信頼の牙 Ⅲ
「何を言っているんですかね。僕がこの土壇場でそんなポッと出のものに命を預けるわけがないじゃないですか」
それは平原で倒したイフリートの肉塊なんかではない。
無数の英雄譚で勇者たちが決死の覚悟で挑む竜――その一翼であるエワズの牙だ。
灼熱の猛威を振るう怪物も、石化の猛威を振るう怪物も恐ろしかろうがエワズには及ばない。何故なら、彼はそんな怪物を打倒する英雄たりえた冒険者がひしめく街をたった一人で翻弄し、絶望のような日々から救い出してくれた唯一の存在なのだから。
「死肉なれども汝が培いし経験は消えず」
この詠唱についてはふと引っかかる。
実際のところこれはエワズの歯のメンテナンスがてらに抜いたものであって、本体は元気に大蝦蟇と一戦を交えているわけだが、そういう文言なので仕方ない。
詠唱なんてものは単純に、己を鼓舞する定型句である。
この牙が血肉に繋がっていた時を思い出すよう、渾身の魔力を注ぐ。
魔素からなる幻想種の一部だからこそ、〈死体経典〉という死霊術師の疑似回路を挟んで魔力を注げばそれが血潮と同じになる。
そして、幻想種の身はそれそのものが独自の術式のようなものだ。血潮さえ巡れば本来の能力が発現する。
さあ、〈死体経典〉の魔法陣が広がった。そこに牙から生じた幾何学模様が絡み、混ざりあう。
「我が力を食らいて、その威を再びここに示せ」
詠唱はほぼ完了。ハルアジスもそろそろ違いに気付くことだろう。
イフリートの骸で能力を発現しようものなら、その余波で陽炎でも生じる。けれどもここに生まれるのは、ヂリッと音を上げて弾ける白雷だ。
集う魔力が臨界に達したのを察した冒険者たちは順次射線上から退避し、それを前にしたバジリスクは身構えた。
『〈拒絶の闇〉!』
「〈死体経典〉!」
逃げる間はあっただろう。それでもハルアジスは正面からぶつかることを選んだらしい。
バジリスクの正面に闇の塊が生じるのと、カドが掲げた手から白い雷光が放たれるのはほぼ同時だ。
今までとは違い、闇は全方位ではなく雷光に向かって破壊を撒き散らす。
何にでも作用する斥力なのか、カドが放った雷光とも一瞬競り合った。だが、それだけだ。地面を単に抉り返す斥力と、僅かに散った稲妻すら地面を灼熱させる竜の吐息では勝負にならない。
『カッ――!? グ、グァァァッ!』
闇を引き裂いた雷光はバジリスクの身に激突した。
本来なら一瞬で飲み込み、焼き尽くしただろう。しかしながらバジリスクはその前脚で雷光を受け止めた。
その骨身をじりじりと焼き融かされながらも、呪文対抗しているらしい。
全く、形がない光線を受け止めるなんて俄かには信じがたい。
〈死体経典〉は他人の能力を発現するという複雑さ故に燃費が悪いというのに、これでは湯水のように力を注ぎ続ける必要がある。
だが、ハルアジスとしても相当な魔力消費のはずだ。
呪文対抗に加え、焼き融けるその身の補完も同時並行している。並みの術者であれば数秒ともたないだろう。
「くぅっ……!」
こちらとて魔力どころか身がもたない。通常なら即座に魔術を切ってしまえるところがこの応酬なので回路が焼き切れんばかりだ。
牙に触れている掌は焼け、肉が裂けて血が溢れ始めている。
両者に限界が訪れるのは同時だった。
『ガァッ!』
「……っ!」
バジリスクは頭蓋の半分を焼き融かされるのも構わず、雷光を強引に上方へと捻じ曲げた。けれども執念は続く。倒れ込む勢いのまま、こちらに迫ろうとした。
カドは即座に魔術を切りやめると、同じく間合いを詰める。
『影槍!』
「死者の手!」
先程の攻防で共に力を使い果たしていてもおかしくなかった。それでもなお振り絞った魔力で互いに編むのは初歩の魔術だ。
ここにも技量の差が出たのだろう。魔術の発動はすんでの差でハルアジスの方が早い。
カドの足元から生えた影槍は、その体を一瞬で突き上げる。
――ああ、普通ならそこで勝負が決まっていたところだろう。
だが、忘れてはいけない。これは二度目だ。
「……痛ぅっ。……でも、これじゃ貫けなかったことを忘れましたか?」
『しまっ――!?』
黒山羊やサラマンダーばかりに意識を取られて忘れてはいけない。カドは身体強化の術式代わりとして腹に使い魔を住まわせているのだから。
〈影槍〉の穂先に突き上げられ、皮膚と腹筋が横一文字に裂かれると共にバランスを崩されたがそこまでだ。致命傷ではない。
発動が遅かった分、力を練り込んだ〈死者の手〉がカドの右手を外から覆い、次の瞬間には死に体のバジリスクを叩きつけた。
すでに力を出し尽くしていたその身は何とも脆い。
風化した骨の如く崩れゆく。無理が祟った影響か、末端から灰にまで変じていた。
集中して見やれば骨を取り巻いていた魔力のほとんどが霧散したのがわかる。
バジリスクは半壊した頭部を残して崩れ去ったのだった。




