混乱、そして決着
———ネ、……さ、……!?
遠くから声が聞こえる。けれど何を言ってるか聞こえない。
———ち……と、ネ……ん……てば!
まただ、遠くから声がする。けれどやはり、聞こえない。いや、さっきよりは聞こえてくる。
———あ……と、ネル……ん?
そうだ、私はこの声に応えないと。何か、また大切なモノを失いそうな気がする。耳をすまさなくては。
———ネルさん!
今度こそ聞こえた。私の名を呼んでいるようだ。けど、誰だろう? 私の名前を呼んでいるのは。
意識が一気に引き上げられる。
海の底に沈んでいた私の心は海上へと放り出された。
◇◆◇◆◇
「ネルさんってば!!」
「———え?」
その声にハッとしネルは声の主へと錆びたロボットのようにぎこちなく首を動かす。そこにいるのは、天だ。
ネルから借りているあのローブを言われた通り律儀に身につけて、髪が見えないようにしっかりと注意している天。
それがどうしようもなくネルの心を掻き乱す。
「……ネルさん? どうしたんですか?」
心配そうに見つめてくるその表情にネルは思わず顔を歪める。その歪みは不快からではなく、不可解からによるものだ。
あるはずがないのだ、ネルの腕で亡くなった者が目の前にいるはずがないのだ。
突然の出来事に頭が追いつかない、そもそも今自分がいるのが現実かどうかも疑わしくなる程にネルは混乱していた。
それでもあの懐かしい人の血の匂い、そして人の体温が失われていく感覚が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
———そもそも、私は今何をしようとしている?
ネルは少し落ち着くように深呼吸をする。そして体に十分酸素を吸い込むと少しは落ち着いた頭で考え、天に話しかける。
「……なぁ、私達って今何をしようとしてたんだっけか」
「……そこまで王様に会うの嫌だったんですか……?」
天の呆れ半分の表情にネルはまた少し落ち着きを取り戻してきた。
「嫌なのは認めるが、少しボーッとしててな。もしかしたら夢でも見ていたのかもしれん」
「まさかさっきまで立ったまま寝てたんですか!?」
「……そういう事にしておいてくれ」
「……本当に大丈夫なんですか? そこまで渋るなら別に無理して行かなくてもいいと思うんですけど……」
ネルは取り敢えず天との話を合わせる。今の会話でネルはある程度理解した。ここが現実であれ幻術であれ、過去に遡っている状態だと。
つまり、ネルがここにいる理由はロワ王による招待を受けて天と共に城内まで来た。ただそれだけの事だ。
それがネルにはとても恐ろしく思えた。
(……夢、にしては鮮明に覚えている。どういう事だ?)
これ以上は天に心配をかけまいと取り敢えず足を動かす。それに合わせて天も少し心配そうについてきた。
疑問が頭に溢れてきて処理が追いつかず少しずつ苛立ちを募らせる。ネルはそれを発散させるかのように玉座の間に繋がる扉を蹴って乱暴に開ける。
バゴン! と音が玉座の間に響く。するとそこには———
「……クソ勇者一行に狸」
既視感を感じるその光景にネルは苛立ちも忘れて激しい混乱へと落ちる。
それもそのはず、ネルにとってこの光景は一度目にしているのだから。そしてネルの考えを後押しするかのようにロワ王の声が響く。
「よく来てくれた! 内容は知っていると思うが勇者と模擬試合をして欲しいのだ!」
「…………」
ネルは無言だ。それに対してロワ王は気にも留めずハルへと顔を向ける。
「こやつが私の知る限り最強の騎士だ! ぜひとも試合をしてもらいたい!」
「分かりました」
ハルは驚いていた。騎士長というぐらいなのだからきっと礼儀正しく、自身の信念を貫く強者だというイメージを持っていたからだ。
しかしそれは思い違いだと思い知る。今目の前にいるのはそういうのとはかけ離れた荒々しさをハルは感じ取っていた。
ただ荒々しいのではない、そこには洗練された武ではなくただ力という暴力を持った戦士だとハルはネルに対する認識を改める。
「おい、そこの勇者」
「! は、はい」
「面倒だ、早めに終わらせたいからさっさとやっちまおう。おい!」
ネルが叫ぶと2人の騎士が慌てて木剣を持ってネルとハルに手渡す。
「一本先取、これで決めようか」
「……これまた随分な自信ですね。そのような姿で動けるのですか?」
「お前ごときにはこれで十分だろ」
ネルの言葉を侮蔑と受け取ったのか眉間に皺を寄せるハル。その顔を見てネルは少し安堵した。ハルの意識を自分へと向ける事がネルの狙いだったからだ。
(……どうにも不安が拭えん。だがこれであのクソ勇者もこちらに意識を割かざるを得ないだろ)
