さらなる混乱へと
ハルは自分が緊張しているのを理解していた。自分には使命がある、その為に全力を尽くしてこようと幾度も心の中で反芻させていた。
魔物と戦った事は幾千とある、竜と死闘を繰り広げた事も。時には悪行を成そうとした悪人ともだ。
強敵と戦う時はいつも緊張していた。だがそれは、所謂武者震いというやつで心地よい緊張だった。
しかし今は違う。今相対する化け物を前にハルは、冷や汗と共に気を張り詰めていた。気を抜いたらそれで全てが終わりそうな、そんな緊張感に包まれているのだ。
(……災厄の獣、まさかここまでの存在感とは!)
目の前で蠢く何か。今も形を変えていく災厄の獣にハルは動揺していた。それはロワ王から与えられていた事前情報と話が違っていたからだ。
(災厄の獣は人の形、もしくは獣の姿を模しているという話だったんじゃないのか!?)
しかし聖剣はハルの知る限りで初めての反応を示している。聖剣は眩く光を放ち、ハルを包み込んでいるのだ。
それと同時に内側から溢れ出てくる大きな力が、少しずつだがハルに冷静さを呼び戻していた。それは余裕が少しではあるが出来てきたという事でもある。
「……よし、エリスは彼女を結界で守りつつ後方支援、ミリアは俺に合わせてくれ」
「了解なのです!」
「りょーかい」
スゥとハルは息を吸うと気合いを入れるように叫ぶ。
「———いくぞっ!」
先陣を切るのはハルだ。聖剣の力で身体能力が向上しているハルは高速で災厄の獣へ突撃する。
左斜め下から切り上げるように聖剣を振り抜くと、剣身から光を放出し、眩い斬撃がカマイタチの様に放たれる。
災厄の獣は煙の様に体を散らすと、その場から姿を消す。放たれた光の斬撃はそのまま宙へと飛んでいく。
ハルはそれが分かっていたように、足を止めず五感を研ぎ澄まし、災厄の獣の位置を感知しようとする。だがそれよりも早く、攻撃の手が伸びていた。
何もない虚空から突如、漆黒の刀身が何本も現れてハルを切り裂こうと背後を奇襲する。
一瞬遅れて反応したハルが片足を軸に背後に振り向き、振り上げていた聖剣を咄嗟に顔の前にかざして急所だけは守る。
「ふっ!」
ギンッ! と金属と金属がぶつかる音を響かせながらハルは残りの刀身を回転斬りで弾く。それと同時にハルが首を横に振ると顔の横を矢が通り過ぎる。
その矢は今まさにハルの背後に現れた人影を射抜いた。
「ちっ、流石にこれだけじゃあ無理か」
ミリアが舌打ちをする。確かに矢は敵を射抜いた。しかし、射抜かれたのと同時にその姿は爆発したように煙を撒き散らして姿を消したのだ。
「前に戦った霧のモンスターと同じ……? 一定の形を保つのではなく一定の条件の下でしか形を作れない?」
ロワ王からもらった事前情報が役に立たない今、こうして目にした現象を理解しようとミリアが必死に頭を働かせる。
戦場では情報が命綱となると歴戦の戦士であるミリアは理解していたからだ。相手を知らなければ決して勝つ事が出来ない相手なのだから。
そしてそれはハルも同様であった。
(何もないところからの攻撃……。気配は周りにあるせいで攻撃に気づかなかった)
気配が周りにある、という点にハルは着目した。ここまで近づいていればもはや災厄の獣がどこにいるのか、勇者としての技能が無くとも感知する事が出来る。
しかし気配はまるであの災厄の獣のように不透明で感知しづらいのだ。感覚的なものを言葉で表すとしたら、薄氷だろうか。
薄く伸びたような、霧のような、広いのに浅い、といった感じだ。分かりづらいが、もちろんこれはハルの所感であり、他の者からしたらまったく別の感想を抱くだろう。
例えば、この一瞬の攻防を見ていたヒスイの場合はこうだ。
(彼らには見えていない……?)
ヒスイの目には、災厄の獣の姿がしっかりと映っていた。厳密には、災厄の獣であろう形を。
それは黒い霧だった。辺りに漂う黒い粒子が時折収束して形を成しては風に吹かれたように形を散らす。そんな光景が、ヒスイには見えていた。
(この事を伝えるべきでしょうか……? しかしそれは……)
辺りを警戒する勇者の姿を見て、それは駄目だとヒスイは思い直す。
(あの光……身体中から発せられる危険信号……。あんなものに切られてしまっては天殿が危ない……!)
