二話『昔馴染みと大親友』
◆笠間秀司視点◆
――その日の夜。本当に姫ちゃんは電話してきた。
『こんばんは、シュウちゃん。晩ご飯もう食べた?』
電話越しに聞く彼女の声は、なんだか妙に現実味のない、新鮮な代物だった。
まるで夢でも見ているかのような、幻と会話をしているような、そんな。
「うん、食べたよ。姫ちゃんは?」
『私も食べた。今日はカレーだったんだー。シュウちゃんは?』
世間話に応じながら、俺は頭の片隅で考える。――どうやって、それを切り出すのかを。
なにを切り出すのかと言えば、それはもちろん、別れの言葉。
――君との関係は間違っているからダメだ、なんていうことを、オブラートに包む方法を……必死に、考える。
『――でね、今日はすぐに帰っちゃったから、またすぐに会いたいなって思ってて』
「……うん」
ああ、だけど。
こんなこと、姫ちゃんに言えるわけがない。
『でもね、さすがにお泊まりはダメだし、新幹線のことも考えたら、会える時間がすごく短くなっちゃうの』
「それは……そうだね」
『うん。それでね? シュウちゃんって今一人暮らしだよね?』
「そうだよ、東京の――ってところ」
『っ! そうなんだ? じゃあ私の家と近いよ!』
……だって彼女は、こんなにも嬉しそうなんだから。
俺がこの考えを告げれば、絶対に姫ちゃんは悲しむ。当たり前だ、十三年も離れ離れで想いが冷めるどころか、顔を見た瞬間飛びかかってくるくらいなのだ。
――それに、俺だって。
『住所! 住所教えて! 私が行くから! シュウちゃん戻ってくるのっていつ!?』
「……姫ちゃん。もう遅い時間だから、静かに、ね?」
『あっ、ごめんなさい。それでいつなの?』
着々と姫ちゃんとの再会の段取りが決まっていくのを、俺は止めることなく見送る。
止めれば、姫ちゃんが悲しむから?
幼少期からの刷り込みのように、姉貴分の姫ちゃんに逆らうという考えが浮かばないから?
……それもあるだろうけど、やっぱり一番は――
「年末年始はずっとこっちにいる予定。3日になったら東京に戻って、4日からすぐ仕事かな」
『え、そんなすぐお仕事なの? 3日は会う時間ある? 次のお休みは?』
「3日は会えないかな……一応、毎週日曜日がお休みになってるよ」
――俺も、姫ちゃんとまた会いたいから。
絶対に手に入らないと、刻み続けたとしても――渇望していたことに、変わりはないから。
違和感に悲鳴をあげる胸を抑えてでも、会いたいという心には逆らえないから。
『じゃあお正月休みの次の日曜日! ……6日! 6日には絶対に会いに行くから! 住所、教えてっ!』
――俺は、白旗を上げた。
今日決めた、このこの子との関係を終わらせる、という決心を賭けた戦いに……敗北を認めたのだ。
……でも、まあ。
いつかは、終わらせなければいけないだろう。
◇
――毎夜電話をかけてきて、しょっちゅうトークアプリに着信を入れてくる姫ちゃんに、辟易することなく律儀に応対しながら年末年始を過ごす。
地元の知り合いに会って、飲み会に参加したりもした。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、電車に揺られて新幹線に乗り換えて、昼過ぎに自宅へ帰り着いて移動疲れで眠りこけ。
仕事が再開し、いつもの日々が戻ってきたのだと実感したその次の日。日付を言うなら5日、姫ちゃんが我が家を訪ねてくる、その前日の仕事帰り。
「――よー、久しぶり、秀司」
大学で出会い、今も付き合いの続いている友人、大久保 元康との待ち合わせ場所に、俺は来ていた。
彼とは妙に気が合い、今でも仕事帰りに二人で飲みに行ったりする仲である。今日もそんな具合で、明日が休日だからといつもより羽目を外せる……というのは関係ないだろうが、今回のメンバーはいつもと微妙に違ったりする。
「久しぶり、元康。飯島さんは来てないのか」
「おう。男二人で待ってようぜ。すぐ来るだろ」
飯島 奏羽さん。俺と同い年の女性、というか、俺と同郷で同じように上京した昔馴染みである。
