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ぜったい、また会いに来るから  作者: 如月月 月
第一章 忘れじの想いとバレンタイン
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四話『君がいる』

 ◆笠間秀司視点◆


 バレンタインまでは、という取り決めがなされて。その後しばらく、姫ちゃんは俺から離れてくれなかった。


 無理もない。あんな話をした後だ、離れたくなくなるのは道理だろう。


 とはいえ、それが一日中続くわけでもない。数十分ほど会話もなく時間がすぎれば、落ち着いた姫ちゃんが、〝しがみつく〟以外の行動を始めた。


 ――まず、俺の首に回した腕に力を込めて、俺の肩に口を埋めて頭をうりうり。


「えっと、くすぐったい……」

「…………」


 やめてほしいな、というやんわりとした注意のつもりで、俺が姫ちゃんに言うも。彼女は無反応で、俺の反応を意に介さずその行動を続けた。


 やがて満足したのだろうか、肩からは顔を上げて。今度は俺の側頭部に、姫ちゃんは頬擦りをするように頭をうりうり。


 なんとなく、じゃれついてくる猫を想像してしまった。


「……知らない匂いがする」


 数秒の後、姫ちゃんが言った。まだ完全には立ち直れていないのか、些か沈んだ声色である。


「…………」


 ……完全に被害妄想なのだが、浮気を指摘された彼氏のような心境になってしまった。


 いや、「女の匂いがする」という意味ではないはずだ、普通に考えて。そもそもこの部屋に招いた女性は姫ちゃんが初めてだし、昨日だって女性と触れ合ってはいない。


 単に、新しい家の匂いなどが昔と違う、という意味だろう。


「姫ちゃんも……あれ。これ、もしかして香水?」


 そう言う姫ちゃんだって昔と違う――と言いかけて、俺はそれに気がついた。


 言葉で言うのは難しいのだが、女の子特有の謎の甘い匂いではない、かと言って柔軟剤なんかの匂いでもないような、不思議な匂いを感じたのだ。


 いっそ香水だったりするのか……なんて当てずっぽうで、俺は姫ちゃんに言う。


「……ん」


 それは当たっていたらしい。未だ沈んだ声ながら、姫ちゃんは頷いた。


 ――チャンスである。なんの、と言われれば、それはもちろん彼女の機嫌取りの、だ。


「そうなんだ。いい香りだね、こういうの好きだよ」

「……ほんと?」

「うん」


 とりあえず、褒めて持ち上げる。


「そっか……」


 すると姫ちゃん、ほんのり機嫌が上向きになってくれた。少しだけ声が華やかなものになり、まるで声に色がついたよう。


 俺はポンと姫ちゃんの頭に手を置いて、彼女の頭を撫でながら次の言葉を。


「それに、今日は朝から来てくれてありがとう。姫ちゃんと会えたのは、本当に嬉しいから」


 女性経験は姫ちゃんとのものしかなく、サブカルチャーに触ることもなかった俺。歯の浮くようなセリフのレパートリーなどないが、これだけでも機嫌とりには使えるはず。


「……ん」


 姫ちゃんの声色が、ニヤけながら発したようなものに変わった。「んふふ」と今にも微笑みだしそうなほどで、完全に機嫌を直してもらえたと思っていいだろう。


 よし、と内心でガッツポーズをしてから、俺はすかさず別の話題を切り出す。


「実は俺、まだ朝ご飯食べてないんだ。姫ちゃんは?」

「私は食べてきた。……なにか作ってあげよっか?」


 その話題に、予想外の食いつきを示す姫ちゃん。はて、姫ちゃんは料理ができただろうか……と幼少期の記憶を漁るが、彼女が料理をしたことなんて調理実習くらいではなかったか。


