お兄様知っていましたか?ハグをすると1日のストレスの3分の1が解消されるらしいですよ?
「へえ、そりゃ勉強になる」
「だからはいどうぞ! お兄様!」
「……なにが?」
「見て分からないのですか!? ハグしてあげると言っているんです!」
「しないけど」
「納得できません!」
俺の妹、夙川香蓮《しゅくがわかれん》はブラコンである。
なんて言えば誰もがこう口にすることだろう『お前が言うな』と。
そんなことぐらい俺だって分かっている。だが言わざるを得ない、17になった妹が俺を『お兄様』などと呼んで慕うなど夢であってくれと何度思ったことか。
「私は思うのです、お兄様は毎日仕事でお疲れだと」
「いや……そんなに疲れていないんだがな」
「毎日上司に小言など言われてはいませんか? いえ、もしそうなら私は絶対に許しませんので事務所総出でその方を潰しますが」
「香蓮、そんなこと間違っても言っちゃ駄目だぞ」
「まあお兄様の動向は逐一調さ――お聞かせ頂いているので何も今の所ご心配はないのですが」
「兄としては妹が心配でならないんだが?」
「ですが!」
明らかな問題発言をしたにも関わらず、香蓮は俺に向かってビシッと人差し指を立てるとこうまくし立てられる。
「明らかに疲れているのは事実な筈です! 最近の帰宅時間を考えてみて下さい! 何時何分何秒地球が何回まわった時に帰ってきているんですか!」
「大体八時くらいか」
「どう考えても遅過ぎます! 働き方改革が叫ばれる今日に! そんな時代に逆行するなんて異常としか思えません! 狂喜乱舞です!」
「そうか、嬉しいのか」
そうは言っても仕事に慣れてくればその分任せられる業務も増える、それに慣れるまでまた時間を要するのだから仕方がないというもの。
そのサイクルにも対応出来るようになれば定時退社も出来るんだろうが……それでも八時は早い方だと思うのは気のせいだろうか。
「嬉しくなんかありません! だからハグなのです! えいっ!」
「おっと」
「何故避けるのですか!」
「いや危ないと思って」
「こんなに可愛い妹を前にして危ないとはなんですか! お兄様はパンダが抱きついてきても危ないと言って避けるのですか!」
「避けるだろ、捕食されるわ」
せめて犬か猫に例えろ、何でよりによってパンダなんだ、熊猫だぞ熊猫。
「いや、確かに香蓮は可愛いと思うぞ? なんたって夙川家の誇りだからな」
「えっ……お、お兄様にそんな……光栄でございます……」
両頬に手を当ててクネクネするな。
とはいえ、シスコンと思われるかもしれないが贔屓目なしに香蓮は可愛い。
手入れが行き届いた長い黒髪をローツインテールにし、大きな瞳は宝石でも散りばめられているのかと言うほどに輝き、鼻筋も通った端正な顔立ち。
その文句無しの美貌から分かるかもしれないが、香蓮は子役として今に至るまで俳優として活動しているのである。
「……はっ! そ、そう言って下さるのはとても嬉しいですが、それで誤魔化そうとしたってそうは私が降ろしませんよ!」
「可愛いと思っているのは事実なんだがなぁ」
「は――……で、では結婚して下さい」
「いや、せめて付き合うとか、もう少し過程があるだろ……」
「では付き合ってはくれるのですね!?」
「鼻息が凄い」
いや大前提としてする訳ないだろ、実妹だぞ実妹。
香蓮は昔からこんな感じなので慣れてはいるのだが、しかしこの要因を作ってしまったのは俺のせいでもあり、正直困ってはいるのである。
たまに聞く話ではあると思うのだが、元々香蓮は子役になりたくてなったタイプではない。
いわゆる人と話すのが苦手で、それが克服出来ればと劇団に入れた所才能を見出したタイプなのだ。
だが家族以外とは中々話が出来ない性格は直らず、しかし才能は伸び続け、俺がよく親の代わりに付き添い、面倒を見ることも多かった結果この有様。
今でも初対面の人には愛想は壊滅的らしいし……兄離れは急務である。
「香蓮、気持ちは嬉しいが現実には法律の壁というのがあってだな」
「お兄様を愛する気持ちを前に法律の壁などハリボテも同然です」
「人類が積み重ねた法の歴史をハリボテと申すか」
「それに言わないだけで皆ヤってます」
「ヤってる訳ないだろ」
「ならせめてハグぐらいは構わないではないですか!」
ぷりぷりといった表情をみせぷんすかとでも言いたげに地団駄を踏む香蓮。
