魔法使いと赤髪
砂漠を徒歩で踏破してしまったネル。呼吸も乱れた様子はなく、錬金大国【アルテミア】に足を踏み入れる。
「…………」
街はとても賑わっていた。黄色い煉瓦で舗装された床に布が所狭しと広げられており、皆一様に商売を行なっていた。
「……活気に満ち溢れてるな」
東の領土とはまた違った賑やかさにネルは眩しそうに一瞬目を細める。だがすぐに頭を軽く振ると意識を切り替える。
その行為に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
(意識の切り替えに違和感? ……別に不思議なことをしている訳じゃないんだが。別に意識の切り替えは心を鎮める時に……)
そこまで考えが至り、ネルは納得した。つまり、違和感を覚えた理由は単純な話で———
(初めて、か。他人を気遣うなんて事、私でも出来るんだな)
そう、ネルはこれから起こす出来事で大変な目に合うだろうこの街の住人にほんの少しだけ、可哀想だなと思ってしまったのだ。
気遣いというレベルでもなく、ほんの些細な哀れみではあるが、それでも確かにネルは他人について考えられるようになっていた。
少しずつ、確かに変わっていた。けれど、それでもだ。彼女の本質は変わらない。
(ま、やる事は変わんねえけどな。適当に二、三人バラしておけばいい感じに騒ぎになるだろ)
ネルは人に対して哀れみを覚えただけで、個人の命についてはなんの感慨も湧く事はない。彼女は、どうしても人として欠落していた。
そしてそれをネルは自覚している。そんなもんだろう、と。まるで他人事のように思っていた。
(パッと見た感じクソ勇者共は見当たんないな。よし、それじゃあ……)
フードをはためかせながら自然な動きで目の前の通行人に手を伸ばし心臓を抉り出そうと腕に力を込めた、その瞬間。
細い腕がそれを掴んだ。時の流れが緩慢になり、ネルは視線を横に移す。腕を掴んでいたのは厳しい顔つきの老人だった。
既に七、八十を超えてそうな見た目だ。ネルの腕を掴んでいるこの細い腕だって、簡単に折れそうなぐらい弱々しい。
だからこそネルは警戒心を高めた。
———こんな死にかけのジジイの接近も気付かずあまつさえ腕を掴まれた?
走馬灯のように様々な思考が脳内を駆け巡り、1秒にも満たない僅かな隙間で、ネルは一つの答えを導く。
単純明快、こいつは危険だから殺すと。そう意識を切り替えて体に力を入れるのと同時に、老人は口を開く。
「場所を変えよう」
ブゥゥゥンとブラウン管が点灯する時のような音がネルの耳に届く。
世界が一瞬何重にもブレたような錯覚がネルに起きる。それと同時に、風切音が轟々と聞こえてくる。
「!?」
気付けばネルは空へと放り出されていた。地上が遙か遠くに見えるほど高度があるようで落ちる勢いは段々と増していく。
(ジジイはどこにいった!?)
しかしそれらに気を取られたのは一瞬で、すぐさまこの状況を作った元凶であろう老人をネルは探す。しかしいくら周りを見渡してもその姿は見えない。
クソがっ、と舌打ちをしながらネルは仕方なく着陸するために意識を切り替える。
落下による風切音で聴き取りづらいがネルはとある呪文を唱える。するとネルの体が純白の光に包まれるかと思いきや、その中から真紅の鎧を纏った騎士の姿が現れる。
それは、ネルであった。懐にしまっていたアーティファクトを起動させネルは普段とは違う鎧を身に纏っているのだ。
普段と違う点は大きく分けて二つある。一つ目は一目瞭然で、無駄の無さである。
ネルが普段使用していた鎧は強度があるものの、全身を覆う鎧であるためかなりゴツいのだ。それが今回着用している鎧は実にスリムと言えよう。
フルプレートアーマに似たような作りだが、肩から肘にかけての鎧がなく、手首や肘などの可動部分には邪魔にならないようしっかりと隙間が存在していた。
もちろん下半身も同じで、まず膝当ては存在しない。足首近くの鎧も同様で、しっかりと動けるよう隙間があった。
軽装と言っても差し支えないほどの鎧であった。まるで必要最低限の防具を着けてきたかのような印象すら与えるだろう。
ただ急所を守るためだけの鎧、これがネルが好む装備でもあった。そして、それが不幸中の幸いとしてネルの身を守った。
「なっ……ん、だとっ!」
砂が、まるで一つの生き物のように蠢き、触手となりネルの体を貫いていた。全て急所は外れている、それは鎧が阻む事で攻撃箇所がズレたのだ。
「〜〜〜っ」
ネルは歯を食いしばりながら神経を体に集中させる。途端、体が痙攣したようにガクンガクンと震えを発する。
それと同時に、砂の触手が霧散した。空中で体制を崩してしまったネルは背から砂漠へと突っ込んでしまう。
