一話『間違えない』
◆笠間秀司視点◆
――姫ちゃんと瓜二つの少女は、貝塚 奈津姫と名乗った。
それが生まれ変わった新しい私の名前だ、と。
――だからだろうか。前世では雪の結晶を模した青い髪飾りをしていたのに、今は貝殻の髪飾りに変わっている。
しかし着けている位置は同じで、それを言うなら髪型も同じ。髪色も瞳の色も、服選びのセンスや仕草、雰囲気だって。
……本当に、姫ちゃんとそっくりだった。
「シュウちゃん、今年で26歳でしょ? すごいなぁ、おっきいなぁ! ね、ね、屈んで? 屈んで?」
その少女――姫ちゃんは、初めに俺に飛びかかって腰に抱きついたまま、騒がしく喚き始める。滅多に見ないほどの上機嫌っぷりに、俺も抵抗を忘れて言う通りにするしかない。
中腰になりながら、俺の鳩尾まで程度しかない身長の姫ちゃんに視線を合わせる。
「おぉ、かっこよくなってる……! あっ、髭もある! わぁ〜……!」
ガシッ、と両手で顎を捕まえられて、姫ちゃんにされるがままの俺。ジロジロと、珍しいものを見るように顔を隅々まで確かめられた。
かく言う俺も、マジマジと姫ちゃんを見つめ返してしまう。……本当に、細部まで姫ちゃんそのものだ。あの日の姫ちゃんが、そっくりそのまま蘇ったと言われても信じるだろう。
「ほんとに大人になってるんだね、シュウちゃん……うふふ、ほんとにかっこいい。もっと好きになったかも」
……あぁ、本当に姫ちゃんだ。
姫ちゃんは昔から、時々こんな風に柔らかく微笑むことがある。その穏やかな笑顔を浮かべるのは、彼女が自身の家族と過ごす時か、俺の隣にいる時くらい。姫ちゃんがそうやって笑う時は、俺も釣られて笑顔になれたものだ。
顔に触れる姫ちゃんの手の方は、記憶と違って随分華奢なように思える。……いや、あの頃と比べれば俺は成長したんだし、対比で華奢に思えるだけだろう。
「……シュウちゃん……」
ああ、姫ちゃんの手が冷たい。元々冷え症の姫ちゃんだが、今は冬真っ盛りだというのに手袋もしていない。そりゃあ寒かろう。
そういう時の姫ちゃんは、それを口実にして手を繋ぐことをよくねだってきていた。今もそうすれば、喜んでくれるだろうか――
――と、その時。
「んちゅ」
――なにを思ったか、急に姫ちゃんが口付けを寄越してきた。
あまりのことに驚いて固まると、すぐに唇は離される。「えへへ〜」と、姫ちゃんは嬉しそうに、けれど少しだけ恥ずかしそうに、紅潮した頬を緩めた。
「なッ――に、するの……!?」
姫ちゃんの前であったせいか、幼い頃の口調が若干戻ってきてしまった。そんな風に動揺し、慌てて立ち上がりながら俺が姫ちゃんと距離を取れば、彼女は「ム」と不満顔。
……まずい、姫ちゃんとの会話が久しぶりすぎて距離感をイマイチ測りかねる。というか、よっぽど上機嫌かつハイテンションでもなければ、姫ちゃんからこんな風にキスなんてされなかった。
それだけ生まれ変わってからの日々が長すぎたということで、今がすこぶる上機嫌なのは道理。そこは俺も心底同意見なのだけれども、だからこそ今の俺のリアクションは姫ちゃんのお気に召さなかったはずで。
「ちょっと、逃げないでよ。いいじゃん、シュウちゃんだってしたそうに見てき――」
……そんな風に玄関先で騒いでいれば、俺の両親がそれを聞きつけて様子を見に来るのは当たり前だった。
「――秀司? 帰ってきたならさっさと……あれ?」
現れたのは父親。帰省した息子が赤面しながらへっぴり腰になって、そこに詰め寄る見覚えのある少女……父さんの驚きは、手に取るようにわかった。
平常運転だったのは、この場では姫ちゃんただ一人である。
「あっ、おじさんだ。お久しぶりです、ゆき――あ、えと、今は奈津姫っていうんですけど、優希姫です。昔隣に住んでた、安藤の」
――そうして、平常運転の末に思いっきり爆弾をぶちかましてくれた。
……そこからの説明には、もちろんめちゃくちゃ苦労した。
◇
「はあ、あの優希姫ちゃんが、生まれ変わりねぇ……」
