三話『忘れじの』
◆笠間秀司視点◆
「もうっ、シュウちゃん遅い! 寝てたでしょ!? 電話にも出てくれないし、ほんと酷い!」
怒れる姫ちゃん。袈裟懸けに鞄を下げ、足元は可愛らしいブーツ。白いハイソックスで素肌を隠しながら膝上のスカートを履き、ハイネックのベージュのセーターで首元まで覆う。その上から黒いチェスターコートを羽織って、額の左側には貝殻の髪飾り。
髪飾りが貝殻に変わっていることを除けば、前世の姫ちゃんがよくしていた格好だ。ついでに言えば、スカートを選んで履くようになったのは俺と付き合い出してからで、それ以前は女の子物のズボンやショートパンツの類いを「動きやすいから」と身につけていた。
あからさまに、俺と会うことを意識した格好だ。事実、姫ちゃんの現状を思えば、楽しみにしていて当然である。
それを、相手の寝坊のせいで寒空の下待たされた、とあれば……。
俺は開口一番謝った。
「ご、ごめん。昨夜は遅くて……」
「遅くなった理由」というのが、姫ちゃん由来の悩みをごまかすために酒を飲みすぎた、というものなのが申し訳ないけれども。
姫ちゃんはそれを聞くと、なぜか怒りを忘れて目を丸くする。
「遅くなるくらいお仕事忙しかったの?」
「い、いや、飲み会で……」
胸が痛い問いかけ。しかし嘘を吐くわけにもいかない。正直に、「遊んでいて遅くなったんです」という旨を白状する。
しかし姫ちゃん、丸くしただけだった瞳を輝かせ始める。今の答えがなぜか琴線に触れたらしい。
「へーっ、飲み会! それって会社の同僚さん?」
「あぁ、いや、大学時代の友達と」
「へーっ、大学! 想像できないなぁ……!」
……どうやら、お酒やら大学やら、姫ちゃんの立場からは手が届かない代物に興味を示しているようだ。
正確には、姫ちゃんと同じ立場だったはずの俺だけそれらの要素を日常に落とし込んでいるのを見て、「シュウちゃんもそうなったんだ」のように感心してテンションが上がっているのか。
そういえば帰省中に再会した時も、俺の身長や髭、顔立ちに体格、果ては一人暮らしというものにさえ、似たような反応をしていた。単純に新鮮に思ってくれているのだろう。
――或いは、感じている寂寥感を、再会できた喜びとそれらで帳消しにしようと、わざと大袈裟にはしゃいでいるのかもしれないが。
「……えっと、とりあえず入って、姫ちゃん」
「あ、玄関で騒いじゃった。ごめんシュウちゃん、お邪魔します」
脳内の考えに区切りをつけ、俺は姫ちゃんを招き入れる。姫ちゃんは我に返ると大人しくなり、反省と謝罪を寄越してきた。
そうやって素直に非を認め、謝罪をして行動を改めるところは、子供らしくないと思った。前世の姫ちゃんもこんな感じだったのだけれど。
――思えば当時も、変なところで大人びた少女だった。
「――――」
玄関で靴を脱ぎ、立ち上がった姫ちゃん。招き入れるために踵を返し、案内のために部屋の中に引っ込む俺。
背後から迫ってくるトテトテとした足音が、なんだか妙に近い。
「――おぉ、ちゃんと綺麗にしてるんだね〜」
部屋の中を見て、片付いているというより単にものが少ないだけなのだが、姫ちゃんから感心の声があがる。
その声も、なんだか距離が近い。
手を伸ばせば、どころか、今のままでも、腕を回せば容易に俺の腰へ抱きつけるのではないだろうか。
――この距離感は、前世の姫ちゃんにはなかったものだ。
「適当に座ってて。カーペットが嫌ならベッドでもいいから。コートはそこのハンガーに」
胸に生じた微かな違和感を無視して、俺は姫ちゃんの前から退いて部屋の中を示す。その際に、近すぎる姫ちゃんから一歩分遠ざかるのも忘れない。
「ム」
急に空けられた俺との距離が不満なのか、それとも他に不満なことがあるのか、姫ちゃんはジト目になって口を尖らせた。
……やたらと、感情表現が豊かだ。テンションが上がっている、とすれば納得がいくが、そんなに俺との再会は嬉しいものだっただろうか。一度目ならばいざ知らず、二度目の今に至っても、そのハイテンションを維持できるほどに。
「シュウちゃんシュウちゃん、私になにか言うことあるでしょ? ほら」
姫ちゃんがその場で、両手を少し広げて俺を見上げてくる。自分の存在をアピールするかのような、身体全体を強調した仕草だ。
それに加えて、姫ちゃんに俺からなにか言うこと。……そういえば。
俺から姫ちゃんに、再会できたことへの喜び……というか、感想? を、言っていなかったような。
……少し気が重い話になるので、飲み物を持ってきて腰を据えて話したかったけれども、まあいいか。
「……姫ちゃん」
