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箱庭のアレクシア

作者: はじめアキラ

「むむむむ……」


 アレクシアは風呂場の鏡の前で呻いた。背中を確認しようとくるくるぐるぐる回るたび、金色の髪の毛が視界を遮るのが非常に邪魔である。ただでさえ、自分の背中というものを鏡で見るのは難しい。やっぱり髪の毛は切ってしまった方がいいのではないか、と思えてしまう。

 残念ながら、自分達は髪の毛ひとつ切るのにも許可が必要で、もっと言うとその許可が降りることは滅多にないと知っている。そろそろぼさぼさになってきたことだし、毛先を揃えるくらいが関の山だろう。


「むむむ、むむむむ!」

「ちょっとアレックス!いつまでシャワー室占領してんの。お祈りの時間まであとちょっとなんだから早くしてよ!」

「うー……」


 すりガラスのドアをドンドン叩かれて、アレクシアはため息をついた。やっぱりダメなものはダメらしい。十歳の誕生日をようやく迎えたのだ、そろそろ背中に羽が生えてくる気配があってもいい頃だと思ったのに――残念ながら、そう簡単なことではないようだ。アレクシアの背中は、相変わらず白くつるりとしたまま。翼が生えてくる時は背中がでこぼこしてくるらしいと聞いたことがあるので、まだ当分自分にそのしるしはないということなのだろう。

 諦めてシャワーをざっと浴びると、アレクシアは狭い個室を出た。外では順番待ちをしていた友人のエリザがが、タオルを持って怖い顔で佇んでいる。


「声、外まで聞こえてたわ。まるでシャワー室の中で犬が唸り声でも上げてるみたいだった!」


 アレクシアにバスタオルを投げつけて、エリザが言う。


「どうせ、翼が生えてこないかと思って確認してたんでしょ。順番待ちしてる私のことも忘れて!」

「だってー……」

「だっても何もないわよ。だいたい、翼が生えてくる時期には個人差があるって先生も言ってたじゃない。十歳過ぎてすぐ翼が生える子なんか滅多にいないし、大抵の子は翼が生える前に修行に出ることになってるんだから」

「そうだけどお……」


 待たされてイライラしているのに、それでもアレクシアの髪の毛や体を拭くのを手伝ってくれる彼女は律儀である。わしゃわしゃとタオルでもみくちゃにされながら、アレクシアは告げた。


「エリザも見てるでしょ、先生のあの綺麗な翼!早くあれが自分のものにならないかなって夢見るのは当然じゃない?まあ、翼が生えても、この庭園じゃ絶対に飛んじゃいけないって言われてるけど」


 この“ミストレート園”にいるのは、全員が天使の見習いたちだった。見習いなので、まだ背中に翼がなく、見た目は人間とさほど変わらないのだが。自分達はみんな神様から特別に作られた存在で(だから、人間と違い両親などいない)、このミストレート園で生活し、やがて天使として立派にお仕事をするのだという教育を受けている。ここで数年間過ごした後、天使としての資格を得るために修行に旅立ち、やがて神様のところで世界を動かす仕事をするのだそうだ。

 いつ修行に出るのかは、はっきりとは決まっていない。

 ただ、十歳になる前に修行に出る子も多い中、アレクシアが焦りを感じるのは至極当然のことであるのだった。自分は未熟だから、なかなか修行に出して貰えないのではないか。天使の羽が生えてくるようなら、急いで修行に出してくれと先生にお願いしに行くこともできるのに、と。

 十歳を過ぎても園に残っている子供はいるし、中には十八歳くらいでやっと修行の機会が巡ってきた子もいるとは知っている。十歳程度で焦るにはまだ早いですよ、と先生はきっと言うだろうとわかっていた。それでも、気持ちはまた別の問題なのだ。

 自分達のクラスのポーラ先生は、既に修行を終えた立派な天使の一人である。

 園の中の決まりで、此処では翼を広げて空を飛んではいけないらしいのだが、それでも彼女の背中の翼が美しくキラキラと輝いているのは何度も目にしているのだった。園の外では、その翼で自由に空を飛びまわっているとも聞いている。憧れるのはもっともなことだろう。修行前までは翼がない天使達も、修行を終える頃には彼女のように大きく立派な白い翼を携えているのだという。残念ながら修行に出た後園に戻ってくるのは、“天使見習いの指導者”という仕事を与えられ、天使の先生になることが決まった者達だけなのだけれど。


「まあ、綺麗な翼なのは確かよね」


 エリザは頷いた。


「でも、忘れちゃだめよアレックス。あの翼を私達天使が与えられるのは、あくまで神様と下界の人間達の役に立つため。自由に好き勝手にどこにでも行っていいってことじゃないんだからね」

