実戦訓練なので悪気はありません
「へっくしゅん!」
妙なむず痒さを覚えたカドは盛大にくしゃみをした。
森で開けた窪地でエイルと今まさに模擬戦を開始しようと向き合っていただけに、その意気を削いでしまったらしい。
身を抱いてぶるっと体を震わせるカドを前に、エイルは握っていた拳を解いた。
「えと……大丈夫?」
「うーん、なんでしょうね。複数の野獣に狙われているような悪寒が……」
「え?」
カドの言葉に、エイルは周囲を見渡した。
一対一の模擬戦として、サラマンダーと黒山羊はお休み中だ。反芻する黒山羊の上にサラマンダーが折り重なってこちらを見ている。
彼らは何の反応も見せていないし、この窪地の周囲にも何もいない。彼女は自分に近くできない範囲に何かがいるのかと疑問に思った様子だ。
「いるの、何かが?」
「そういう感じではないんですけど……うーむ。誰かに噂をされているんですかね」
カド自身も確かな形では感じられなかっただけに首を傾げていた。
しかし、掴みようがないものをいつまでも探っていても意味がない。息を吐いたカドはエイルを見つめた。
「……じゃあ、始めましょうか」
「いいの……?」
カドが浮かない顔のまま促すので、エイルは微妙に迷っているらしい。
「大丈夫です。やらなきゃいけないことですし。ここは無慈悲に、本気で来ちゃってください」
「う、うん。わかった」
拳を構え直すエイルは格闘技の有段者もかくやという様子だ。
いざゴーサインを出せば呼吸一つで気を集中させる。それこそ彼女はクラスⅤの肩を借りるつもりで全力で来るに違いない。
カドとしてはそれが憂鬱だった。
この模擬戦、エワズはエイルの力試しや技術向上を目指しているのではない。彼が狙っていたのはカドの訓練なのだ。
「――〈練気功〉」
武闘家としてのスキルを呟いた途端、エイルは動いた。
魔術師系統が使う強引な身体強化術式とは全く異なる、自然でバランスのいい身体強化と聞く。初速からして、いきなり全速力のギアが入るかのようだ。五メートル程度の間合いなんて瞬きの間に消え失せそうである。
「〈死者の手〉、五重起動!」
それを止めようとカドは無詠唱で魔法を唱えたが、エイルの対応速度はそれ以上だ。
目の前に〈死者の手〉が出現すると見るやサイドステップで躱し、最短距離で突っ込んでくる。これは最早、魔法による迎撃も間に合わない。
観念したカドは彼女の攻撃を受け止めようと構える。
右前足を踏みしめたエイルは左拳で顔面を狙ってきた。魔素の質で高まっている身体能力でそれだけ見定めたカドは腕で受け流そうと構える。
――だが、構えた腕に拳が突き立てられることはない。
その拳は直前でピタリと止まり、視界を塞ぐ傘として開かれた。
エイルはさらに左足を半歩進め、踏みしめる軸足を変える。
「〈衝破〉」
「やばっ……」
直後、エイルの掌打が腹に叩き込まれた。
その衝撃はとても少女によってぶち込まれたものとは思えない。
「痛ぁーっ!?」
もっともクラスの差というのはこういう時、如実に出る。
スキル込みで全力の打ち込みをされたものの、体の芯に痛みが響くことはない。厚いクッション付きで殴られたようなものだ。
しかし衝撃だけはかなりのもので、カドの体は森まで飛ばされた。エワズの尾で吹っ飛ばされた時と似たようなものだろう。二転三転としたが、すぐに起き上がる。
先程の場所を見やっても、エイルの姿はすでにない。
「早すぎだなぁ、もう。あれでクラスⅠかぁ」
そんなことをぼやいていると、後方頭上に位置する木からがさりと音がした。
十中八九、彼女だろう。振り向いて確かめる間なんてないので視界の安全圏に飛び込むことで距離を取ろうとする。
直後、カドがさっきまで立っていた位置にエイルが飛び蹴りで降りてきた。
しかもそこに居つくことはない。
即座に向かってきた彼女は、あろうことか垂直に立つ木の幹まで足場にして立体的に距離を詰めようとしてきた。
魔法で迎撃しようにも、彼女は軽く避けてしまいそうである。
「森の中って地理的に不利ですね」
最初の直線的な攻めからして、自分に有利な場所に連れ込むためだったのだろう。
カドはひとまず距離を取ろうとする。
だが――
「おっと……!?」
森の中は木の根が這っているため、動きにくい。エイルの動きを目で追いながら移動しようとしたものだから、足を取られてしまった。
こけるとまではいかないが、バランスを崩してしまう。
