てられたような錯覚を覚えた。
俺はシビルに刺し殺されてしまうのか……?
「巫女は頼めばなんでも叶えてくれる母親でもなければ、どんな罪も許してくれる女神でもない。ましてや婚約者だからお前の言うことを聞く都合のいい道具でもない。
巫女はな、バカな王家の都合で親元から無理やり引き離され、援助もなく地位もなく死ぬまでこの地を守れと王命に縛りつけられた哀れな娘なんだよ。
助かる道は二つ。死ぬか婚姻を結ぶか。巫女はとくに純潔が尊ばれるからな。結婚すれば能力が失われたとしてお役目が免除される。王家は長く使い潰したいから貴族と結婚なんてさせるわけがない。
だから平民であるお前と婚約を結んだ。あいつらはプライドが高い貴族が平民と結婚するはずがないと思っていたからな。
そのままいけば戦争のどさくさに紛れてバカみたいな王命から解放され、家族になることができたのに……お前は運もなければ男を見る目もないな」
捨てられただけでなく、どれだけ幸せになったか見せつけられたのだから。と男がシビルを嘲笑い悲鳴をあげたくなった。
違う!そうじゃない!帰るつもりだったんだ!だけど色々うまく行かなくて、妻と出逢って、隣国での生活が楽しくなってきて。
そしたら戦争真っ只中の母国に帰るのはバカらしく思えて。戦争が終結して落ち着いたらでいいんじゃないかって話になって。シビルもみんなも全員逃げてるだろうって、そう思い込んで。
シビルが婚約を受けた理由は知らなかった。貴族の令嬢を射止めるくらい格好いい俺、くらいにしか思ってなかった。婚約者なのにすげなくするシビルを俺を本気で引き留めたいと思ってないなと簡単に損切りして妻を取った。
戦争中もシビルは村を守り俺を待っていたのに俺は、俺は。
「帰りたくても帰れなかったんだ!折角買い付けたものだって隣国の軍に強奪されて……手ぶらじゃ帰れなくて当然だろう?!」
「へぇ、戦争を否定し参戦しなかった隣国が、ねぇ?
…まあそれでもお前一人なら帰ってこれたはずだよな?相当強い冒険者なんだろう?強いなら周辺の諍いを止めることはできたはずだ。それだけでも十分手土産になっただろう。
そもそもとして、心配する婚約者のためになんで婚姻届のひとつくらいサインしてやらなかったんだ?そのために文字の書き方を習ったんだろう?」
ギクリと肩を揺らすと男はニヤリと笑みを深くした。
「ああ!最初から捨てるつもりで置いていったのか?
巫女の婚約者になっても何も優遇されなかったから。貴族の娘のくせに贅沢させてくれなかったから。平民の妻になるくせに婚前交渉させてくれなかったから。
……だったら巫女として村と心中すればいいと思った、とか?」
「そ、そんなわけないだろう?!」
否定したが声を荒げたせいで図星をつかれたような空気になり冷や汗が流れる。いや、そんなはずはない。バレてない。
「最後のは言い過ぎた。貴族令嬢にとって婚前交渉がどれだけひどい醜聞になるか、婚約者なら知っていて当然の話だったな。
貴族にとって婚前交渉はレイプと同じだ。好きだから、想いが通じあってるからは理由にはならない。
婚前に一度でも体を許せばたとえ相手が婚約者でもその令嬢は矜持も教養もない動物と同じだと見下され、淑女としての立場を失う。
そんな想いをさせてまで婚前交渉したいと言う婚約者はいないだろう。いや、いるはずがない!」
厳しい家では本人は死を選び、親も娘を殺すほどの醜態だ、と唱えられロバートは顔を真っ青にさせた。
そんなはずない。想いあっていれば許されるはずだ。だって結婚するのだから。妻はそう言っていた。