 いや、調理実習だけでも料理の経験は充分といえば充分だ。食べられないものを出されることはないはず。


 けれども姫ちゃんのそれは、面白がって言い出したような雰囲気でもなく、普段していることをやってあげようかと申し出る、すんなりとした気軽なものである。


 ――頭に浮かんだ推測があまりに予想外だったので、俺は思わず問いかけた。


「……もしかして、姫ちゃんって料理作れるの?」

「え、なんでできないと思ったの?」


 質問には質問が帰ってきた。しかも彼女の機嫌が、今度は不機嫌の方向で沈んでいる。


 ――失言だった。さっきの苦労が水の泡である。


「い、いやっ……姫ちゃん、前は家の手伝いとかしてなくて、調理実習くらいだったでしょ? だから……」

「ああ」


 姫ちゃんは納得してくれた。俺が胸を撫で下ろすと、姫ちゃんは抱き合っていた体勢から身体を起こす。


 ――なぜか、その表情は暗いものだった。


「……お兄ちゃんが、忙しい人だから。私帰宅部だし、家事は昔からしてるの」


 「だから作れるよ。冷蔵庫開けるね」、と。


 姫ちゃんはそれだけ言って、俺から離れた。キッチンにて、宣言通り冷蔵庫の物色を始める。


 ――お兄ちゃん、というと、そりゃあ「兄」のことだろう。もちろん、今世の姫ちゃんの。


 忙しい人、というのは、仕事が多忙で家にあまり帰れず、家事をすることができないという意味か。


 当然の疑問として、俺はこう思った。


 ――親は、どうしたのだろう? と。


「…………」


 帰省した時に、姫ちゃんから感じた家庭の問題の気配。そして今の話の中の、両親の不在。


 というか、兄がいて働いており、代わりに妹の姫ちゃんが家事をする――なんて、いかにも〝そういうこと〟ではないか。


 ――姫ちゃんの今世の両親は、既にどちらも他界している。彼女には歳の離れた兄がいて、彼が今の姫ちゃんを養っている。


 そう考えるのが自然だ。


「……簡単なものでいいし、俺が作るよ。姫ちゃんはあっちでくつろいでて」


 なんとなく、気分の沈んだ様子の姫ちゃんを働かせるのが嫌で、気づけば俺の口がそう動いていた。倣うように身体も動き、俺は姫ちゃんの背中に歩み寄る。


「え、いいよ。私が作ってあげたいの」


 後ろにやってきた俺のことはわかっているだろうに、冷蔵庫の前を譲らずに姫ちゃんは言った。声に、先ほどのような沈んだ気配はない。


 ……あぁ、そうだった。姫ちゃんは、人生経験の質はともかく、量だけならば今は〝二回目〟。見方によっては、俺と同い年とも言えるのだ。


 無論、社会へ出て働くことも、まして高校も大学も経験していないのなら、年数が同じだからといって〝同じ年齢〟とまでは言えない。


 けれども……姫ちゃんは、今世の両親がいないということを、それこそ生まれた時からででも、〝13歳の他人〟として受け止めることができるのだ。


 この子には親がいないんだ、ああそうか――などと、気にしないでいることが。


 ……姫ちゃんの声色が沈んでいたのは、気のせいだったのだろうか?


