呪い
ずっと、ずーっと胸に残っていた。
棘が刺さったみたいにチクチクして、気にしないように目を背けていた。けれど、それにも限界があった。
僕は幸運だ。それは今でもそう思える。確かに様々な不幸はあったけれど、それでも全てをチャラに出来る出会いがあったのだからそれで良いと思っていた。
記憶喪失、髪の色で差別される環境、見たこともない新世界、身寄りのない自分。怖い事だらけだった、日本とは大違いで死が身近にあった。
———深い森の中、気付けば僕はそこにいた。
◇◆◇◆◇
誰かと喋っていたような気がする。顔も声も思い出せないけど、何となくそんな気がした。
「うっ……」
鼻につく草の匂いに僕は目を覚ます。ここはどこだろう、そう思い周りを見渡す。
「こ、こは……」
ズキンと頭が痛む。見覚えがある、僕はここに来た事があるはずだ。なのに、その既視感がどうしてか自分の様に思えなかった。
まるで他人の記憶を覗いて、その人が訪れた事のある所を自分が知った気になってるような、そんな感覚だ。
僕はここに来た事があるはず。
———本当に?
「っ……」
痛みが何かを訴えるかのように痛みと共に知らない記憶が何度も出てきては消えていく。まるで水泡の様に、出ては消えていくのだ。
知らない家族、知らない子守唄、風に吹かれる麦畑、眠る赤子、祈りを捧げる隣人。
「違う……」
愛してると言ってくれた若い男、雨に打たれて寒いと思う自分、泣き叫ぶ小さな子供、何かを一生懸命に作っている男性。
「誰だ……」
体を持ち上げて幸せそうに微笑む母親の顔、鍛錬に励む男の背中、器用に糸を紡ぐ女の子、鬼ごっこをする友人。
「こんなの……知らない……」
心地よい風に思わず微睡んでしまったあの瞬間、朝がやってきて今日がまた始まるのだと気合を入れる私。
「僕は……私は……俺は……」
———自分は誰なのか。
分からなくなって、それが無性に怖くなってくる。
「誰か……助けてよぅ……」
暗い所で一人、涙をこぼす。この声も、涙も、届かないと知っていても、言わずにはいられなかった。
「お願いだから……『私』を見てよ……」
◇◆◇◆◇
「——————!」
耳障りな雄叫びをあげる蜘蛛のような黒い化け物はその足を使い目の前でぴょんぴょんと動き回る餌を切り刻む。
「———ぬぐぅうぅぅ!」
しかし、飛び散った血も、えぐり取られた肉も、切り傷も何事も無かったかのように元どおりの姿を保つ姿があった。
『ラース殿!』
「悪いが体を気遣える程余裕は無いぞ!」
内から響く声に思わずといった感じで叫ぶラース。見た目はヒスイだが、髪は黒く体からは炎が走っていた。
『距離はもう取れたと思いますがこれからどうするのですか!?』
「喋ってる暇がないんだよっ!」
口調を崩しながらも全力で暴走した天の攻撃を回避し続けるラース。しかしそれにも限界が迫っていた。
(どれぐらいの時が経った……? ここまでくれば少しでも攻撃をしたいが……)
そう、ラースはいつでも攻撃は出来るはずなのだ。しかし、ここまで暴走した天を引き付けている間、ラースは一度の攻撃を除いてまったく攻撃をしなかった。
理由は、天の状態にあった。
(……再生する様子はない、か)
ラースの視線の先には、項垂れたまま動かない天の姿だ。その体は一部分が焼け爛れていた。
この火傷はラースが威嚇の意味も込めて炎で焼き払った時に受けたものだ。その時、ラースはとても驚いていた。
ラースや天といった真性の化け物の類にはある特徴があった。それは肉体が無いという点だ。
そもそも呪いは何で出来ているのか、その疑問から答えよう。答えは至極単純、人の気持ちから作られている。
誰かを憎いと思う気持ち、殺意、悪意、怒り、嫉妬といった一般的に悪感情と認識されるものが呪いの正体だ。
不思議に思った事はないだろうか?
昔は壺に自身の悪感情を吐き出すといった行為が存在していた。それは自身の内側に悪感情を持ち続けたままだと内側から腐ってしまう、といった教えからだ。
現代で例えるならば大声で叫んでスッキリする、といったようなものである。確かにそうすれば吐き出した本人はスッキリするだろう。忘れられるかもしれないだろう。
しかし、だ。吐き出された悪感情は、言葉は、どこへ行くのだろう? そんな素朴な質問に、答えられる者はいるのだろうか?