「わかってるわよエリザ。役目を違えた天使は、神様にきつーいお仕置きをされるんでしょ。中には地獄に落とされる子もいるって」

「そう。地獄って、本当に恐ろしいところなんだからね。聖書通りならそう……一切ご飯を食べさせてもらえないとか、生きたまま火に焼かれるとか、十字架に貼り付けられてカラスの餌にされるとか、毛虫やゴキブリが大量に入った桶に鎮められるとか……世にも恐ろしい責め苦がたくさん待ってるんだから。嫌でしょ、そんなの」

「嫌嫌嫌、絶対嫌ー!もう、想像させないでよエリザ!」


 聖書、と聞いてアレックスは内心青ざめていた。この園では基本的に、聖書を教科書とし勉強させられることになる。文字の読み方や書き方、天使としての在り方や道徳などなど。神様の教えは絶対で、天使はそれを忠実に守り、人間達を導くのが仕事だ。要するに、聖書の内容を覚えるのは天使としては基本中の基本なのである。

 残念ながら、アレクシアはお世辞にも勉強が得意な方ではなかった。予習復習をきちんとやっておかねば、日頃の授業についていけなくなってしまう。わかっていても、授業が終わるといつも眠くなってベッドに沈んでしまうのだ。シャワーを朝に浴びているのもそのせいだったりする。夜寝る前に風呂に入っておけば、朝にもう少し余裕をもって行動できるというのに。


――ど、どうしよう。近くテストやるって言ってなかったっけ?試験範囲も覚えてないわ……!


 アレックスの様子に、何かを悟ったのだろう。エリザはため息をついて言ったのだった。


「……この間約束したわよね?次に赤点取ったらもう助けないわよって」

「ええええエリザー!!」


 ああ、テストなんて、勉強なんて人間だけがやればいいのに。

 どうして天使の世界でも、当たり前のようにそんな試練が存在しているのだろうか!




 ***




 自分達の世界では、神様が四人ほどいる。一番上の神様がセヴァンナで、教えの名前も“セヴァンナ教”というらしい。この世界を最初に作った神様であり、神様が最初に作った三人の人間が残る三人の神様に転生した――ということだというのだ。

 女神・セヴァンナと、その三人の従者である副神。自分達天使見習いは、最終的にその四人のうちの誰かの元へ修行に出ることになるのだという。

 修行の内容は、自分の番になるまでは教えて貰えない。正確にはこの園を離れて修行の場所に連れて行かれて、初めて自分がどの神様の元につくのか、どんな修行をするのか教えて貰えるということらしかった。そのせいか、園にいる天使見習いの子供達の間では憶測が飛び交うことも少なくない。例えば。


『天使の修行では、とにかくひたすら神様の泉から水を運ばされるんですって。で、雲の上からそれを下界に落とすと、その場所に雨が降るの。どの地域に雨を降らせてどの地域を晴れにするか、その練習をさせられるんだって話』


 であったり。


『神様の庭園には、禁断に苺が大量に生っているらしいの。ほら、神話に出てくる人間たちが食べてしまった恐ろしい木の実にそっくりなんですって。本当に美味しそうで、甘い匂いがするものだから、天使にとっても大きな誘惑となる。でも絶対食べちゃいけない。その誘惑の果樹園を、ひらすら掃除させられるのが修行なんじゃないかって……』


 であったり。


『人間の世界に一度降ろされて、人間に交じって生活するように命じられるらしいわ。人間の生活を勉強して、今の人間がどんな文明を営んでいるのかを分厚いレポートにまとめて神様に報告するの。それが修行なんですって』


 であったり。

 残念ながら、どれ一つとっても根拠はない。というのも、修行から戻ってきたのはこの園で“先生”として就職することが決まった天使ばかりであるし、その先生達もどんな修行をしたのかは絶対に教えてくれないからだ。神様にきつくきつく、秘密を守るように言いつけられているのだという。


「私は、“禁断の苺”が一番有力情報だと思ってるの」


 眠気を誘う授業の後の、休憩時間。

 廊下を歩きながら、エリザはアレクシアにそう告げた。


「天使たるもの、人間をより良い方向に導いていかなくちゃいけないわけでしょ?なら、欲望にすぐ負けるような天使は天使失格だわ。欲望や願望をいかに抑えて、天使としての清廉な魂を保つことができるか?それを試される修行に違いないわ」

「欲望かあ。……どうしよう、それだったら私、困るわ。苺大好きなんだもの。普通の苺でさえ、見ていると涎出てきそうなのに」

「アレックスってば。それじゃあ、いつまでたっても修行に呼ばれないわよ。欲望を抑えこむ術を身につけなくちゃ」

「ええ。そんなのどうすればいいの……?」


 欲望を抑え込む。言うほど簡単なことではない。

 アレクシアは窓の外をちらりと見た。広いグラウンドでは、男の子の天使見習いたちがボールを蹴って遊んでいる。その向こうには青々と広がる森がぐるりと敷地を取り囲んでいて、その森をさらに高い高い塀が取り囲んでいるのが見えた。アレクシア達がいまいるのは建物の三階で、塀までは相当距離があるはずだというのに、塀の向こうに何があるのかは全くうかがい知ることができない。天使を穢れから守るためのバリアーのようなもの、だとは聞いている。壁の向こうには、下界の穢れた空気や恐ろしい獣がうようよしているというのだ。

