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痴人の愛

 

 耳元で愛塚が囁いた言葉は俺の心を優しく浸食してきた。男の情欲を掻き立てる濃厚な雌の匂い。豊満な胸に理性は完全に溶かされる。


「文香!」

 最大限の力を振り絞って文香の名前を呼ぶ。俺が好きなのは文香だ。文香だけしかいない。文香。文香。文香。


 俺は文香の笑顔を思い浮かべる。


「俺が好きなのは文香だけだ!」


 だが、サキュバスは俺の口元に指をあてて黙らせる。その顔には捕食者の余裕があった。


「怖くないわ。大丈夫。あなたは私が好きになる」


 再びそう言われると、頭の中の文香の笑顔に変化が生じる。

 輪郭が、文香の顔の細部が徐々に不鮮明になる。あれだけ好きだった文香の顔がぼやけて見えなくなっていく。文香の声、匂い、仕草、口癖。それらを思い出そうとしても何も出てこない。

 ぼんやり。写真のピントが合うように、再び景色が鮮明になる。だが、そこにあるのは文香の笑顔ではなく、愛塚の顔だった。


「あぁ!」


 自分の無力さに絶望をする。俺は文香の夫を名乗る資格はない。



「どう? あなたが本当に好きな人は誰か、私に聞かせて」

 愛塚は俺に尋ねる。


「あ、い」

 違う。この女じゃない。絶対に違う。俺が好きな人は。俺が本当に好きなのは!


「ふみ、か......」


 俺の言葉を聞いて愛塚は困惑の表情を浮かべる。



「この状況に置いてもまだ私を好きにならないのね。なんて素敵な愛なのかしら」

 少し悲し気に愛塚は視線を地面に落とす。

 その瞬間、身体が少しだけ動いた。


「うおぉ!」


 痺れる身体を無理矢理動かし、腰のナイフに手をかけると、自分の太ももに突き刺す。

 血が噴き出し、痛みと共に自分が少しだけ戻る。そして俺は必死に文香を思いだす。徐々にだが、文香の笑顔が浮かんでくるような気がした。それにより理性も戻ってくる。


「『The Gre(グレート)at Gatsby(ギャッツビー)』」



 超集中力の世界で文香のことを完全に思い出す。そして状況を判断し愛塚を殺すという選択をする。ナイフで愛塚の心臓に切りかかる。

 俺のナイフは愛塚を捉えるが、愛塚の回避がギリギリ間に合い、とどめを刺すには至らなかった。俺は即座に追撃を放つ。


「【痴人の愛】」


 だが、愛塚がギフトを使用した瞬間、俺の身体は再び完全に硬直した。


「あなた、本当に強いのね。惚れ惚れしちゃう」

 目にハートを浮かべて愛塚は言う。愛塚は俺の右手のナイフを取り上げるとそれを後ろに放り投げて、俺を椅子に座らせる。パチンと指を鳴らすと、愛塚の手には麻縄が握られていた。愛塚は俺の腕を椅子の後ろに持っていくと、麻縄で縛る。そのまま足首も縛ってくる。


「お前は何者だ?」

 口が動かせるのに気が付いて、俺は声を発する。


「私はサキュバスよ」


「目的はなんだ? 二人を殺したのはお前か?」


「そうね。間接的ではあるけれど二人を殺したのは私よ。といっても悪気はなかったのだけれど。彼らは私より弱かった、ただそれだけ。弱い男はサキュバスとの性交渉で命を落としてしまうの。

 それと、はっきり言っておくと、彼らとの行為とあなたとこれからする行為は全くの別のものよ。彼らと交わったのはお腹が空いたから。あなたと交わるのは子供を作るため」


「どういうことだ」


「サキュバスはどうやって子孫を残していると思う? 答えは簡単」

 愛塚は俺の目をみってゆっくりと発音をした。

「セックスするの」


 既に傷は塞がっていたが、太ももの痛みを意識して、理性を保つ。


「サキュバスには100年に1度の周期で生理が訪れる。そのタイミングで相思相愛のまま交われば100%の確率で子供が生まれる。こうみえても私はサキュバスの中では高位の存在なの。血筋だけで言えばサキュバス・クイーンを産むことができるくらいね。だから強い人間の遺伝子が欲しかった。あなたを一目見た瞬間、この人しかいないと思ったわ。そのための食事として二人を食べた。

 勘違いしないで欲しいんだけど、彼らに私のギフトは使っていないわ。私のギフト【痴人の愛】は100年に一度、一人の人間にしか使えない。だから彼らに使う余裕なんてないわ。彼らは勝手に私に惚れただけ。元々は一人だけしか食べない予定だったのだけれど、行為が終わって、寝ている間にエドワードが夜這いをしてきてね。せっかくだから美味しく頂いたわ。最低の男よね。結婚を誓った恋人の隣で私と交わるなんて」