 そんなことはない、と、思うけれども……とにかく、今の姫ちゃんならば、心配はいらなさそうだ。


 ――なにより、「彼女の機嫌取り」という至上命令は、今を以て続いているのだ。俺が過度に反発するのはいけない。


 俺はそう思い、姫ちゃんの背中に向かって、内心を隠しながら言う。


「そう? ならお願いしようかな。楽しみにしてるね?」

「――――」


 その瞬間、姫ちゃんの動きが、一瞬だけ止まった。


 同じように、俺も自らの失言を悟る。


 ――〝俺が姫ちゃんのすることを楽しみにしている〟。


 そのことが、この現状で、この姫ちゃんの中で、いったいどんな意味を持つと思っているのか。


「――うん、おっけー。楽しみにしてなさい、ほっぺた落としてあげるから!」


 彼女の停止は一瞬だけ。返ってきた返事に込められた感情も、〝至って普通に〟明るい代物。


 ……だから俺は、今の言動を酷く後悔した。






 ◆貝塚奈津姫視点◆


「そう? ならお願いしようかな。楽しみにしてるね?」

「――――」


 そう言われた時、私の身体の奥で、なにかがビシリと音を立てた。


 脳髄どころか、身体の隅々に至るまで、その音は響き渡った。


 ……この音は知っている。胸の内に作った自らの支えに、ヒビが入る音だ。


 ――ともすれば心というものが、悲鳴をあげた音だ。


 ……その音を、それによって起こった鳥肌も寒気も、心臓の鼓動も、全てを無視して。


 刹那の間に思考を封じて、私は口を開く。


「――うん、おっけー。楽しみにしてなさい、ほっぺた落としてあげるから!」


 ……大丈夫、大丈夫なはずだ。


 いつも通りに明るく言えた。いつも通りに、取り繕えた。


 取り繕うのは得意分野だ。前世の死に際に、今世でシュウちゃんと再会した時に、ずっとずっと続けていたことなんだから。


 今世の家族に前世を悟られないように、周囲の全てに向かって、生まれてからずっとしてきたことなんだから。


 ……でも、こういうのは不意の衝撃には弱い。


 だからさっきだって、ヒビが入ったんだ。


 ――シュウちゃん家の冷蔵庫には卵がある。けれど他にはろくなものがない。強いて言えば、冷蔵庫の上に積まれたチンするレトルト白米と、冷蔵庫の中に地味に古くなっているスーパーのお惣菜、そして同じく地味に古くなっている食パンが開封済みで。


 卵焼き、くらいは作れそう。お惣菜は、このままだといつ食べるかわかったものじゃないし、さっさと消費させよう。電子レンジはあるし、今から炊くのは無理だから主食はこれで、食パンは見て見ぬふりだ。


「食器ってこれ使えばいい?」

「あ、うん、そう。そこら辺にあるやつ使って」


 ――手早く方針を決め、ポロポロと出た疑問をシュウちゃんにぶつけて解消し、それが終われば家主は本格的に用済みなのでキッチンから追い出して。


「………ふぅ」


 ようやく、ひと心地つけた気分だった。


 ……しかし、先ほどは本当にびっくりした。まさか、あんなことを言われるなんて――いや、あんなことを思われていたなんて。


 ――考えてみれば、当たり前。言われるまでもないことだ。


 私は、一度死んで生まれてからの13年、狂おしいほどシュウちゃんのことを考えてきた。再会できた時は本気で天にも昇る気持ちだったし、会えていなかった時は反対に目も当てられなかった。


 ――そりゃあ、シュウちゃんだって、そうのはずなのだ。


「……すー……ふぅ……」


 ひとつ、深呼吸。


 ……ようやく、背筋の鳥肌と寒気がなくなってきた。


 でも、心臓の鼓動だけは鳴り止んでくれない。仕方がないので、私はこのまま作業を開始する。


「…………」


 ――どうして、こんなに心臓がやかましいかと言えば。


 それは、シュウちゃんの言葉が、どうしようもないくらいに〝怖かった〟からだ。


「……まだ、大丈夫かな」


 お惣菜を開封して匂いを嗅いでみる。鶏肉の竜田揚げ、傷んでいるような匂いはない。電子レンジだと油っこくなるし、乾煎りでもしようかな。


 しかしその前に卵焼きだ。シュウちゃんは猫舌である、冷ます時間も考慮して段取りを決めなくてはいけない。


 電子レンジにレトルト白米を投入、規定の時間で温めスタート。卵を器に出して砂糖を入れて菜箸でとき、並行してフライパンの加熱も行う。意識は手元に配って、目線は棚の中で使えるお皿の物色を。