どうして危ないとか、そんな事はヒスイには分からなかった。ただ何となくそう思ってしまうのだ。
毛虫などを見て生理的嫌悪を感じるのと同じように、ラースを身に宿す彼女にはあの温かいであろう祝福の光をどうしても受け入れる事は出来なかった。
ただただ漠然と、危険だとそう思ってしまうのだ。
(何も出来ない自分がもどかしい……! 何か……何か天殿の助けに……)
その焦りが表情に表れていたのか、ヒスイに話しかける声があった。
「大丈夫なのです。きっと私達がアレを倒してみせるのなのです」
状況を不利と見て表情を曇らせた被害者の女性———そんな風に見えてしまったエリスからの優しい言葉。
ヒスイは思わず否定の言葉を出そうとして、やめた。やるべきは、否定の言葉を伝えるのではなく、別の言葉だ。
「……お願いがあります」
「はい?」
「実は先程の、……っ、化け物、について……」
騙すためとはいえ、恩人を化け物呼ばわりするのにヒスイは言葉を詰まらせてしまう。しかしそれでも、ヒスイは言い切る。
「私の知り合いが体を乗っ取られているんです。どうか、後生ですから助けてください……!」
その言葉は、効果覿面だった。エリスは顔を青ざめ、その言葉が聞こえていたミリアは「はぁ!?」と叫ぶ。
「ちょ、何? じゃあ今私達が相手にしてるのって……」
「彼は……タカシ殿は人間です!!」
ミリアは思わずヒスイの方へ体を向けるのと同時に、ハルの怒鳴り声が背中に叩きつけられた。
「バカっ! 余所見をするな、後ろだっ!!!」
「!?」
ドンッ! と鈍い音が聞こえる。一拍遅れてメキメキッと背中から嫌な音が鳴り響いた。
「ミリアちゃん!」
エリスが叫ぶ。少し遅れて、ハルが走る。けど間に合わない。背後に出現した酷く歪んだ巨大な腕は、血を吐いて倒れるミリアを掴む。
醜い片腕だけが宙に浮き、エリスを掴むという奇妙な光景。
この場にいた皆はもうダメだと思った。何故なら、今にも握り潰されそうになっているミリアから骨が折れる音が連続して響いているからだ。
(ダメだ)
ヒスイはそう思った。
(貴方がそんな事をしちゃダメだ!)
そう思ったからこそ、ヒスイは叫んだ。
「貴方がここでそんな事をしたら、ネル殿はどうなるのですか!」
ピタリと、腕が動きを止めた。
「ネル殿を変えられるのは貴方だけでしょう! 人を殺したらもう戻ってこれなくなる!」
この時、天に記憶は無かった。そもそも自意識が無かったのだ、意味の分からない言葉に耳を傾ける事自体に無理があるだろう。
誰とも知らない意識の集合体である化け物はそれこそ動きを止める必要性など無かったはずだ。なのに、動きを止めてしまった。
「ミリアを……離せぇぇぇぇぇ!!!」
動きを止めた腕に聖なる一撃が加えられる。ハルは聖剣で腕を両断すると開かれた手から落ちるミリアを脇に抱えてその場から離脱する。
「間に合った……!」
(……っ、アイツ……!)
ミリアは今現在危険な状態だと看破したハルは、霧散して消えた腕に怒りを覚える。それをグッと飲み込む、今は自分の感情よりも優先する事があるからだ。
ハルは急いでエリスの下へ駆け込む。エリスは治癒魔法を使えるヒーラでもあるので、ミリアを死なせない為にもこの場ではエリスに頼むしかなかったからだ。
「ハルちゃん! ミリアちゃん!」
「エリス、悪いが結界を維持したままミリアを頼む。俺はアイツを———」
倒す、と言いかけた矢先にエリスが言葉を遮った。
「違うなのです、ハルちゃん」
「……違うって、何がだよ」
「すいません、あの人は悪くないんです」
「……なんでだ?」
ここで貶さず冷静に話を聞けるのがハルの長所でもあった。しっかりと話を聞いた上で判断する、人格者でもあるのだ。
例えそれが見知らぬ人の言葉でもあっても、ハルはヒスイの言葉に耳を傾ける。
「彼は……私の知り合い、いえ命の恩人なのです。どうしてこうなったのかも後で説明致します、ですから何卒、刃を向けるのをやめて欲しいのです」
「……貴女はアレに救われたと?」
「……はい」
ハルは一瞬迷いを見せるが、それでもヒスイに伝えた。
「無理だ」
「っ、何故ですか……!」
「俺は勇者だ。さっきは怒りに我を忘れそうになった未熟者ではあるが、それでも人を救う為にこの力はある」
「なら!」
「貴女が何を勘違いしているかは分からないが、アレは人なんかじゃない。それに、俺達がおっているモノとも違う何かだ」
ここで驚いたのはヒスイだけではなく、仲間のエリスもだった。
「で、でもアレは」
「多分だけど、勇者だから分かるんだと思う。俺の中の何かが訴えてるんだ。アレは異質な何かだ、って。そもそもロワ王から聞いた話とは———」
ハルが言葉を止める。それは目の前で起きた現象に意識を奪われたからだ。
「……誰だ?」
人が立っていた。腰まで届くだろう長い髪、その髪はひどくボサボサで、長年手入れされてないのが見た目で分かる。
腕も皮と骨だけでとても細く、まるで何も与えられず餓死してから何日も経ったような、それはひどく物悲しい姿だった。
「黒い、髪……」
傷んだ髪であるというのに、髪の色は漆黒であった。まるで髪だけは生きているかのように艶もあったのが違和感を感じさせる。
長い髪は顔を隠してしまい、その人物がどのような表情をしているのかも分からない。しかし、ヒスイにはそれが誰なのか、何となくではあるが分かっていた。
「タカシ殿……?」
霧のように展開していた黒い粒子はヒスイにはもう見えなかった。だが、突如現れた謎の人物は、ドス黒い人の形をした何かにヒスイは見えていた。
そして、静寂が支配する場に新たな混乱が訪れる。
「美味そうな匂いがしたんで来てみれば、これまた上等な食料があるじゃねえか」
ハル達がいる場より少し離れたなだらかな砂丘の上に、人影が立っていた。
その口調、その声、ヒスイには聞き覚えがあった。それも最近まで聞いていた声だ。
声の主へと視線を転じると、不敵な笑みを浮かべている黒い髪をなびかせた———ネルが立っていた。