いや……健全な異性同士ならハグくらい普通とは思わなくもないが、相手は香蓮である、法律を紙切れと宣う相手に警戒するなという方が無理だ。
「大体ハグなど外国では挨拶代わりです!」
「そりゃ外国ではそうかもしれんが」
「そうでしょう! ですからキスも挨拶代わりですよね! んー……」
「おっと」
「んぎぎぎぎ……! 何故アイアンクローをするのですか! お兄様は私の挨拶すら拒否するんですか!? 非礼です!」
「いや、別に今挨拶をする必要もないし」
「ぐぬぬぬぬぬ……な、中々強情ですねお兄様……!」
「実妹にキスをされそうになったら強情にもなる」
大体チークキスってのは頬にするもので、しかもするフリだというのに、香蓮は完全に唇を奪いに来ていたのだからどっちが非礼か分かったものではない。
「そもそもハグをすればストレスが軽減するという話だったのにいつの間にキスとかいう話にまで発展しているんだ」
「ハグなら3分の1、キスなら2分の1軽減されますから、どちらを優先すべきかは明白です」
「そんな話聞いてないんだが」
「なお舌を入れると全回復します」
「ベホマかよ」
「とにかく! 私はお兄様をギュッとしたいのです!」
俺を癒やすという話から自分の欲望に変わってるんだが。
まあ、俺を癒やすなど口実であるというくらい今更過ぎる話ではあるだけに、尚の事安々と話には乗れないのだが。
「お兄様考えてもみて下さい、ハグはタダですよ!? ガッとしてギュッとするだけです! これ程までにお得な話ありません! 減るもんじゃなし!」
「減りはしないけど増えはするだろう、悪い意味で」
「な――! な、なんて酷いことを……お兄様は現代社会に住まう悪魔に心まで喰われてしまったのですか!」
「いや働く前からそんなに変わっていないと思うぞ……」
「そんな事はありません! 昔はもっとお褒めの印に頭をなでなでして下さったり、高い高いをして下さったりして下さいました!」
「後半は何歳まで遡っているんだ……」
しかも前半に関しても記憶の限りでは中学生からはしていなかった筈、どう考えても数年分の記憶が抜け落ちてギュッとなっている。
ううむ、それにしても今日はやけに引かないな……。
「よよよ……ここまで私のセラピーを受け入れないとは思っていませんでした――こ、こうなったら、この手だけは使いたくありませんでしたが……」
怒り心頭というか何とも歯がゆい表情を見せた香蓮はリビングを飛び出し自室に向かうと、暫くしてから冊子を持って戻ってくる。
「これを見て下さい!」
「ん……? それは今度やるドラマの台本だな」
実は香蓮は来年の夏頃放送のドラマにヒロイン役で抜擢されたのである。
子役時代はよくドラマにも出ていたのだが、中高生になってから主役級を勝ち取ったのは初めてであり、それはもう俺も喜んだのではあるが――
「クランクインはまだだった筈だが、それがどうかしたのか?」
「このページを御覧なさって下さい!」
香蓮がずいっと突き出してきたのでページに目を通す――と、ある部分に目を奪われそして一瞬だけ硬直してしまう。
「お兄様……今動揺しましたね?」
「……はて、なんのことかさっぱり分からないな」
香蓮の鋭い観察眼が俺の表情の変化を的確に見抜いていくる。何とも不敵な笑みがすぐ側まで来ていたので思わず顔を背けた。
「お兄様、私はこの作品でキスをする予定なのです。それも相手は今売り出し中の若手イケメン俳優――お兄様、もう一度言いますよ、私はこの唇貞操を今売り出し中の若手イケメン俳優に汚されてしまう危機なのです」
「言い方が悪すぎるだろ」
「ですがキスをするのは事実です!」
「ふ……ど、どうせキスはするフリだろ」
「確かにキスはフリでも良いとマネージャーさんに言われております。しかし何も言わなければ確実に唇を重ねることになるでしょう」
「ほ、ほう……俺に脅しを掛けようと言うのか」
「私がお兄様に脅しを掛けようなど滅相もございません。第一私も何処の馬の骨かも分からない男とキスなどしたくありません」
「何処の馬の骨かは分かるだろ」
「私はキスをしたくない、お兄様はキスをして欲しくない、つまり私とお兄様はキスをしたい、そういうことなると思いませんか?」
「そんな必要十分条件はない」
だが……俺も香蓮には自立をして欲しい(経済的にはしているけども)と思う反面、縁もゆかりも無い男とビジネスとはいえキスをするのは複雑ではある。