 ――作業の合間、頭の片隅、身体を動かす思考の裏側。


 そこに、嫌な考えがずっと居座る。


「…………」


 楽しみに、されている。


 ――期待、されている。


 私もそうなのだから、シュウちゃんがそうなのは当たり前。


 ……だけれども、だけれどもだ。


 ――その期待とはつまり、「確証のない約束で彼を縛った私の賠償行為を期待する」もので。


 「約束などという綺麗事を抜かし、挙句彼を傷つけてしまった、そのツケを取り立てている」ということである。


 ……いや、シュウちゃんがそう期待するのが当然なら、私が求めに応じるのも当然の話。というかむしろ、そんなものは朝飯前で、私も望んだものだ。


 つまり、負担じゃない。望むところだ、と言いきれる要求。


 ――けれど。


「…………」


 ……やっぱり、怖かった。


 シュウちゃんからの期待が、どうしようもなく、理屈もなく。


 ――だって、私はシュウちゃんを傷つけた。


 生まれ変わったら会いに行くなんて、今こうしてできたからいいものを。できる保証なんて、あの時はどこにもなかった。


 ――そんなことは、できないはずだった。


 できないというのに、私はそんな約束をシュウちゃんに持ちかけた。


 そしてシュウちゃんは、それを受け取った。


 約束してくれた。


 ――約束、してしまった。


「………っ」


 ……悪魔の契約、そんな単語が頭をよぎる。


 代価として、なにかとんでもないものを要求される、そんな契約。そのくせ受け取れる商品など、顧客を満足させるどころか、堕落させて苦しめるためのもの。


 シュウちゃんが死に際の私とした約束は、正しくそんなものだった。


 ――彼はこうして人生を差し出した。私が「差し出す」と確約できたものは、なにもなかったのに。


 私は口八丁で情に訴え、空手形だけを渡して彼の人生をまんまとせしめた。


 ――そんなもの、〝約束〟などと言えるものか。まして彼が、契約を真面目に履行しているのだから尚更だ。


 ああ、ぴったりなものがあるとも。


 あの時だって、自分の心を引き裂きながら考えた。私がシュウちゃんと行ったものは、〝約束〟なんかじゃないと。


 ――〝呪い〟。


 果たせる保証のない約束でシュウちゃんを傷つけたのだから、これは〝呪い〟だ。


 ……だって、私もシュウちゃんも、あの時……いいや、今だって――


「――っ」


 ――苦しいんだもん。


 人を呪わば穴二つ。誰かを呪えば、自分も苦しい。


 ――シュウちゃんを苦しめて、私も苦しくなった。これが〝呪い〟でなくて、なんと言う?


「…………」


 気がつけば、キッチンに一人分の食事が出来上がっていた。


 小さめの卵焼きと、乾煎りして温めた鶏肉の竜田揚げを平皿に盛り付けて。レトルト白米はとっくにお茶碗の中に収まっていて、湯気も大人しくなっていて食べ頃だ。


 ほとんどが出来合いのもので構成され、唯一の手料理も簡素極まるもの。彼女の手料理、と言うにはあまりに味気なくそして華もない。


 しかし家庭料理なんてこんなもの、手間を省いてなんぼの代物である。というか、手の込んだ料理を作るなら材料が必要で、冷蔵庫には本当にろくかものがなかったのだ。仕方がない。


 ――ベッドがあった部屋にはテーブルもあったし、他の食器は往復して改めて持ってこよう。そうだ飲み物のことを考えてなかった。


「――できたよー。あんまり大したもの作れなかったんだけど……」


 そうして私は、シュウちゃんの元へ舞い戻る。


 ――もちろん、抱いた内心はおくびにも出さずに。


 なにせここには、シュウちゃんがいる。


 ――みっともない姿は、見せられない。


 ……。


 ……だけど、一つだけ本当にわからないことがある。


 どう考えても、シュウちゃんは私を求めてくれているはずだ。彼だって「嬉しい」と言ってくれた。それは本心だろう。


 ――だというのになぜシュウちゃんは、私とは会わない方がいいと、思ったのか。


 それが、本当の本当に不思議で……シュウちゃんからの期待以上に、それこそ身体を引き裂かれるようなほどに、怖い。


 ……怖いよ。


 バレンタインまでだけなんて、やだよ、シュウちゃん。






 ◆笠間秀司視点◆


 姫ちゃんの作成した料理は、簡素で簡易的なものだった。


 けれどだからこそ、作り手の技量が現れるというもの。


 ……具体的に言えば、ウチに卵焼き器はなく、ヘラなどを使ってもいなかったのに――つまり、菜箸と小さなフライパンだけで見事な卵焼きを作ってのけている、ということが重要なのだ。