この答えを持っている者は少なくとも、この場ではラースだけだった。
ラースは、この世界において怒りという感情により構成された呪いだからである。人間という種が生まれ、感情というものが誕生してからラースは生まれた。
人間は進化を続けていく過程で、感情も豊かになっていく。怒りという感情も当然生まれた。
怒りは行動となり、言葉となり、いつしか忘れ去られる。捨てられた感情は少しずつ、少しずつと蓄積されていった。
そして———ある時、『それ』が生まれた。
目に見えぬ蓄積された悪感情は意思を持ち始めたのだ。
自身にあるのは誰かの怒りだけ、だから怒りという名の化け物だ。そこに自分の怒りは存在しない、誰かの為に怒り続ける機械の様な存在。
存在する意味はそれだけしかない。虚しいとか、そんな疑問など無かった。それ以外を知らなかったからだ。
そしてその化け物は、ある時は神として封じ込められ、ある時は悪霊として術師に祓われ、ある時は妖怪として恐れられてきた。
しかし、ついぞ『それ』が消える事はなかった。
呪いとして誕生した『それ』は起源となる感情がある限りけっして消えないからだ。人が人である限り決して消える事のない存在、それが呪いである。
(だからこそ、我々には傷つくという概念がない)
前方から突き出される刺突攻撃を食らいつつ、背中を見せない様バックステップで距離を取り続ける。
(例え腕が千切れようが何だろうが、関係がない。要は水の様なものだ。水に形はない、水がある限り水という存在であり続ける……その様な存在だ)
ラースは自身でその答えを再確認確認する。
(あの少年……いや、こいつは我々と同じ存在だ。わざと人の形を模しているに過ぎない)
だからこそ不思議だった。化け物である天が何故人間のように振る舞い、人間のように血を流し、人間のように感情を持っているのか。
正直なところ、気持ち悪かった。命の危機に瀕した時は当たり前のように体を再生して、呪いの様に振る舞うくせに、何故それを意図的に封じているのか。
まるで、呪いを否定しているかの様な錯覚を味わった。しかし、だ。
一方的に嫌う事も出来なかった。救われて、ヒスイと共に在り続けられるのは、紛れもなく天のお陰でもあるからだ。
ラースは知らない。この葛藤こそが、人間の感情だという事に。だからこそ意味の分からない感情に嫌悪感を覚える。
(———っ、意識がぶれる……)
視界が明滅する。どうやら力を使い過ぎたようだ、体を動かす気力も無くなっている。
それに合わせてラースの髪の色が黒から白へと変化していく。その様はまるで浄化されているかのような———
「げほっ、ごほっ!」
視界が一際明るく明滅すると同時にヒスイは見ている景色が変わっている事に気づく。自分の体が、思い通りに動かせる事も。
「ラース殿!?」
思わず声を張り上げるヒスイ、その瞬間に体に衝撃が走る。ドンッという体から響く音、続いて腹部から異常な程の熱と痛みが襲ってきた。
「あっが……げぼっ」
ヒスイの口から大量の血が流れる。視線を下げて自分の腹部を確認すると、真っ黒な触手のようなものが腹に貫通していた。
弱々しく視線を上げると、そこには蜘蛛の形から逸脱している形の不安定な化け物がいる。見ているこちらが不気味に思える程に、その化け物は体を揺らめかせていた。
煙が常に同じ形ではないように、この化け物も常に一定の形を保っていなかった。
「タ……カシ……殿……」
天の姿はもうない。形を変えたのか、あの影の中にいるのか、判別はつかない。朦朧とする意識の中で、何かが口を大きく開けて、咀嚼する音を聞いた。
「———し……りし……」
声が聞こえる。誰かが呼んでいるようだ。
「———を、……してく……!」
少しずつ、少しずつ意識が底から浮上していく。
「———しっかりしろ!」
ゆっくりと目を開くと、真っ白な光が目に飛び込んできて目を閉じようとする。しかし、それも慣れてきたのか再度目を開くとそこには———
「もう大丈夫だ。俺達が来たからには安心してくれ」
「そーそー、私達に任せなさい」
「あ、あの……。大丈夫なのです……?」
勇者達がいた。