そんな隙を見つけると、エイルは即座に攻めてきた。
例えば手をついて障害物を越えるのと同じく、彼女は尾を器用に使ってバランスを取り、どんな体勢でも跳躍するのだ。あの尾は取って付けられたものだが、もはや自分の身として使いこなしているらしい。
再び距離を詰めてきた彼女は腹に正拳突きを見舞ってきた。
これも痛打とはならない。耐え凌げると元から踏んでいたカドはその手を掴まえる。
「さあて、これでもう逃げられな……」
力で勝っている以上、掴まえてしまえば終わり。そう思って笑みを作ろうとしたところ、彼女は冷静に構えを取った。
掴まれた手は腰に据え、相手の体勢を崩す。それからてこの原理を利用して、掴んだ指の隙間から腕を抜くとそのまま手の甲で目打ち。
腕を掴まれた時はこうするんだよと護身術講座をされるかのような流れる動作だ。
カドが『あっ、外される』と思った時には手の甲で目を打たれていた。
「だぁっ!?」
目は流石に胴体ほど衝撃に強くはない。
カドは思わずのけぞり――勝負は決した。
いつの間にか巻き付いていたエイルの尾に足を取られて仰向けに倒れると、マウントを取られて首を押さえ込まれた。残る片手を振り上げ、いつでも叩き込める体勢である。
「ううっ、こーさんです……」
未だに油断することなく気を尖らせた彼女に、カドは脱力して降参を示した。
しかし、彼女は眉を寄せて不服そうである。
生憎と上げるべき両手は彼女の太腿の下である。これ以上の敗北宣言はしようもない。
「カド、ちょっと手を抜き過ぎじゃない……?」
エイルはようやく手を下ろして問いかけてきた。
マウントを取ったまま退かないのは、少しばかり自尊心に傷がついたからだろうか。
そんな彼女に対し、カドは無抵抗なまま返答する。
「いや、できる範囲では努力をしました。ただ、僕はこういった場所は不得手だし、相手を殺さずにっていうのが苦手なんです」
使い魔であるサラマンダーの〈昇熱〉を利用したり、付与術師としての〈魔法付与〉と、その他死霊術師の魔法の組み合わせも同様だ。
カドの能力は効率を求めた結果、殺傷能力が高すぎるのである。
故に鎮圧で済ませること自体が難しい。それに加え、カドは続けた。
「あとは周囲一帯を毒霧で満たしたり、障壁で全防御なんてしたら訓練にもならないですよね」
「あ、そっか」
その答えで納得してくれたのだろう。エイルはようやく体をどけてくれた。
「でもまあ、近接戦が素人なのは事実です。だからドラゴンさんはその訓練としてもいい機会だからと手合わせさせようとしたんでしょうね」
別れ際の『健闘を祈る』とは、実のところ誰に向けられたものだったのか。それは言うまでもない。
エイルの身のこなしは基本ができているのだ。彼女は境界主を倒すなど、必要なことをこなせば順当に強くなることだろう。
カドとしては積み上げたものの差を感じざるを得ない。
「それならもう一戦、する?」
立ち上がって埃を払っているとエイルが問いかけてきた。
「はい、それはもちろん。ただその前にちょっと失礼します」
そう言うと、カドはきょとんとする彼女のうなじに手を伸ばした。
「ひゃっ!? え、何……!?」
今までの経験も影響しているのだろう。大仰に驚き、飛び退いた彼女は身を抱く。
カドはそんな彼女に対し、手の平を開いて見せた。そこにあるのは一匹のハチの姿である。
「虫……? 取ってくれたんだ……。ごめん、ありがとう」
「はい。それと、あと十二匹ほど死骸をつけてます」
「…………え?」
エイルが多少濁った声で疑問を呈した瞬間、カドの手の平にいたハチは生気を失って転がった。
そして改めて近づいたカドは「ここと、ここと……」という具合に体の各所を指差す。
その指示通りにエイルが服や体を叩くと、落ちるわ落ちるわ。吸血昆虫や毒虫が総計十匹も地面に転がった。
「~~……っ!?」
エイルが声にもならない叫びを上げる最中、カドはそれらを一つ一つ拾い集めていく。
「例えばこいつらに毒を注入させたり、吸血させたり。そこから派生でいろいろできるなって思うんですよね。目で追って、こいつらを付けられただけ良い勝負にはなりました。でも、こういうのが利かない相手でも戦えるように体捌きも学ばないとですね」
うんうんと頷きながら語ったカドは青い顔をしているエイルを見つめた。
「ちなみにあと二匹、服の中にヒルが入っているんですけど」
「なぁっ……!?」
次の瞬間、カドは本気で殴り飛ばされたのだった。