姫ちゃんから、ざっくり要約すると「優希姫が生まれ変わって奈津姫になりました、それが私です」との説明を受けた俺の両親は、ピンと来ていない顔でそんなリアクションをとった。
……まあ、当たり前である。生き証人として姫ちゃんと瓜二つの少女がいるからこそ、夢でも見ているのかと疑うくらいには信憑性があるが。俺だって、丸呑みにして信じてはいない。
――だって、生まれ変わりだ。
外見や仕草から、彼女が姫ちゃんであることは疑えなくなってきたけれども……それでも、信じきることはどうしたってできない。
「今は東京の方に住んでるんですけど、ここへは記憶を頼りに来ました。シュウちゃんたちがお引越ししてなくてよかったです」
と、呑気に追加説明をする姫ちゃん。リビングにて俺の隣に座り、俺の両親と向かい合ってお茶を飲む彼女に、目立った危機感も緊張もない。
物珍しそうに家の中を見渡しているのは、年月が経過したからであろう。それを抜きにすれば、前世で入り浸っていた勝手知ったる幼なじみの家。姫ちゃんのリラックスっぷりは無理もない。
「親御さんには、どう言って来たの?」
「――――」
母さんからの問いかけに、ピタリと姫ちゃんが動きを止める。怪しい反応に嫌な予感がして、俺は「……姫ちゃん?」と声を出す。
「あ、違うの。黙って出てきたとか、家出とかじゃないから。――再来年に受験する時に気になってる高校がここにあるから、って言って、新幹線で来ました」
と、いうことはこの姫ちゃんは中学一年生。……享年とちょうど同い年、というわけか。
……そりゃあ、瓜二つなのも当たり前だ。
――それにしても、姫ちゃんの妙な歯切れの悪さはなんだろう。「家出とかじゃない」、という言葉に嘘はなさそうだが、とはいえ言いにくそうななにかを察することは出来た。
こういう言いにくそうな雰囲気がある時は、とある問題をその人物が抱えていると相場が決まっている。
――家庭の問題、その気配があった。
「そう。日帰りなの?」
母さんが続いて問いかける。姫ちゃんはこれには素直に「はい」と頷いた。
――引越しをしていなくて助かった、という発言もあったし、日帰りを想定していたのは万が一俺が見つからなかった時のためか。
こういう時、妙に準備がいいのは姫ちゃんらしい。昔から頼りになる女の子だったのだ。
……違う、なにを考えているんだ、俺は。
「帰りの新幹線の時間は?」
「お昼過ぎくらいです」
「じゃあお昼ご飯を食べる余裕はないわね」
「はい、あと少ししたら出ないと間に合わないんです……なのでちょっと慌てててですね」
母さんと姫ちゃんの会話を、黙って見送る俺。必死に脳内の考えを振り払っていると、母さんとの話に区切りをつけた姫ちゃんが急に言い出した。
「――シュウちゃんシュウちゃん、連絡先教えて? スマホ、あるよね?」
「えっ? あ、ああ……あるよ」
姫ちゃんに「出して」と言われ、俺の携帯が没収される。しばらくして返ってきたそれには、やたらとハートマークに囲まれた姫ちゃんの名前が電話帳に登録されており、同僚や上司の名前が並ぶ中で異彩を放っていた。
ちゃっかりトークアプリにも友達登録を行ったらしく、大学時代からの友人や仕事の連絡に使っていたそれの中で、それは一際煌びやかに見える。
「んふふ……」
と、姫ちゃんは妖しく含み笑いをして携帯を弄り始める。
周りの人間には目もくれずに没頭しており、こういうのを見ると年頃の女の子っぽいな……などと俺が些か失礼なことを考えていれば、手元の携帯が震えてトークアプリの着信を知らせてきた。
『よろしくね♪ シュウちゃん♡』
直後に、ハートマークを乱舞させた「大好き!」とアピールしてくるスタンプもやってきて、いかにも恋人へ送るメッセージといったところ。
……やはり今の姫ちゃん、テンションが振り切れる勢いで上機嫌らしい。付き合ってからはなんだかんだ奥手だった彼女が、文面だけとはいえここまで直接的にラブコールをしてくるとは。
――舞い上がりそうになった心を宥めつけ、緩みそうになった頬に鞭を打つ。
「あっ、ねえねえシュウちゃん、大人になるとコーヒーが美味しくなるってほんとだった? シュウちゃん、コーヒー嫌いだったでしょ?」