「ん?」
俺が真剣な顔を作り、居住まいを正すのを見て、姫ちゃんは少し不思議そうな顔。彼女のそれを無視して、俺は言うべき言葉を言った。
「まずは、姫ちゃんと再会できて嬉しい。本気で、心の底からそう思ってる。それはほんとだよ」
「えっ……え、うん」
姫ちゃんが一気に赤面して、そのままの姿勢で固まった。
再会してからはなにかとベタベタしてくる姫ちゃんだが、こうやって恥じらうところを見ると姫ちゃんらしさがわかる。
前世の姫ちゃんは、ガキ大将もどきをやって幼い俺を引きずり回していたくせに、俺の方から積極的になるとたじろいでいたのだ。それは今でも抜けていないらしくて、そこは少し安心する。
――どうやら、姫ちゃんから押し切られる可能性は、半々のようだから。
「姫ちゃんが亡くなってから、十三年も待ってた。その想いが叶えられたのは、ほんとに、嬉しかったんだ」
「…………」
続けて、俺の想いを告げる。姫ちゃんは返事を返すこともできなくなって、赤面具合を酷くしながら小さくなった。
けれど。
「――でも、ごめん」
「……え……?」
俺が告げた想いと、俺が出した答えは、矛盾する。
だから、〝ごめん〟。
「姫ちゃん、もう俺たちは会わない方がいい」
――血の気が引いた、という言葉が似合う人間を、初めて見たかもしれない。
俺が言った言葉を理解するにつれ、姫ちゃんの顔からは赤みが引いていき……呆然とした顔に相応しい色になるまで、数秒とかからなかった。
姫ちゃんは青ざめながら、震え声で聞いてきた。
「……な、んで……?」
「それは……」
……理由を聞かれると、少し困る。
明確な理由なら、あるのだが。それを姫ちゃんに理解しろ、と言うのも変な話だからだ。
俺が姫ちゃんを拒むのは、十三年想い続けた「姫ちゃんはもう死んだ」という傷が、開いてしまうから。
せっかく瘡蓋になりかけていたそれが、再び血を流し始めるから。
――とっくの昔に捨てた期待が叶っていたと今更知らされたところで、そのせいでついてしまった傷は、元通りにはならないから。
「……ごめん、もう、会わない方がいい」
だから結局、姫ちゃんが理由を聞いてきた問いには、そう答えるしかなかった。
答えになんかなっていない、ただ結論を押し付けるだけのもの。……姫ちゃんが、納得するわけがなかった。
「……やだ……」
姫ちゃんが呟く。
もう既に瞳は潤んでいて、すぐにでも零れ落ちそうなほど涙が溜められている。口元は歪められ、歯を食いしばりながら、それでも「嫌だ」と言葉を紡ぐ。
「……やだ……!」
「……姫ちゃん」
「やだっ、やだ!」
姫ちゃんの足が床を蹴る。衝動的なそれは正しく姫ちゃんの身体を動かして、俺に正面から彼女を抱きつかせた。
躱すことなんてありえない。お腹に飛び込んできた彼女を受け止めると、姫ちゃんは俺の背中に腕を回して力いっぱいしがみついてくる。
「やだ、いやだよ! せっかく会えたのに、なんで! シュウちゃんだって、嬉しいって言ってくれたもん!」
なおも「いやだ」と口にしながら、姫ちゃんは俺の服に顔を埋める。そのまま動かなくなったので、さすがに俺も困ってしまった。
……泣き声も聞こえる。本当にどうしたものか。
「……姫ちゃん?」
「っ、やだっ!」
声をかけただけなのに、ビクついた挙句更に力強くしがみつかれた。冷静な話し合いなどできそうにない雰囲気に、俺の方が折れるしかないと結論する。
「……姫ちゃん、立ちっぱなしじゃダメだから、ちょっと座ろっか?」
俺は優しい声色を心がけ、姫ちゃんを諭す。落ち着く時間を設けよう、という、そういう申し出だ。
「ぐすっ……。……ん」
姫ちゃんはしばし黙り込んでから、やがて頷いてくれた。
「じゃあ、ちょっとだけ離れてくれるかな?」
体勢を変えるのだから、と今度はそう提案するが、姫ちゃんはそれには首を横に振った。離れたくないらしい。
素直に受け止めれば可愛いわがままなのだが、実情が実情のためどうにも困る。
「コートも脱がないとダメだし、ね?」
「……。……ん」
なんとかお願いすると、ようやく姫ちゃんは頷いてくれる。姫ちゃんはおずおずと顔を離して、すこぶる不機嫌な顔を俺に向けてきた。
俺の背中にしがみついていた手が、今度は俺の脇腹辺りの服を握りしめている。力づくででも離れまい、としているのだろうか。……無理もない。
「ほら、コートは脱いで」
やんわり、姫ちゃんの片手だけ解いて服から離し、コートの袖を抜く。すぐにまたその片手が元通りに服を掴むと、今度は逆の手の番だ。
順番にそれを終わらせ、彼女のコートを脱がせ終わる。再び抱きついてくる姫ちゃんに苦笑いをしながら、壁際のハンガーに手を伸ばしてコートをかけた。