何だかんだ言っても妹の成長を間近で見てきたわけだからな……父親が娘の結婚に反対する気持ちというのはこういうものなのか……。
おのれ……自分のキスを盾にキスを要求してくるとは……仕方あるまい、俺もこの手は使いたくなかったが――
「……香蓮よ」
「! お兄様! やっとキスをして下さるのですね!」
「ここで俺が拒否をしたら、香蓮はキスをするんだな?」
「えっ、そ、それは……することになると思います……」
「そうか……俺を当て馬にして香蓮は他の男とキスをすると」
「!」
「いや、それも自然の摂理ではあるのか、人というのはいつか親元、いや兄元を離れ一人の女となる。それが大人になるということだ」
「お、お兄様……私はそんなつもりは――」
「いいんだ香蓮。妹の成長を間近で見ると、嬉しい気持ちと同時に――おっと」
わざとらしく天井を仰ぎ目頭を押さえるフリをする。
そしてちらりと視線を香蓮に――――が、よく見ると香蓮はハリセンボンの如く頬を膨らませ、半分涙目になっているではないか。
まずい、やりすぎた。
「な、なーんて冗談は置いといて――」
「うう~……! わ、私がお兄様以外の男の人と密接な関係になるなどある筈がございません!! で、ですがお兄様は、お兄様は……!」
「お、落ち着け香蓮――って、え……? 俺がどうかしたのか?」
「しらばくれったって無駄です! お、お兄様は別の女とちんちんかもかもしているではありませんか!」
ぷんぷんといった感じで怒る香蓮は妙な言葉を口走ると俺に対し一枚の写真を突き出してくる。
そこに映るのは俺と、一人の女性、いやいつの間に撮影したんだよ……。
「お兄様はこの悪い泥棒猫のことしか考えていないのです! だから私が癒やしを提供しても断るんです! そうやっていつかお兄様は私の前から――うう……」
「は……? いやこの人は会社の先輩なんだが」
「うっうっ……え? か、会社の先輩……ですか?」
「OJT――というか教育係の人だな。この写真は多分最終の同行で俺の仕事がちゃんと出来ているかの確認している時の奴だろう」
「へ……で、ですが会社の同僚でもそういう関係にはなる筈です!」
「ねえよ。大体この人既婚者だぞ」
「ぐ……ふ、不倫から燃え上がる恋というのもあります!」
「香蓮、あのな……」
「むー……!」
事実無根だというのに香蓮の怒りは中々収まる気配がない。
しかしどうにも変だと思ったらそういうことか……。
香蓮の過剰な愛はどうにかしないといけないとは思いつつも、他人に迷惑がかからないのであればと黙認していた部分もあったが、矛先が勤める会社の人間へと向けられるのであれば話は別である。
何より女優として輝き始めた香蓮をスクープなどで賑わす訳にはいかない――――今回ばかりは仕方がない……か。
「……分かった。その件に関しては後日潔白を証明するとして――香蓮を心配させてしまったのは事実だし、今日は素直に言うことを聞くとしよう」
「え――? ほ、本当ですかお兄様!?」
「言われてみれば全く疲れが溜まっていない訳じゃないしな、たまには香蓮の厚意に甘えさせて頂くとしようじゃないか」
「~~~~!!! お兄様ぁっ!」
「ぐえっ」
そう言うやいなや猛烈な勢いで飛びかかってきた香蓮に、危うく椅子から転げ落ちそうになるが何とか抱えて持ちこたえる。
「お兄様愛しております! お慕いしておりますぅ!」
「か、香蓮……あんまり暴れるな……お、落ちる……」
「駄目です! お兄様を癒やす為なのですから! むぎゅう~~~~!!」
「か、香蓮……く、苦しい……」
「はぁ……お兄様、やっぱりハグをするとストレスが和らぎますね!」
「お前が和らいでどうする」
しかしまあ、悪い気がしない訳でもない。人肌が恋しいとまでは思っていないが、いざやってみると不思議と心が落ち着くものはある。
ただ……何だかんだいっても香蓮に甘いな俺も……妹を想うのであればやはり自立の方へと促していかなければ――少し自責の念に駆られていると。
頬につんと、柔らかい感触が走る。
しまったと思った時には遅し。俺からさっと離れた香蓮は口元を両手で抑え、少し頬を赤くしながらいたずらっぽく笑っているのであった。
「香蓮……お前って奴は――」
「あっかんべー! です! 絶対にお兄様は誰にも渡しませんから!」