 俺には無理だ。絶対に形が崩れる。焦げ目だってつけてしまうだろう。


 なのに姫ちゃんの卵焼きは素晴らしい。見た目も然ることながら味もいい。ほんのり甘めの味付けは俺の好みどストライクである。


 ――だからこそ、一朝一夕では獲得しえないその技術に、不信感が募るのだが。


「…………」


 しかし、不安そうにこちらを見上げてくる姫ちゃんに、まずは料理の感想を告げなくてはいけない。


「――ん、美味しい! 姫ちゃん、料理上手だね。これなら本当にほっぺたが落ちそう」

「っ、ほんと? よかった……」


 カーペットの上に置かれた小さなテーブルを挟み、向かい合わせで俺の食事風景を見据える姫ちゃん。やはり自身の手料理の出来が心配だったらしい。


 俺が褒めたことで、大袈裟なくらいに姫ちゃんは笑顔になった。上機嫌の勢いそのまま、やれ冷蔵庫の中にろくな食材がないだの、お惣菜は買ったらすぐに食べろだのと小言を言い始める。


 やっぱり、〝手慣れている〟。普段から料理を担ってきたという、経験を感じさせる物言いだ。


 ――姫ちゃんが家事を行っている。それは確実。


 その理由が、少しだけ気になって。両親が亡くなっている、という予想はついても、その確証が欲しくて。


 ……別れ話を切り出しておいて、彼女の事情に踏み込む資格などないと、自分に言葉(ナイフ)を突き立てた。


「――だからね、普段からちゃんと……こらシュウちゃん、聞いてる?」

「あ、ごめん。えっと、ちゃんとしたご飯を食べなさい、ってことだよね」

「そう。自炊した方が経済的で栄養バランスもいいんだから」


 ふんぞり返りながら、姫ちゃんが締めくくる。お説教スタイルの小言だったが、得意げに口元が緩んでもいるので、あまり迫力はない。


 無意識に箸は動き、姫ちゃん手製の卵焼きが口の中に運ばれる。


 可愛らしい姫ちゃんのことを見ていると、二日酔いの頭痛もなくなったような気がした。


 ――そう、姫ちゃんはこんな子だった。


 周囲に笑顔と元気を振りまいて、そして自分は誰よりも勇ましく元気いっぱいで、小さい頃から俺を引きずり回して周囲を振り回して。


 当時の俺にとって、それがどれだけ眩しくて、ありがたかったことか。


 ――こんな姫ちゃんだから、俺は好きになったんだ。


「……えっ、シュウちゃん? ど、どうしたの? え、な、なんかあった?」


 ドヤ顔だったはずの姫ちゃんが、いつの間にか焦ったような顔になっていて。声もまた焦りながら、俺のことを気遣ってくる。


 急にどうしたんだろう、と不思議に思って、姫ちゃんに聞き返そうとしてけれど……びっくりするくらい、俺の声は震えていた。


「ぇ……? あ、れ……?」


 そこでようやく、俺は自身の目が潤んでいることに気がつけた。


「こ、れは……なん、なんでも、なっ……」


 慌てて取り繕うとして、上手くいかなかった。俺は茶碗を置いて左手で目を擦るが、一度自覚した涙はより一層勢いを強める。


 ――ただただ、単純明快に、こう思っただけなのだ。


 本当に、姫ちゃんがいるんだ……と。


 その程度で大の男が、それも好きな子の前で泣いてしまうとか、情けないにもほどがある。


「しゅ、シュウちゃんっ、大丈夫? ほ、ほら、ティッシュ! 拭いてあげるからっ、指で拭っちゃダメ! 擦ったら痕になるでしょ!」


 テーブルの横を回って、俺の隣で世話を焼いてくれる姫ちゃん。


 そんな彼女に手間をかけさせるわけにもいかないのに、泣くなんてみっともないことはすぐにやめなくてはいけないのに……どんな理由を並べ立てても、涙は止まってくれない。


 そんな理由では、想いを押し留めることができないのだと、そう身体が主張するように。


 ――その日はしばらく、涙が止まらなかった。

 ――君がいるから、私は頑張らなきゃいけない。

 みっともないところは見せられないし、彼を傷つけてしまった責任があるから。

 怖いけど、挫けないよ。私はまだ、頑張れるもん。


 ――君がいる。だから涙が止まらない。

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