「お前の妻とやらは身持ちが悪く社交界からほぼ追放されていたからお前でも抱くことができたのだろうな。でなければ妊娠してから式をあげるなどそんな恥ずべき醜聞を貴族が良しとするわけがない」
厚顔無知でなければできない所業だと切り捨てる男に違うと否定したが、妻との結婚式を思い出し顔が強張った。
派手な式、豪華なドレス、男爵領でだがパレードまでしたのに祝福してくれたのは妻の家族と村から連れてきた自分の仲間達で妻の友人達は誰も来なかった。
学生時代や王都の話でたくさんの名前が出てきたが、その誰もが忙しくて男爵領が遠いからと駆けつけなかった。友達の結婚式だというのに。
お祝いだけ届いたと言っていたが、そのお祝いを未だに見ていない。妻なら間違いなく見せびらかしその祝いの品の良し悪しを詳らかにするのに。
いや、だが、たかが情事ひとつでそこまでのことになるか?妻の家が普通だろ?そう思いたいのに否定しないシビルや自信満々に言う男に動揺してまさか、と息苦しくなった。
「だからお前の妻は平民のお前の仲間にこの娘の純潔を奪うよう指示したんじゃないか?自分は貴族としてなんの価値もないからこの娘を汚し貶めることで汚れきった自分を隠したかったんだろうな。
だがどんなに頑張ったところで最後まで屑な婚約者の帰りを信じ村を守りきった潔白な巫女と、いろんな令息を誑かして領地に封じられた尻の軽い腹黒女じゃ比べるまでもない」
妻が俺と結婚したのは相手が見つからないほど貴族に嫌われたから。
男爵家の次期当主は妻でも俺でもなく、親戚が継ぐことになっている。
今自由に過ごせているのは娘に甘い義父のお陰で、義父が死んだら子供ごと処分されるだろう。
平民落ちすれば運がいい方だ、と言われ混乱した。
なんでそんなことまで知っているんだ?と恐々と見上げれば男がニヤリと嗤った。
「お前はついでだ。巫女の婚約者がどれほどのものか確認しようと思ってな。だが調べたら軽薄で無知で愚かな三拍子のバカな屑だったよ」
「……んだと、」
「しかしお前の義父とやらもとうとう娘を見放したようだな。冒険者がいるとはいえ普通なら大切な娘を国から出したりしない………とくに敗戦国のバブルムスーへはな」
「…あ!」
ザァ、と血の気が一気に引いた。そうだ。バブルムスーは敗戦国だ。いや、それはわかっていた。忘れていたのはどこと戦っていたかだ。
「そういえば、お前はこの娘に偽りの遺書を送っていたな?」
遺書と言われて一瞬呆けたがすぐに思い出した。しかし偽りと言われてカッとなり違うと否定した。
「たしかに今俺は生きてるが、死にそうになったのは本当だ!偽りなんかじゃない!何も知らないくせに知ったような口をきくな!」
「何も知らない?それはお前だ。愚か者め。
何が『エルビンバーラ帝国を通って帰る』だ。バブルムスー王国はエルビンバーラ帝国と戦争していたんだぞ?なのにどうやってそこを通るつもりだったんだ?
国境封鎖も隣国がバブルムスーからの渡航者を制限しているだけで、隣国からバブルムスーへの移動は止めていない。
それをお前は相手が何も知らないとタカを括り、悲劇の主人公を気取ってお涙頂戴の遺書を送りつけたんだよ」
えっ?!とシビルを見ると目を伏せられぶわりと嫌な汗が吹き出た。
俺ですら村を出てから帝国と戦争をしてると知ったのに。しかも負け戦というのもその時知って。
戦中の移動制限も片方だけならできたのだと初めて知った。戦争が終わってからだと思っていた。
「…シ、シビルは知っていたのか?」
負けると知っていた上で俺を見送ったのか?帰らないとわかっていて村を守っていたのか?
