(72)狐と狸
ダミアンと呼ばれた男は、不快感を顔に出したまま、向かいの椅子に座った。薄い茶色の髪を整髪料で後ろになであげているせいか、根元にちらほらと白髪があるのが目についた。
「当商業ギルドにどのようなご用件でしょうか。」
よくできましたと言わんばかりの笑顔を見せて、セレネが口を開いた。
「シプランに冒険者ギルドの出張所が出来たのを知っているかしら。経費の窓口をこちらの商業ギルドに作りたいのですけれども。」
セレネの言葉に、ダミアンはゆっくりとあごをなでる。
「確か海沿いにそんな名前の小さな村がありましたね。そんなところに冒険者の仕事があるとは思えないんですがね。」
「あら、領主さまから聞いていないのかしら。シプランで魚が取れることが分かったので、保冷箱に入れて王都まで送る計画が進められているのよ。」
「魚だって?」
ダミアンはわざとらしく大きな声で笑う。
「海には魔物が大量にいるから、どこも魚なんてとれないはずだ。わざわざそんな嘘をついてまでここに来るとは。ギルド長になれなかった意趣返しか。」
嫌味を言われてもセレネは一切態度を崩さずにこやかに笑った。
「そんなことをしても私には何の得もないわ。それともそんなことも分からなくなってしまったのかしら。」
ダミアンは顔を赤くしてセレネを睨みつけるが、セレネは平然とお茶を飲んでいる。
怖い。本当に怖い。過去にどれだけの確執があったのか分からないが、よっぽど二人は仲が悪かったに違いない。
リーズはひたすら気配を消して小さくなっていた。
ダミアンはしばらく黙った後、椅子に座りなおしてにやりと笑った。
「じゃあ、魚を持ってきてもらおう。そうしたら窓口開設を許可する。」
「そうね。確かに現物を見てもらう必要はあるわね。ただ問題があって……」
セレネが困ったように首をかしげる。
「ふん。これからとれる予定だとかそんなことじゃないだろうな。」
「違うわ。シプラン村には馬車がないの。だから魚があっても運べないのよ。保冷箱に入れればそれなりの重さになってしまうから。ただ、馬車は高いし、窓口が認可されないと買うことはできないわね……。」
ダミアンはその言葉を魚を運べない言い訳だと思ったようだった。
「それならギルドの馬車をタダで貸してやろう。その代わり期限は3日だ。3日たっても魚をもってこられないようなら、冒険者ギルドの経理係は嘘つきだから信用するなと商業ギルド本部で報告させてもらう。」
「あら、その取引ではこちらが不利だわ。そうね。魚を持ってこられたら馬車はいただけるというのなら考えてもいいわ。」
ダミアンは小さく舌打ちをすると、手を差し出す。握手すれば、契約の完了だ。しかし、セレネは手を出さない。
「今の話を文書にしていただけるかしら。そんなことは聞いていないと言い張られたら困るもの。ねえ?」
セレネは笑いかけるが、目は笑っていない。ダミアンは忌々しそうにセレネを見た後、荒々しく立ち上がると部屋を出ていく。契約書を準備しにいったのだろう。
扉が閉まる音がして、やっとリーズはほっと息をついた。
「そんなに縮こまらなくても大丈夫ですよ。」
セレネの雰囲気が元に戻る。
「商人の取引ってこんなに怖いんですね。」
リーズの言葉にセレネはふふっと笑う。
「そのおかげで馬車がタダで手に入るでしょう?かっとするとちゃんと裏を取るのを忘れてしまうのがあの男の悪い癖なのよ。領主に探りを入れればすぐ分かることなのに。」
「今の間に裏を取ったりされたら、契約はなしになりますかね?」
「そうね。あの男が成長していればそうするでしょうけども。私への気持ちが態度に出てるところを見ると、まだまだでしょうね。冒険者ギルドの窓口開設を断ったりしたら、それこそ大問題なのに。」
どういうことかとリーズが聞く前に、ダミアンが契約書の紙を持って現れた。
「確認してもらおうか。」
まだ書かれたばかりなのがわかる文字を触らないように気を付けながらセレネは時間をかけてゆっくりと読んだ。
「問題はないようね。書くものを貸していただける?」
ダミアンから羽根ペンを受け取ると、セレネは自分の名前をさらさらと書く。一瞬名前が光った。
「光った?」
思わずあげたリーズの言葉に、セレネは羽根ペンを見せる。
「この羽根ペンは魔道具なの。これで書けば、名前を変えたり契約の内容を変えたりできなくなるのよ。」
不正防止というところだろうか。
「その通り。契約違反の場合は、国に申し出て慰謝料の支払いも請求できる。もし魚を持ってこられなければ、この契約書は国へと送らせてもらうからな。ああ、馬車はしっかりと点検したものを渡そう。馬車の不具合があったと言われても嫌だからな。」
「あら、親切なのね。親切ついでに御者を手配していただけるかしら。私もリーズも馬車の運転はしたことがないのよ。その分はしっかりお支払いするわ。場合によっては冒険者ギルドと契約してもらうから。」
ダミアンはしばらく考えていたが、妥当な提案だと思ったのか頷いた。
「分かった。さすがにすぐには無理だから、しばらくぶりのカーセルを見ていったらどうだ。夕方前には準備ができているはずだ。」
「そうね。両親の墓にもずっと行ってなかったから、たまには親孝行をしてこようかしら。」
両親の話が出たとたん、ダミアンがびくりとして視線をさまよわせた。
「その、両親のことについては……。」
「ダミアン。仕事と私の家庭の事情は別だと言ったでしょう。あなたがそこに引け目を感じることはないわ。」
ダミアンの言葉をさえぎり、セレネがきっぱりとそう告げると、それ以上ダミアンは何も言わなかった。
商業ギルドは今で言う銀行のように、お金に関する業務を一手に引き受けています。王都で預けたお金を別のギルドで下ろすことも出来ますが、それには手続きが必要になります。