何気に、小中高、その上大学に至るまで飯島さんと俺は同じ学校で、高校まではクラスもほとんど同じだった。それが理由というわけでもないが、高校に入ってから同中のよしみで話すようになり、大学を卒業した今でも連絡を取り合ったりしている。
元康と飯島さんも仲がいいらしく、時折こうして三人で食事に行くこともあった。今日がその日なのである。
時刻は、待ち合わせ時間に設定したのより十分前ほど。夕飯真っ盛りの時間帯でもあり、この時間はどこの居酒屋も混んでいる。
「今日はどこにするんだ?」「こないだ見つけたあそこにしね?」などと元康と話していれば、通りの向こうから、通行人に紛れながら飯島さんが現れる。
「あ、ごめんなさい。私が最後だね」
「待ち合わせ時間にゃ遅れてないからノーカンノーカン。さ、行こうぜー」
飯島さんが謝りながら声をかけてきて、いいってことよと元康が応じる。二人で話していた居酒屋を目指して彼が歩き始め、俺も飯島さんもそれに続いた。
「そういや飯島ちゃんも帰省してただろ? 秀司が今年は珍しく帰省してたけど、飯島ちゃんは知ってた? つか、向こうで会った?」
「え、聞いてない」
「あー、言ってない。向こうで同級生とかと集まればよかったね」
道中の雑談。地元から離れた都会でも付き合いのある貴重な同郷仲間ということで、飯島さんと俺はそれなりに親しい。今年の俺の無断帰省についての非難は、俺も申し訳ないので甘んじて受けることにした。
そんなこんなで、目的の居酒屋に到着。ちょうどよくテーブルが一つ空いていたそうで、そこに三人で入った。
奥側に飯島さん、手前側に俺と元康が並んで入る。
「ご注文お決まりですか?」
「あー、生ビール一つと……」
元康が自身の注文を言いつつ、俺と飯島さんに目配せ。俺は元康と同じく生ビールを頼むが、飯島さんはメニューに目を走らせて酎ハイを注文した。
元康以外の同僚と飲みに行ったりすると、一杯目は必ず生ビールを飲まされたりする。だがこの三人に限ってそんな気遣いは無用だ。ストレス発散目的で楽しく飲みに来たというのに、気を使っていては始まらない。
というわけで、飯島さんはいつも好きなものを頼んでチビチビ飲んでいる。俺も特別生ビールが好きなわけでもないのだが、今日に限ってはその気分だった。
こう、喉に流し込むようにパカパカ飲める酒がよかったのだ。ビールと言えば喉越しである。
「――かしこまりました、少々お待ちください〜」
追加で各々が軽食を頼んで、パタパタと店員さんが慌ただしく立ち去る。若い女性の店員で、化粧っぽさのない童顔の美人だった。
まさか高校生というわけでもないだろうが、そう言われても納得する幼さの残る外見。今の俺には、そういうわかりやすい〝若さ〟は、少し気が重くなる要因だったり。
「はぁ〜……」
暖房の効いた店内で、俺はコートもスーツも脱ぎさってワイシャツも首元を緩める。同じように薄着になる元康と飯島さんの前で、零れるように俺の口からため息が出た。
「? どしたよ、新年早々変な仕事でもやらされたか?」
元康がそれを聞きつけ、気軽に聞いてきた。「愚痴なら聞くぜ?」という気遣いは、飯島さんも同じらしい。
「……もしかして、帰省した時の疲れとか残ってる? 新幹線だよね?」
飯島さんはそちらの心配もしてくれた。さすが同郷仲間だけはある。同じ苦労をした者同士、気づくことがあるのだ。
「あぁ、いや。気にしないで。そういうんじゃないから」
しかし、彼らの心配は見当違い。俺が気を重くしているのは、明日の会合についてである。
――姫ちゃんが、明日ウチに来るのだ。
知らない場所を女子中学生一人に歩かせるのも怖いので、最寄り駅まで電車で来るという彼女に合わせて俺から迎えに行こうと思っているが。
そんな前向きで建設的な考えや、会いたいと思う気持ちとは裏腹に、会いたくないと思う気持ちもあって……もういっそ、休日出勤とかすっぽかしてやろうか、なんて風にも思えてくる。
「……はぁ……」
そんなことを考えたものだから、本気で重いため息が出てしまった。俺の悩みの重さを察したか、元康と飯島さんは目を見合わせる。