返答はなかったがついっと背けられた顔にひやりとした。
「……その、あっ……違うんだ。これは、」
「慣れとは恐ろしいものだな。最初は貴族だ巫女だと近寄りがたく持て囃していたのに、婚約者になった途端自分以下しか何も知らない無知な村人扱いだ。
無知なのは平民としての生活だけで、その他で劣るものなどなかったのにな」
そうだ。俺はシビルに振り向いてほしくて何度も話しかけた。品があって可憐で美しかった彼女に惹かれたんだ。誰かのものじゃいやだと。俺が欲しいと。
婚約してほしいと乞い願ったのは俺の方だ。シビルじゃない。
なんで忘れていたんだろう?
「知ってるか?お前がバカなことを考えずにこの娘と結婚していればお前は家族や村を捨てずにすんだ。実家だって男爵家より格上の伯爵家になっていた。
巫女の能力で生活水準が保たれ、戦争の被害が遭った地域の中で一番安全な暮らしを約束されていたんだ。
捨てられた村の者達は散り散りに逃げ、お前の言葉に従い隣国に渡ろうとしたお前の両親は賄賂が足りなくて密入国者として捕らえられたそうだぞ。おそらく奴隷に落ちたか即処刑されているだろう」
「そんな!?まさか!ありえない!!」
お父様はすごいから男爵家の名前を出せばすぐに通してくれるわ!と妻が言っていたのに!
「男爵ではなく国境を守る侯爵の口添えをお願いするべきだったな。
お前があまりにも無名な冒険者だったために信用が得られず、落ちぶれた男爵ごときをべた褒めされては賄賂が欲しい彼らでも矜持が傷つき面白くないと思うだろう。
だがまあお前も友人と酒を飲みながら死んだことにすれば村に帰らずにすむと遺書を書いて独り立ちしたのだ。
お前の両親がどこでの垂れ死のうと関係ないし、美しく成長した元婚約者が死んでも関係のない話だったな」
冷水をかけられ、足下がガラガラと崩れていくような感覚に陥る。
今思えば、俺はシビルに何もしてやらなかった。
婚約者になっても自分のことばかりでシビルの手助けなどしなかった。村長や大人達が俺の代わりにやっていたのだと思い出し、手足が震えた。
親達はシビルを敬っていた。巫女様のお陰で自分達は生きていけるのだと。絶対に裏切るなと俺達に何度も言い聞かせた。
でも俺達は親ほど真剣に考えなかったし聞いていなかった。水なんてどこでも手に入るし枯渇すれば村を捨てればいい。その程度にしか考えなかった。
村を捨てて隣国に来るといいと親を誘った時も、
『早く帰ってこい。シビル様もお前のためにお務めを続けわたし達を守ってくださっている』
そう手紙に書いてあったのに、俺は〝シビルが両親達を村に縛りつけている〟と曲解した。
妻と結婚するためにも後腐れがないように遺書を書けば円満解決すると仲間達に言われてそれに乗った。
どうやったら真実っぽくできるか仲間達と相談して切羽詰まったように見えるぐちゃぐちゃの字を書き『こんなの読めねーよ!』と仲間達とゲラゲラ笑って。
涙っぽく見せるためにグラスについた水を垂らし文字を滲ませ『これでしつこいシビルも諦めるだろ』と自信満々に封をして送った。
あの時のことを鮮明に思い出し、血の気が引くのと同時に羞恥で顔が熱くなるような錯覚を覚えた。呼吸が止まりそうだ。
「やっと帰ってきたかと思えば巫女が守っていた浄化石を盗みに来ただけ。ここだって襲われたひとつだったのによくそんな厚かましいことができたな?
村がこれだけ無事だったのはお前達が流した噂のお陰ではないぞ。この娘と残った村民が守ったからだ。
それを感謝もなく敬意もなく火事場泥棒だなんて人として恥ずかしいと思わないのか?」
「う、うるさい!俺は……俺は石を、じゃない、シビルを迎えに来たんだ!お、遅くなったのは生活基盤ができてから、安心して暮らせるようになってからシビルを呼ぼうって思って!