砂柱が天高く上がり、砂煙が辺りを覆う。それを、少し離れた所から老人が見ていた。
(やはり只者ではないな。突然状況に応じて即座に場の把握をする胆力、そして行動の速さ。どれを取っても一級品だ)
もうもうと広がる砂煙を見つめながら老人はネルに対しての評価をしていた。
(気になる点は、人を殺そうとするのに躊躇がなかったところだが……。念の為に【アルテミア】から距離のあるここまで飛ばしたのだ。流石に今ので死んだろう)
そう思い、どんな顔だったのか見てやろうと落下地点へと足を運ぶ。足場が砂というのもあり、杖で歩くには不便ではあったがしっかりとした足取りで歩いている。
そして砂煙へと足を踏み込もうとした瞬間、砂煙からぬっと手が伸びてきて老人の顔を掴んだ。
「むぐっ!?」
「よぉ……やってくれたなクソジジイ……」
砂煙から出てきたのは身体中から血を滴り落としているネルであった。鎧は健在でしっかりと主人の急所を守っているようである。
それでも全身から血を流しているその姿は満身創痍に見えてしまう。
「貴様……まだ生きてっ!?」
「喋るなクソジジイ。テメェが出来ることなんざ一つもねぇ。ただ私に手を出した事を後悔しながら死ね」
老人の顔を握り潰そうと手に力を込める。ミシミシと嫌な音が聞こえてくる。その時、背後から砂の触手がゆっくりと近づいていた。
音も無く、静かにネルの後頭部を狙い突き進む。
「やめとけ。丸見えだ」
「やはり貴様見えていたな……?」
ネルが警告を発すると同時に返ってきた感情が無いような平坦な声にネルは警戒度を一気に上げる。
そしてそれは行動へとすぐに移された。ただシンプルに、全力で砂の大地へと叩きつけた。先程ネルが落下したのとは段違いの威力に、空いっぱいに轟音が鳴り響く。
「ちっ、偽物か」
砂煙で辺りは視界が悪く日差しすらも遮ってしまう。一度この場から離脱するべきと判断したネルはクラウチングスタートのように身を屈めると、次の瞬間目にも留まらぬ速度で走り出した。
「まぁ、そう来るよなっ、と!」
ネルの予想通り、逃がさんと言わんばかりに砂の触手が襲ってきた。しかしそれらをアクロバティックな動きで回避しつつも速度を緩めないのがネルクオリティー。
数分も経たないうちに、砂煙から脱出したネルは一度足を止める。視界が開けたので、周囲を確認するためだ。
「一面砂漠、か。どこら辺だここ……」
(そういや途中から砂のうねうねしたやつが襲ってこなかったな。様子見のつもりか?)
相手が諦めた、なんて事は考えない。ネルに楽観視という言葉がないのだ。
警戒は緩めず、相手の出方を待つネル。ただ待つだけではなく、気配を探ろうと集中している。
(中々引っかからねぇな……。なら、"魔力感知"か?)
ネルが感知範囲を最大まで広げて魔力だけをふるいにかける。大雑把ではあるが、それで魔力を持つ物、もしくは生物の位置が分かる。
ただしネルは気配以外での感知はからっきしな為、位置といっても方角しか分からないのだ。
(すんげぇ遠くからちっこい魔力反応が一つ、その近くに更に小さいがどす黒い……これタカシか? 似たような反応は姫さんか)
いかんいかん、と気が逸れた事に気付いて再度魔力感知を行う。
(西の方角に……何だこれ、気持ち悪い魔力……か? どっちかつーとタカシに近しい感じの……)
瞬間、昨夜の少女の言葉を思い出す。
———外からの流れ者の可能性があるの、天のように
(……見つけた。けどどういう事だ? 私の魔力感知で引っかかるぐらいなら他のやつらも気付けてるはずだよな?)
「理由は分かんねぇが……。まずはこっちを終わらせてからだな」
そう言うネルの前には傷一つない老人が立っていた。ネルから見ても、一目瞭然であった。これは紛れもなく。
「魔法使い様と来たか、お会い出来て光栄だね」
「こちらこそ。お初お目にかかる、赤髪よ」
その魔法使いの視点をもってして、老人は判断した
。コレは危険だと、後の世に傷を残すであろう化け物を今ここで討つべきだと。
だからこそ、老人は慢心もなく手加減もなく、全力で羽虫を潰す作業を行った。
「———風よ」
小さな、搔き消えそうな言葉で紡がれた言霊は、とある現象を起こした。それは天変地異だ。
昨夜土地ごと消失したあの大穴よりも、遥かに大きい規模で破壊を行う嵐であった。天を抉り、地を裂き、存在する形あるものをやがて塵へと化す。
魔法使いは判断した。ゆえに、土地が消失しても構わない、確実に赤髪の息の根を止めるという意思が出来た。
文字通り何も無くなっていく。存在するのは視覚化されている風と宙に立つ老人の姿だけだ。
数秒後、西の領土の砂漠地帯の三割が消失した。