上機嫌な姫ちゃんは、周囲の反応に気づかない。
俺が必死に心を抑えつけているのにも、俺の両親が不信感を宿した目で俺たちを見ているのにも、彼女は気づかない。
――他愛もない、けれど十三年間の空白を埋めるための、忙しない姫ちゃんとの会話。それが尽きるなんてことはありえず、そうこうしている内に、彼女が帰らなくてはならない時間がやってきた。
「じゃあバイバイ、シュウちゃん! またすぐ会おうね! あと今夜電話するからね! ぜったいだからね! ぜったい、だからねっ!」――なんて。
過剰なほどの念押しをして、姫ちゃんは去っていった。
……残ったのは、猜疑心と不信感を抱えた、俺と両親のみ。
「……あの子は、本当に優希姫ちゃんなのか?」
父さんが、重苦しく尋ねてくる。その言葉に、言葉以上の重みと意味が込められているのがわかった。
「……わからない。でも、俺から見ても、あの子は姫ちゃんの生き写しみたいに見えた。姫ちゃんかどうかなら、姫ちゃんなんだと思うよ」
「でも」、と続ける。
「……本気にはしてないから、大丈夫だよ」
父さんの問いかけの、その本意は。
きっと、「お前はあんな世迷言を本気にしているのか?」だろうから。
「……。……そうじゃない。お前、ずっと昔から引きずってるだろ、優希姫ちゃんのこと。そこにあの子が来て、辛くないのか」
――違ったらしい。父さんは、そして同じような表情をしている母さんも、俺の心配をしていたようだ。
そりゃあ、そうか。父さんも母さんも、姫ちゃんを亡くした後の俺がどれだけ引きずっていたかを、リアルタイムで傍から見ていたんだ。高校卒業後に六年間帰省しなかった理由に至っては、俺は隠すこともしていない。
そこへ、奈津姫となった姫ちゃんが現れて。
――その彼女の言葉が真実だと感じながらも、「そうじゃないから」と否定する俺を見て。
……心配、してくれたのか。
「…………」
……辛くないのか、だったか、父さんから言われたのは。
そんなもの。
――そんなもの、
「……大丈夫だよ、辛くない。ちゃんとあの子と話して、きちんと終わらせるから」
――俺は嘘を吐いた。
真実を言ってしまえば、耐えられなくなると思ったから。
……そうでもしなければ、押し潰されてしまいそうだったから。
「……。……そうか。それならいい」
父さんはそれだけ言って、それ以上の追及をしなかった。母さんも、特別俺になにかを言うことはない。
――姫ちゃんが生まれ変わった、やったー……なんて、気軽に考えてはいけない。
「……ところで母さん、お腹空いた。昼ご飯ってなんかある? ないなら自分で作るけど」
「用意してるわよ。久しぶりに帰ってきたんだから甘えなさい。それよりほら、あなたの部屋の掃除なんか私してないんだから、今日の寝床のためにもあなたは掃除よ」
――姫ちゃんが生まれ変わることは、夢に見るほど渇望したことだ。だけれど、間違えてはいけないのだ。
「うわ、六年も? すごい大変じゃないか」
「ええ大変よ。もちろんじゃない。お父さん、ゴー」
「父さん、カモン」
「……はいはい」
――あの少女が、姫ちゃんかどうかなど関係ない。俺が生まれ変わったあの子と関係を結ぶ、それが間違いなのだから、俺は切り捨てなければいけない。
「うげ、蜘蛛の巣……もはや大掃除だなこれ」
「文句言わずにやるぞ、秀司。掃除道具どこだっけな」
「こっちじゃなかったっけ? あぁ、あったあった」
――年齢差だとか倫理的な問題はもちろん、姫ちゃんを〝求めていた〟俺の心への、致命的な裏切りになってしまうから。
「父さん、マスクする?」
「するか。しなきゃダメだ」
「だね。はいこれ」
――彼女が亡くなってからの十三年間、姫ちゃんのことをずっとずっと求めてきた。けれどもそれは、求めると同時に、「絶対に手に入らない」ということを胸に刻み続ける日々であったとも思う。
「……よし、俺こっちからやる」
「じゃあ父さんはこっちからだな」
――そう、あの少女を受け入れることは、してはならない。
なによりも俺の胸が、「それは違うことだから」と叫ぶから。