そう、そうだよ。そうなんだ!シビル!お前を迎えに来たんだよ!だから俺と一緒に行こう!!」
役者張りの大立ち回りと大声に男はシラけた。顔の出来はいいから見映えはするがその前の右往左往する目やどもる台詞のせいですべてが台無しである。
そして見えていない相手に手を差し出したところでその手を取ってもらえるはずもない。
これまでのことを思い出せよ、と残念そうに大根役者を眺めた。
いつまで経っても手を取らないシビルに気まずい空気が流れる。
ロバートは唇を震わせなんとか言い繕おうとしたが、自分がやったことを反芻したのかうまく言葉を紡げなかった。
そこへ男は「あ、」と声を漏らす。
「こと切れたようだね。御愁傷様です」
「え?…………え?あ、え、……………………嘘、だろ?」
妻に目をやれば顔が真っ黒になり腐敗した状態でぐったりと横たわっていた。俺はすかさず駆け寄ったが妻はまだ浄化石を触っていたので抱き起こすことができなかった。
間に合わなかった。手を握って看取ることもできなかったとむせび泣いた。
「ああ、ダメだよ。そっちに行っては」
元婚約者の声に反応したシビルが彼の方に足を動かしたので男はそれを阻止し、後ろから包み込んだ。
捨てられても、現実を突きつけられても非情にはなれないシビルに微笑んだ男は荒れた左手をそっと握り締めた。
「もういいだろう?これを外しても。彼はもう人のものになった。君も気がすんだはずだ」
きゅっと拳を作るシビルに一本一本優しく丁寧に開かせ、そして薬指にはまっている指輪を抜き取った。
その際無表情だがシビルの顔が少し強張ったのを男は見逃さず「よくできました」とこめかみにキスを落とした。
「……よくも、妻を見殺しにさせたな」
「おや。逆恨みかい?脳筋な上に短絡的では長生きできないよ?」
「うるさい!お前がシビルを渡せば妻は助かっていたんだ!」
利き手ではない手で剣を構えるロバートに男はにんまりと笑った。その笑みはどこか不気味でまだ剣を交えていないのに臆した。
不気味に感じたのは黒髪の隙間から見える血のように赤い目のせいだ。
「浄化石を退けたところで腐敗した部分は戻らないよ。聖者でもない限り元には戻らない。そいつの腕を切り落とせばまだ命だけは助かっただろうに……まあ欲を出したのはそっちだ。自業自得ってやつだよ」
「貴様ぁ!!妻を愚弄するな!!」
「小物が吠えるなよ。だがまあいいだろう。私は今機嫌がいい。特別にいいものを見せてやろう」
男が何かを投げたので防御体勢をとったが飛んできたのはシビルがつけていた指輪で、ロバートの目の前で灰となって散った。
そのことに目を見開くと足音が聞こえた。
現れたのは仲間達でほっと息をつく。
「ロバート…」
「お前らも加勢してくれ!コイツを倒すんだ!!」
剣を抜きそう叫んだが返事が返ってこない。どういうことだ?と振り返れば腕が腐り落ちている仲間がロバートにジリジリと近づいている。
他の仲間も服と一緒に体が爛れていたり腹に穴ができて内臓が垂れ下がっていたりしている。その光景に悲鳴を呑み込んだ。
「なあロバート。助けてくれ。俺の体、オカシイんだ…」
「ロバート、俺の腕、知らないか?リーダーだろ?……アレ?オ前、うまソうだナ?」
「なんだ?コレ……ソーセージが、腹から出てル?ロバー、ト。コレ、なんダ?なんで、俺の腹から……」
「や、やめろ!来るな!!」
「やっぱりお前の仲間だったのか。勝手に人の家に入って物色していたから盗賊かと思ってうっかり殺してしまったよ。ああ、お前を歓迎して村の奴らも来てくれたぞ」
仲間達から距離をとれば別の方向からも皮膚が爛れ腐ったもの達がロバートに迫ってきた。
こいつらは死人だ。魂のない肉体で人を襲う彷徨う者。
