君はいいこだね。
1人の時間に自分を見つめる、そんなお話です
「君はいい子だね」
”私”はよくこの言葉を言われる。
「君は優しいね」
クラスメートから、家族からそんな言葉をかけられる。
笑顔で周りの人たちは言ってくれる。
「そんなことないよ」
”私”の返事はいつだってそう答える。本当にそう思っている。
いい子で優等生で優しいようにふるまうのは正直”簡単”だ。
いつからだろうか、いい子でふるまいようになったのは。簡単で楽でそしてしんどい。
私というものの表面にいい子の粘土を張り付ける。まるで自分を隠すように、いや見つからないように。
優等生でいるのは簡単だ。ちゃんと宿題して予習復習そして数時間の勉強、たったこれをすればいい。たったこれをしてれば周りのみんなが評価してくれる。評価してくれるはず。
学生の間のいい子も似たようなもの。いつもの”私”をしていればみんなが”私”を見てくれる。
簡単で楽。”私”の中の私さえいなければ。
いい子で優等生の”私”に私が時折ささやいてくる。
――私でいなよ、と。
確かに優等生でなくても必ずしもいい子でなくてもいや、そうでないほうがもしかしたら周りから評価されるのかもしれない。
でも……怖い。
”私”に隠れている私が見つかるのが怖い。周りに見られることが怖い。
いい子として思われていた”私”がもし崩れたらどう思われるのだろう。
無視される?嫌われる?軽蔑される?
どうして多くの人は自分で居られる?もしその自分を見捨てられたらどうするの?
これまで育ててくれた親が悲しむ?信頼してくれていた先生を裏切ることになる?
いい子の”私”が評価されて”私”が築いたものを壊すのはだめだ。
”私”が築いた……もの……?
クラスの中で優等生でいい子のポジションを持っていたのに仲のいい友達なんていない。休日遊ぶような、悩みを打つ開けて一緒に悩んでくれるそんな人たちなんて……いない。
私に気づいてくれる、私を見てくれる人なんて……。
でも、もし私に気づいてくれる人が私に張り付けた”私”を壊してしまっても私は”私”で居続けれるだろうか。
私を見てくれた人以外にはいい子で、優等生で居られるのだろうか。
もし崩れるのなら崩れていく”私”を私は見ることができるのだろうか。
その時笑って安心していられるだろうか。
そうか。周りが私に気づくことでも、私が周りを怖がっているのでもないんだ。
”私”が私を怖がっていたんだ。
なら私から外の景色が見れないようにもっと”私”を大きく張り付ければだけ。
私の声が聞こえなくなれば”私”は私になれる。そうすればずっとみんなから評価される”私”であり続けられる。
心配もかけないし周りの人たちを裏切るようなこともない。
だって私はいい子だから。
おやすみなさい