 あのエドワードが。にわかには信じられない話だ。だが、愛塚に嘘をつくメリットはない。


「行為の内容が捕食であれ、子作りであれ、弱い男はサキュバスと交わった後に命を落とす。だから彼らは死んだ。あなたは私より強いから死ぬことはないわ。それに、あなたが望むなら私との記憶は完全に消してあげる。だから安心して私のことを好きになって。今夜だけはあなたの女になりたいの」


「その相談には乗れない。俺は文香以外の女性を好きになるつもりはない」


「あら、残念。なら強硬手段に出るしかないわね。私のギフトは愛した男と交わるためのもの。その力の全てを発揮するには、キスをすればいい」


 愛塚は俺の顔に手を添える。


「やめろ!」


 キスはまだ文香ともしていない。これだけは絶対に死守しなければならない。愛塚は叫ぶ俺の唇と指でなぞる。すると先ほどまで動いていた口と喉が固まり、身体の全ての動きが封じられる。


 愛塚のふっくらとした血色のいい唇が俺の唇に近づく。

 まずい!

 しかし、次瞬間、愛塚の動きは止まる。


「えっ」

 愛塚が驚きの声を漏らす。


 ポタリ。


 愛塚の胸を突き出した刃の先から血の雫がしたたり落ちる。鋭い刃物が背中から心臓を貫いていた。愛塚が振り向いた先にはレイピアを手に持つ文香がいた。文香がレイピアを引き抜くと、愛塚は地面に倒れる。文香はその姿を見下ろしながら、無言のまま指で拳銃の形を作り、愛塚の頭部に狙いをつける。


「『檸檬れもん』」


 どこまでも冷徹な声で文香がスキルを発動する。指からは紫色の光線が放たれ、愛塚の頭部に当たる。


 グチュグチュ、グチュグチュ。頭部から首、腕、愛塚の身体が膨張していく。


 グチュグチュグチュグチュ、ブシャ!!


 膨張した身体は風船が弾けるようにして爆発する。


 じゅー。


 しばらくして檸檬の香りと共に、愛塚の身体は跡形もなく消えた。


「あなた!」


 文香はただそれだけを言うと、俺の縄を振りほどく。

 身体が自由になった俺は迷わず文香を抱き寄せる。


「文香」


 言葉はいらなかった。抱き合うだけで俺たちは通じ合うことができた。



 ***


 翌朝。

 二人だけの食事を食べる。


「やっぱり私の言う通りだったじゃない」


「そうだな」


 昨日の朝、文香から愛塚が怪しいという話をされた。『時計仕掛けのオレンジ』を使っていたため大丈夫だろうと俺は高を括っていたが、文香は女の勘が愛塚は危険だと言っていると断言した。

 和の国の使者のこともあり、『時計仕掛けのオレンジ』が完璧なものでないのはわかっていた。だから保険として、俺はスキルを入れ替え『ユービック』をセットした。

 そしてそれを俺と文香に使用した。だが、『ユービック』を持ってさえも愛塚のギフトは俺を洗脳した。文香も起きようとしたが金縛りと耳鳴りにあっていたらしい。だが、文香は俺の叫び声を聴いて、どうにかして体を動かした。そして俺を助けた。


「どうして文香は動けるようになったんだろうか」


「わからない。愛じゃないからしら。それこそあなたが洗脳されてもまだ私の名前を呟いたことだって謎じゃない」


「確かにな」


 おそらくそういうことなんだろう。愛塚の俺に寄せる愛よりも、俺たちの愛は偉大だったということだ。


「あの姫様の噂話とかは本当なんだろうか? 聞いてみるか?」


『桜の樹の下には』を使えばアンデットとして生まれた愛塚から情報を引き出すことができる。


「いいえ。あの女の顔は二度と見たくないわ。それに恐らくだけれど作り話だと思う。男をこの山におびき寄せるためのものなんじゃない?」


「うん。まあその可能性は高いな。少し困ったな。これからの道はどうする?」


「もともとは『A Study(シャーロック) in() Scarlet(ホームズ)』を使う予定だったでしょう?」


「あぁ。そうだった。どうにも朝は頭が働かない」


 文香の左手の薬指には指輪がはめられている。それはかつて陽菜さんがつけていた物で、今は俺たちの絆の象徴とも言っていいだろう。


 魔力量の高い文香の緋の目は目的地までの道を的確に見つけ出し、山を抜けるまで維持された。

 こうして俺たちは迷いの山を越えることができた。




今回の話は利用規約をよく読んでから書きました。おそらく大丈夫だと思いますが、まずかったら編集すると思います。一応これで旅路はひと段落ですね。須磨太郎のほうもそろそろ話が終わります。

須磨太郎には構想の段階では愛着が全くなかったんですけど、書いてるうちに段々好きになってきて複雑です。


いつも読んでくださる読者の皆様、本当にありがとうございます。

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