話には聞いていたが見るのは初めてだった。死んでから大分経っているのか腐敗がひどく異臭も強い。目はあるが見えてはいないだろう。
両目とも別の方を見ていて、しかしまっすぐロバートに向かっていて恐ろしくなる。
しかもよくよく見ればこいつらは村の老人達だった。よく怒られたが気のいい爺さん達だった。腹を空かしていると何かしら分けてくれた婆さん達だった。
それが今では不揃いな歯を見せながら涎を垂らし、言葉ともつかない声と腐った体を引き摺ってこちらに向かってくる。
「ああ、そんな……」
斬れない。斬りたくない。世話になった人達なんだぞ?家族のように付き合っていた爺さんもいる。そんな奴らを斬ることはできない。
だが斬らなければ俺が殺られるかもしれない。つらい選択に涙が滲んだ。
「…お前、死人使いか」
「正解♪よくできました」
「下道め!俺を殺したいならお前が手を下せばいいことだろう?!俺の知り合いを利用するなんて卑怯だぞ!!」
「んー。それはそうなんだけど。自分達がやると言って聞かないんだよね。彼らが」
彼ら?と眉をひそめる。そんなわけあるかと寄ってくる爺さん達をなぎ払った。
死人に思考はないと聞いてる。記憶すら残っていないただの人形だ。
死者を冒涜するのも大概にしろ!と叫んだ。
「不勉強だな。私がこれだけ知識を披露してやっているというのに。
この村の老人の死亡原因は餓死と病死だ。そこで質問なのだがお前達は何をするために外に出た?」
「?……食料を調達する、ため」
「そう!彼らはお前が持ち帰るであろう食料を期待していた。足腰が弱り、旅の足手まといになるくらいならと村に残った後もお前達の帰りを待っていたのさ。
だがいつまで経っても戻ってはこなかった。あとはひたすら飢えをしのぐために草を食み、ネズミや虫を食べ、土を舐めた。水は安全で飲み放題だが根本的な解決にはならない。
彼らはゆっくりと衰弱し死に絶えたんだ。そんな彼らが今際の際で戦争ではなく食料を持って帰ってくるはずだったお前達を呪うのは自然な流れだと思わないか?」
再び悪寒が走る。ニヤリと笑う男かと思ったが次の瞬間失くなった利き手に痛みが走る。見れば爺さんが滴る血を貪るように舐めていた。
「ぎゃあああっ」
悲鳴を上げ、無意識に爺さんを蹴り飛ばすと簡単に吹き飛び、井戸の縁にぶつかるとグチャッと頭が潰れ、千切れた胴体は井戸に落ちていった。
「ああっそんな!そんなつもりは、」
狼狽してる間にも老人や仲間達が寄ってきて噛もうとしたり血をすすろうとするので頭がパンクしそうだった。
「やめてくれ!こんなこと!石は置いていくから!もうここには来ないから!!だから許してくれ!!」
「ならこの婚約者もいいのか?また捨てるつもりか?」
「っ……」
馬車は村の入り口に停めてある。死人使いの気を逸らせば逃げられるかもしれない。そうなると仲間を置いていくことになるがこれはもうどうしようもないことだ。
死人は神に仕える者じゃないと浄化できないしエリクサークラスの秘薬でなければ元の姿にも戻れない。手の施しようがなかった。
A級冒険者でもどうにもならない案件はあるし、引き際を見極められるのも強者の証だ。
これは戦術的撤退で逃亡ではない。俺以外に隣国の奴はいないから俺の評価が落ちることも俺のパーティーのランクも落ちたりもしないだろう。そう、これは依頼じゃない。単なる小旅行だ。
そうとなれば今はこの場を切り抜けること。馬が無事なことを祈ろう、そう切り替えて動揺した演技を見せたところで奴の腕の中にいるシビルに目を移した。
相変わらず宙を見ていて表情も見えない。これだけ騒いでいるのに無表情のままだ。本当に死んでいるみたいだ。
だが、死んだ奴らは皆腐敗してひどい姿になっている。ということはシビルはまだ生きているんじゃないか?