 空を飛ぶことができたら、あの壁の向こうがどうなっているのかを見ることもできるのに、なんて。そんな風に夢想してしまうのもまた、欲望の一つだろうか。そう思えば、欲望と呼ばれるものは当たり前のように自分達を取り囲み、支配してくるものだと感じる。あの壁のように、乗り越えるのはそう簡単なことではない。


「欲望を抑え込む方法は一つですよ」

「!」


 かつん、とハイヒールの足音が鳴った。見れば背の高い眼鏡の女性が、にこやかに微笑みながら歩いてくるところであった。

 自分達の担任教師である、ポーラ先生である。その背中には、折りたたまれた立派な白い翼。自分達にとっては、まさに理想とする天使そのものの姿だろう。


「聖書にも書かれていましたが。天使と人間の最大の違いは、己の欲望よりももっと大きな願望を持つことです。つまり、神様に仕え、神様の教えを広め、世界を平和に保ちたいという願望……そして使命感」

「ポーラ先生、その使命感を持つと、欲望を抑えることができるのですか?」

「その通り。苺を食べたいという欲求より、“苺を食べてしまったら天使としての役目を果たせなくなる、それはいけない”という使命感と恐怖心が勝れば……人は欲望に打ち勝つことができるのですよ」


 どうやら、自分達の会話を途中から聞いていたらしい。恥ずかしくなって、アレクシアは俯いた。


「私……お恥ずかしいです。まだまだ、欲望を抑えきれません。お腹がすいたらすぐご飯のことを考えて授業が頭に入ってこれなくなるし、なんならつまみ食いをしてしまったこともあるくらい」


 他のことは我慢できても、食欲だけはどうしようもない。反省するアレクシアの肩を、ポーラは優しく叩いた。


「いいのですよ、少しずつ少しずつ直していけば。……ではこう考えるのはどうでしょう?食欲に耐えて授業を一回、きちんと聴くことができたら……立派な天使になるための修行に出られる日が、一日早まる。二回できたら二日、三回できたら三日。立派な天使になって使命を果たす喜びを思えば、耐えられることが一つずつ増えていくはずです」

「確かに!先生、さすがです!」

「よく励みなさい、アレクシア。エリザもね。勉強よりも何よりも、大切なのは立派な天使になろうとするその心がけなのですから」

「はい!」


 やっぱり、先生は凄い。本物の天使は貫禄が違うし、何より説得力がある。


「嬉しい……先生に応援されちゃった!」

「うん、良かったねアレックス!」


 廊下できゃっきゃと声を上げる私達を、立ち去る先生はにこにこと見つめていた――。




 ***




 自分は、嘘吐きだ。

 耐え切れなくなり、“それでは先生はこれで”と立ち去ることを選んだポーラ。自分は、最後まできちんと“先生”でいられただろうか。彼女たちが理想とする天使を演じ切れただろうか。

 年々、この役目が耐えられなくなっている。

 何から何まで嘘だらけのこの園で、先生として、生徒達に嘘ばかりを教える生活が。


――何が、立派な天使、よ。


 自分の左肩を、ギュッと強く掴む。この背中には何もない。ただ、“天使の羽根を模した飾り”をくっつけた服を着ているだけだ。本当に飛べるはずもない。園の中では飛んではいけないルールだと言って、子供達を納得させてはいるけれど。

 天使などいない。子供達は天使見習いなどではない。ただ端に、親から捨てられた子や売られた子を集めてきただけ。全員ただの人間だ。

 修行などない。彼らの末路は奴隷か、臓器をバラバラに引き抜かれて売られるかのどちらかのみ。此処を出て戻ってくることができるのは、悪魔に魂を売って“教師”になることを選んだ人間だけである。

 神様などどこにもいない。

 女神、セヴァンナ。副神のチャーチル、ジョンソン、ステファニー。全て全て、自分達の“取引先”の主人の名前に過ぎない。彼らは誰ひとりそれを知らないのだ。自分達は天使でいずれ羽根が生えてくると思っているし、修行に出されれば神様に仕えるお役目が待っていると信じている。自分達が、そう教え込み、洗脳してきたがゆえに。

 高い壁は彼らを守るためなどではなく、彼らの脱走を防止するための鳥籠でしかない。


――嘘吐き。此処にいる大人は、嘘吐きばかり。……自分も同じように捨てられた子供だったくせに……私も結局、嘘吐きの大人になってしまった。


 この世界に神様も天使も悪魔もいない。

 いるのはただ、悪魔よりも最低な人間達だけ。

 許しを請いたくなる情けない喉を抑えて――ポーラは今日も、天使の仮面を被って歩くのだった。

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