「姫ちゃん」
声をかけながら、今度はベッド脇に移動して腰を下ろす。俺がベッドに背中を預けながらカーペットに座り、そこに正面から姫ちゃんがしがみつく格好だ。
姫ちゃんの体勢も若干変わり、俺のお腹に埋められていた顔が、今は俺の肩に乗っている。身長差が著しい先ほどよりも、今の方が恋人らしい。
……正面から抱き合っていようとも、その内心は、甘ったるいものでは断じてないのだけれど。
「…………」
まずは姫ちゃんが落ち着くまで待つ、と決めている俺。無言で時間が過ぎるのを待とうと、俺が楽な姿勢でいると。
姫ちゃんが、ポツリと言う。
「……バレン、タイン」
「え?」
バレンタイン、と、そう聞こえた。それがどうかしたのだろうかと、俺は姫ちゃんに聞き返す。
「……バレンタイン、まで、やだ」
姫ちゃんはそう言った。言葉少なな、叫んで泣いたせいで掠れてもいる声。けれどもなんとなく、わかる気はする。
「バレンタインまでは、この関係を続けたい」。そういう話だろう。
理由を聞くことはしない。見当はつくし、動機もはっきりしている。ずっとこの関係を続けたいくせに、とりあえずごまかせる期間を示してその場しのぎをするのは、ちょっと子供っぽいと思ったけれど。
――まあ、その場しのぎが必要なのは、俺の方かもしれない。
俺だって、姫ちゃんとの関係を続ける言い訳を、なによりも欲していた。
「……うん、わかった。バレンタインまで、ね」
俺は頷く。バレンタインが終われば、今度こそ関係を終わらせるつもりで。
姫ちゃんもそれをわかっているのだろう。自分の要求が通ったというのに、欠片も嬉しくなさそうに。
「………うん」
大層な間をあけて、彼女も控えめに頷いた。
◇
――俺がまだ、中学生だった頃。姫ちゃんに告白をして、中学進学と共に付き合い始めた、その一年目のこと。
新しい生活に慣れるのに精一杯で、部活にも入って……それから、最初の夏休み。
恋人としてすごす初めての夏休みだからと、初日に全て宿題を片付けてしまうくらい張り切ったものだ。
市民プールに行って、デートをしようとした。行くまでは二人とも、本気で恋人らしくしようと思っていたのだけれども。なんだかんだ小さい頃から慣れているところだったので、結局いつものようにはしゃいで終わった。
夏祭りがあったので、そこではちゃんとデートになった。俺が勇気を振り絞って姫ちゃんの手を握って、けれど遠くにクラスメイトを見つけたから慌てて離したりして、彼女を怒らせたり。……花火を見ているといい雰囲気になったので、そこで初めてのキスだってした。
秋には体育祭があって、お互いに恥ずかしがりながら相手の応援をした。その辺りでクラスのみんなに交際がバレて、散々からかわれた。姫ちゃんが真っ赤になって怒っていたのが印象的だ。
そして冬休みには、お泊まりもした。恋人になってからはめっきりしなくなったそれに、変にドキドキしたのを覚えている。姫ちゃんは久しぶりのそれに、こっちの気も知らないで無邪気に喜んでいたっけ。
恋人として初めてのクリスマスは、お互い家族とすごす日だった。けれど晩ご飯の後で抜け出して、二人で密会をした。親にはバレバレだっただろうけれども、ホワイトクリスマスになってくれたから気まずさも帳消しだ。
プレゼントの交換もした。姫ちゃんからは直筆の手紙とマフラー、俺からは手袋。俺からの手紙は用意していなくて、慌てた俺が急遽用意すると、姫ちゃんは「もう、合わせなくてもいいのに」と照れ隠しをして、それでも隠しきれない嬉しさでとびきりの笑顔を見せてくれたものだ。
それから、年末年始。ここでだって家族とすごすことになったけれど、年賀状を送りあったりもした。家族と行く初詣は断って、姫ちゃんと二人で神社に行ったりもしたっけ。
……それで、冬休みの終わり頃に、姫ちゃんの〝それ〟が発覚して。
そこからは、あっという間だった。
――だから、生まれ変わった姫ちゃんがバレンタインにこだわるのは、当たり前なのだ。
バレンタインでチョコを送り、ホワイトデーにはお返しをする――そのようなことは、恋人としては愚か、まだ単なる幼なじみだった小学生の時にも、したことはなかったのだから。
初めて、バレンタインで彼氏にチョコを贈る。それも、相手はとても楽しみにしていて、自分が贈るそれは手作りを予定していた。――その矢先、病で死んでしまった。
……だから、変な話ではない。
納得できる。共感もできる。
だからこそ。
――だからこそ、俺もその言い訳を使って、その場しのぎをしたいと……思って、しまった。