代償を払ったとか言っていたからもしかしたらあの男の女になる代わりに生き延びているんじゃないか?
本当は俺に助けてほしいんじゃないか?
だって俺達は婚約するほど愛し合っていた。
見た目も話し方も不気味な死人使いより、婚約するほど愛し合っていた強くて格好いい俺の方がいいに決まっている。
俺の手を取るなら連れて行ってもいいんじゃないか?どうせ妻は死んだのだし。娘達にはまだ母親が必要だから。
抱いてやればシビルも色気が出て昔のように愛し合えるんじゃないか?そう思ったら急に活力がわいた。
そうだ。巫女がいればいつでも水が飲めるようになる。隣国では水はあるが不味いし新居の井戸はどんなに直してもすぐ干上がってしまう。最近は水が原因の病も出てきた。あれらもシビルがいれば解決するかもしれない。だったらやはりシビルを連れ帰るべきだと思った。
「シビル、すまなかった。あの頃の俺はどうかしていたんだ。戦争のせいで俺達は引き離され、散々遠回りさせられたけどはっきりしたよ。やっぱり俺はシビルのことが好きだ!」
「………」
「だからもう一度やり直そう!きっとそのために神様が俺達を引き合わせてくれたんだ!
いきなり言われて信じられないかもしれないが俺は本気だ。本気でシビルを愛している!なんだったら今ここで結婚してもいい!娘達もお前なら受け入れてくれ」
「ね゙ェ」
こんな危険な村なんか捨てて新天地で一緒に暮らそう!とシビルに話しかけたのに後ろからダミ声が聞こえた。
え?と振り返るとそこには真っ黒く皮膚が爛れた妻が片方の目をギョロりとこちらに向けた。もう片方は目から飛び出していてぶらりと頬の辺りに垂れ下がっている。ちなみに両腕は引きちぎられている。
え?妻なのか?と一瞬頭が真っ白になった。
だって妻は色白で色気があって碧色の瞳に見つめられるとなんでも許してしまうくらい愛しかった。それが浄化石のせいで黒く爛れて炭化したみたいな見てくれになってる。
いや、そもそも、さっき死んだはず、では……?
実は生きていたとか?ならなんで目玉が飛び出ているのに痛がらない?なんで歯を食い縛りながら俺を睨む?
この女は誰だ?
妻のあまりの姿に遅れて悲鳴を上げた。
「好きって、どういぅこト?好きなノはわだくシよネ?」
「え?あ、うん。そ、そうだけど」
「ジゃあ、なん゙でそこの女を連れテくの?浮気ハ許ザないっデ言ったよネ?」
「あ、ああ!勿論さ!シビルを連れていくのは、その、あっちに帰ったらギルドに引き渡すつもりだったからだよ。
お前も言ってただろ?巫女を売ってその金で家を水が豊かな場所に建てようって!それで残った金でお前と娘達に新しいドレスを買ってうまいものをたくさん食おうって!
そのためのブラフなんだよ!本気じゃない!こんなつまらない女を本気で好きになるわけないだろ?愛してるのはお前だけだ!!」
「………」
「えと、それから、お前が欲しいもの全部、好きなものも買ってやるから!な?だから…、お、落ち着こう!頼むから!」
ギリギリと食い縛る歯が圧力に勝てずギチギチと嫌な音をたてる。睨みつける目もどんどん前に出てきて飛び出してきそうだ。
「許ぜナい!許せなイ゙!許ぜないぃィィィ
!!!嘘でモあたグしより゙他ノ女、選ブなんて!不潔よ!不潔だワ!!」
「そうそう。死にたてはまだ記憶も残ってるし人格もそのままなんだ。面白いだろう?