「……まさか、地元に帰って嫌な思いとかしたのか?」
なんて。
元康が、真剣な口調で聞いてきた。
「……あー、まあ、そんなとこ」
曖昧に、俺はそう肯定する。それだけではないのだが、地元に帰省したことが直接の原因ではあるのだ。
「それって……」
飯島さんもピンと来た顔になった。そう、元康も飯島さんも、俺が長らく地元へ帰らない理由については知っている。
飯島さんに至っては、小中高大が全て同じ昔馴染み。当然、前世の姫ちゃんと俺の付き合いをリアルタイムで見てきた人物であり、俺が女々しく彼女を引きずっているのも知っていた。
元康については大学からだが、彼は妙に察しがよくて、俺が姫ちゃんのことを抱えて恋人もろくに作らないことをよく怒られたものだ。いや、今も怒られることがある。
「昔の女に囚われず、今を生きろ。いつまで後ろ向きでいるつもりだ」――なんていう風に、怒鳴られたこともあったっけ。
普段は剽軽なお調子者のくせに、真剣な話になると人が変わる。そんな元康の言葉は、俺にとってありがたくもあった。
――しかしどうしても、元康の言葉を「姫ちゃんを捨てる」というように解釈してしまってそれには従えず、俺の女々しさは今も健在だ。
「お待たせしました! 生ビール二つと酎ハイ、それから――」
気まずい沈黙を、先ほどの店員さんが切り裂く。それに便乗して、俺は意識して話題を変えた。
「さ、とりあえずカンパイ。俺は飲んで忘れるから、二人とも付き合って」
「……ま、お前がいいならいいけどな」
俺の言葉に元康が返したそれは、諦観と失望に満ちたものだった。なにも言わない飯島さんも、たぶん似たような気持ちで俺を眺めているのだろう。
「カンパイ」、とグラスを突き合わせ、グイグイと呷ってビールをグラス半分ほど胃袋に収める。キンキンに冷えたそれは、真冬だと言うのに酷く美味しく感じた。
――けれどもなんだか、舌の上に変に苦味が残っている気がして。
それを不快に思ったので、次はなにか別のものを頼もうかと、そう考えた。
◇
些か飲みすぎたせいで覚束ない足取りになりつつ帰宅し、着替えとシャワーを手早く終わらせ、明日は休日なのだからとなにも考えずベッドに入る。
そして次の日。
――ピンポーン。
――ピンポーン。
――ピンポーン。
「……ぅ゛、るさい……」
騒がしいインターホンの音で、俺は叩き起された。
寝起きのせいか、はたまた二日酔いでもやってしまったか。鈍痛が響く頭に顔を顰めつつ、目を開けて時計を見る。
長針は、頂点より少し右側。分にして5か4と言ったところか。短針は10の辺りを示している。
つまりは十時過ぎ、部屋の明るさから考えて、朝の十時なのは確定的に明らかだ。
――そこで俺は、なにかを忘れている感覚に陥った。
ピンポーン。
インターホンは鳴り続ける。しつこい来客だ、居留守に気づいているのだろうか。休日の朝早くに傍迷惑な……。
「はいはい、今出ます……」
なにかを忘れている感覚、掴み損ねた喪失感。――それはひとまず置いておくことにして、まずはインターホンと来客の始末をするべきだと俺は起き上がる。
うわ言のように来客へ返事。しがないワンルームとはいえ、一番奥に置かれたベッド脇からでは届くわけがないと、遅れて俺は気がついた。
――ピンポーン。
これは相当寝ぼけているらしい、なんて自己分析を挟みつつ。今度こそ来客へ届くよう返事をしながら、俺はトイレや脱衣所へ繋がる扉のある短い廊下を抜け、玄関の扉に手をかけた。
「はーい! どちら様――」
無警戒に鍵を開けてチェーンも外して、とりあえず扉を開ける……その判断は、寝起きで二日酔いの疑いまである鈍い頭では、仕方のないことであった。
がしかし、まずは開ける前に来客の確認をしておくべきだった。その上できちんと心の準備をし、なにを忘れているのかを明確に思い出してから扉を開けるべきだったと、俺は後悔する。
――ともかく。
「もうっ、シュウちゃん遅い! 寝てたでしょ!? 電話にも出てくれないし、ほんと酷い!」
――開いた扉の前には、怒れる姫ちゃんが立っていたのだった。