ネルは木剣を強く握りしめる。ミシリと音が軽く聞こえたが特に気にすることはない。いざとなれば素手でも勝てる自信があるのだから。
ハルは背中に背負っている聖剣をエリスに手渡すと木剣を両手で掴み、木剣を上段に構える。対してネルは片手で強く握りしめたまま脱力したように構えを取ろうとすらしない。
ネルが空いている片手で手首をクイッと曲げて挑発する。それを離れた場所から見ている騎士達とロワ王、勇者一行。それに天は緊張しながらも静かに見守っていた。
「———はっ!」
ハルが目にも留まらぬ速さでネルの懐へと潜り込み、木剣を斜めに振り下ろす。ハルは勇者としての能力、自身の全力を込めた全身全霊の一撃を放ったつもりだ。
事実、ハルの高速移動に反応出来たのは周囲の面々にはいない。それに加えていかに木剣とはいえハルの全力で振るった一撃だ。当たり所が悪ければ死、良くて致命傷になりえるかどうかという恐ろしい一撃なのだ。
だが相手はネル=ロージュ、その全てを覆すほどの強さを持った騎士長だ。そしてネルのとった行動は実にシンプルだ。つまり、振り下ろされた木剣に対してそれを弾いてすぐさまこちらの木剣で一本を取る事、カウンターだ。
簡単そうに聞こえるがこれ程難しいカウンターは中々ないだろう。
まず振り下ろされた木剣を弾く、これについては速度もついて振り下ろされた一撃だ、それを弾くというのだから生半可な威力では到底不可能だ。しかも相手が勇者となれば益々無理だろう。
次にカウンターだ。これを可能にするには先述の通り木剣を弾く事に成功しなければいけない。ただ弾けば良いという訳でもない、軽く弾いたところですぐさま態勢を取り直されたらそこでカウンターの成功率はほぼ0%となる。
だからこそ弾くにはハルの放つ一撃を上回る威力で態勢を崩さなければならない。そうする事でようやくカウンターを成功させる可能性が出てくる。
そしてカウンターを成功させるにはネルも木剣を速く振るわなければいけない。いくら隙を作ろうとも相手はあの勇者だ。ただ木剣を振るったところで対処されるだろう。
ならばどうするか、それはハルが反応出来ない程の一撃を放つしかないという事だ。
歴戦の強者でさえもこのカウンターを成功させるのは無理だろう。そもそもスペックが違うのだ、勇者と同じステージに立つという事自体が無理難題というものである。
それならばまだそれを回避し別の手を打った方が勝てる可能性もあるだろう。無理にカウンターをする必要はないのだ。
しかしそれをネルは、
「お前ごときで一本を取られる私は弱くないんだよ」
「がふっ!?」
いとも簡単に勇者にカウンターを決めて一本を先取した。ハルはカウンターによる木剣の一撃を腹に直撃し吹き飛んでいく。
ズズン、という揺れと共にハルは壁にめり込みそこで気を失ったようでガクリとうなだれる。
「ま、こんなもんだろ。じゃあな」
「え、ええ……?」
あまりにもあっさりとついた試合に周囲がポカンとしている中、天もそれに漏れずポカンとしていた。だがすぐさまネルに肩を軽く叩かれるとハッとするとネルの後を追う。
玉座の間で誰かが動き出すのに数分はかかった。その間ハルは気絶していた。
◇◆◇◆◇
「ネルさんやりすぎでは?」
「むしゃくしゃしてつい……」
そんな会話を城下町で二人はしていた。二人は屋敷へと帰る前に食料を買っておきたいと天が言ったのでネルもそれに同意して一緒に食料を買い込んでいたのだ。
しかしやはり全身を甲冑で包んでいる者が買い物をしているというのも物凄く人目を引いていたので、かなり目立っていた。
ネルは気にしていなかったが天が気にしたので買い物は早めに切り上げて急いで帰る事にした。岬までは少し遠いのでネルが重そうに持っていた天の荷物を代わりに持って歩く。
「すいません、持たせてしまって……」
「気にすんな。それより腹が減ったから帰ったら何か作ってくれないか?」
「分かりました〜。というかもう昼なんですね、時計がないから不便です」
天がそう言うとネルが首を傾げる。
「それもニホンとやらの道具か?」
「あー、やっぱり存在しないんですね……」
天はため息をつくと肩を落とす。ニホン、というより世界の常識がこの世界とはまったく違うのもあり、天の知識はほとんど通用しない。
それもあってまだこの世界に来てから日の浅い天は適応出来ずにいたりするのだが、ネルのお陰でなんとかやっていけているという状態だ。
「ネルさん」
「ん? どうした?」
「今日か明日にでも僕に勉強教えてくれませんか?」
天は迷惑かな、と思ったがネルは二つ返事で引き受けてくれた。それに安堵しながらも今後この世界でどうやって生きていくか考えなければ……と天は少し不安を抱きながらもやはり、期待と好奇心が心を満たしていた。