死ぬとタガが外れて通常よりも感情的になりやすいんだが、その女は死ぬ前と変わっていないようだ。これは新発見かもしれないな」
「そんなことはどうでもいいんだよ!早く妻を止めてくれ!ぎゃあ!……シビル!シビル助けてくれ!!婚約者だろう?お願いだ!後生だから!俺を愛しているなら助けてくれ!!」
見えていないはずのシビルに手を伸ばす。
そこでやっと初めて目が合った気がした。
今にも泣きそうな顔に俺を心配してくれてるのがわかる。
ああ、シビルも俺のことを愛しているんだ。きっとそうだ。妻に言ったことこそが嘘だとわかってくれる。俺にはシビルしかいない。両想いの俺達を引き離すことはできないんだ。
「わたしは不貞を犯すような不誠実な方と婚約した記憶はありませんし、婚約者だった方とは死亡通知が来た時点で解消しています」
「えっ……?」
「わたしがこの村にいるのは水質調査であって死んだ元婚約者など待っていませんよ」
え?俺、死んだの?たしかに遺書を書いたけど偽りってバレてたんじゃ?いや、それ以前に俺をロバートだってわかってて話してるよな??
「それよりもわたし、あなたの妻の命令であなたの仲間達に陵辱されるかもしれなかったのよ?不愉快だし恐怖を覚えたわ。
なのに元婚約者というあなたは怒ってもくれなければ止めてもくれなかったじゃない。そんなあなたのどこを信用しろというの?」
え?シビルってこんなにはっきり物を言う人だっただろうか?
「薄っぺらい言葉だけで愛もなく誠実さもないあなたをどうしてわたしだけが愛さなくてはならないの?
冗談じゃないわ。わたしの心はわたしのものよ。あなたに捧げていた心があったとしてももう灰となって消えたわ。わたしが死んだ日にね」
まるで目が見えてるように合わせてくるシビルにギクリとして動揺した。死んだ?シビルは死んだのか??
違う。そうじゃない。シビルは生きてる。だからやり直せる。これからもずっと俺の隣にいるべきなんだ、と声を上げようとしたところでシビルの顔が男の手で隠される。
隠したのは勿論死人使いだ。
「シビル!違うんだ!俺達はちょっと道を間違えただけで結ばれる運命だったんだ!だから俺を助け」
シビルに気を取られたせいで隙ができた彼は仲間に羽交い締めにされ妻に首を噛まれた。吹き出す血に悲鳴をあげ、バランスを崩すとそのまま倒れる。
「嫌だ!死にたくない!死にたくない!俺は英雄になるんだ!そしてみんなから称えられて、俺の隣には美しいあがっ……」
そこへ老人やどこかの兵士も襲いかかり彼を覆い隠す。
はじめは暴れていた手足もどんどん弱まり、悲鳴に混じってぐちゃぐちゃと咀嚼音が響いたが、そのうちその悲鳴も聞こえなくなった。
残ったのは死人が食べる音と肉を食いちぎられた反動で揺れる足だけ。
「なにが英雄だよ。婚約者の窮地に駆けつけない英雄なんて腰抜けと同じじゃないか。大勢を助けるか愛する人を助けるか。そのどちらかができなきゃ英雄なんて夢のまた夢……ってもう聞いてないか」
冒険者を名乗る価値もなかったな、と呟くとシビルを包み込んだまま呪文を唱える。
消えるほんの数秒前、シビルはロバートがいる方を見て冥福を祈るように目を伏せた。
「……さようなら」