7 男心女心
その日の夕方。住人たちは居間に集まっていた。スティーブンを除いて。
テーブルの周りに置かれた六脚の椅子には涼葉だけが座り、他は全員彼女とテーブルを囲むように立っている。灰次も珍しく椅子に座っていない。
「ごめんなさい……私ってば、また人に迷惑を……」
そう言ったのは涼葉だ。皆に囲まれながら、うつむいて椅子に座り、両手でレモンをしっかと握り込んで離さないその様子に、芝居がかったものは感じられない。灰次たちにとっては、それが逆に恐ろしかった。
昼間の彼女の行動。レモンひとつで彼女は狐にでも憑かれたように暴れだした。椅子をなぎ倒し、テーブルに体をぶつけてもなおレモンを探し求めた。
極めつけに、レモンを投げ捨てた明日香へ突進し、首を絞めて殺そうとまでした。まさに狂気の沙汰。
それは度の過ぎた悪ふざけでなく、彼女の心のままの行動。涼葉自身それを認めて悔いている。
「いつもこうなの……私、レモン様の事になるとどうしても……。明日香ちゃん、本当にごめんなさい」
涼葉は、他の皆と比べてテーブルから遠い場所で姉に守られるように抱かれている明日香へ深く頭を下げた。
「ん……うん、もう、いいよ……」
そう言いながらも、明日香の顔には恐怖や怯えといった色がまだ残っていた。
「あたしはちょっとまだ許せないな」
妹を抱きしめたまま今日香が鋭く言葉を飛ばした。涼葉は頭を上げて今日香を見やる。
「反省はしてるみたいだけどさ、またいつさっきみたいになるかわかんないじゃない。今日は無事で済んだけど……あたし、とてもじゃないけど一緒になんかいられない!」
今日香の叫びを最後に、場が静まり返った。
涼葉はしばらく今日香の顔を見つめていたが、やがて目を伏せ、誰にというわけでもなく呟き始めた。
「……そうよね、そうだよね。いきなりあんなことされたら誰だって嫌だよね。私もそう思う。わかった、出ていく――。レモン様、行きましょう……」
うつむいたまま、椅子を立って去ろうとする涼葉。その手にはレモンが握られている。
「待って」
涼葉が姉妹の横を通り過ぎようとしたところで、彼女を呼び止める声が上がった。
「え……?」
涼葉が振り向くと、そこには膝を少し曲げた情けない立ち姿の灰次がいた。
「そんな今すぐ出ていくこと……ないんじゃない、かな……って」
「灰次! あんた何言ってんの!?」
間髪入れずに今日香がつっこんだ。
「いや、その……」
たじろぐ灰次。今日香はその隙をついてさらに言葉を突き刺す。
「さっきの涼葉、見たでしょ? あんただって危ない目に遭ったじゃない。なのに――なんで!? そんなにこの人が好きなの!? 自分で自分をコントロールできないヤバい人なんだよ!?」
本人を目の前にして憚ることなく「ヤバい人」とはっきり言い切る今日香の心中、それは決して性格が悪いとか相手を見下しているとかではない。ひとえに、焦りである。
妹を傷つけようとした女。それを灰次はこの家に留めようとしている。
そんなことあってはならない。またいつ妹が襲われるかわからない。
だから今日香は焦っていた。
灰次に涼葉を諦めさせなければ――。
その思いだけだった。
「ん、んん……」
「なによ、言いたいことがあんなら早く言ってよ!」
灰次自身、自分の気持ち、意図が、実はよくわかっていなかった。
なぜ出ていこうとする涼葉を呼び止めたのか。
まさか――、今日香の言うとおり、自分は本当に涼葉のことが……?
そんなわけない。
出会ってまだ一日も経っていない相手だ。しかも彼女は何か、とても恐ろしいものを、その心の中に持っている。そんな相手に対して「一緒に暮らしてほしい」だなんて馬鹿げている――。灰次がそう思うのも当然である。
ならばなぜ、呼び止めた?
灰次の思考は堂々巡りに入ってしまった。
「なによ。黙っちゃって」
すっかり喋るのをやめてしまった灰次を視界から外し、今日香は涼葉を横目でにらんだ。
涼葉はそれを感じ取り、今度こそ家から立ち去ろうと一歩踏み出した。
「おっと、待ちな」
ところがまたしても彼女を呼び止める声。
立ち止まる涼葉。苛立ちを隠さない今日香。
「灰次はもう何も言わんかもしれないが、俺はまだ何も言ってないぜ?」
智はそんなことを言い、シルクハットのつばに手をやっている。
「なんなのよ……男どもはみんな涼葉の味方だっての?」
今日香はその場で前後不覚によろめいた。けれども懸命に足を踏みしめ、腕の中で不安がる明日香を強く抱き続けている。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫、大丈夫よ、明日香……」
妹とわずかな言葉を交わし、今日香は智を見据えた。涼葉は玄関の方を向いたまま、智や今日香に背中を向けている。
「今日香、妹が危険な目に遭って怖いのはわかる。だがな、それはそっちのお嬢さんも同じなのさ」
「どういう意味よ」
「つまりな、お前が明日香を大事に思ってるのと同じように、涼葉もそのレモン――様、だったかな、それをえらい大事にしてるのさ。それがけなされたとあっちゃあ興奮するのも仕方ないだろ? 俺たちの気遣いが足りなかった……そう、さっきの件はこっちも謝らなきゃならんぜ。そうだろ、灰次くんよ」
「えっ――あ、あ……ああ、そうかもね……」
急に話を振られて面食らう灰次。おかげでたいして考えもせず智に賛同してしまった。
「最初に興奮させたのはアンタだったでしょうが……!」
「ハハ、客を沸かせるのはエンターテイナーの務めさ。職業病、かな。それよりも――」
歯軋りまでして怒りを表現する今日香だったが、智には響かない。彼は今日香の指摘を軽く流し、次に涼葉の背中へと言葉を投げかけ始めた。
「お嬢さん、あんたもあんただ。こんなガキの文句なんてそう真に受けなくてもいいんだぜ? ここを出たって行くあて無いんだろう? 無理しなさんな。……さっきはすまなかった。大切なものなんだな、それ」
途中、「ガキ」の辺りで今日香が激しく反応したが、明日香がさりげなくなだめていた。
そして涼葉はというと、皆に背中を向けたままレモンを撫で、やがて静かに話し始めた。
「レモン様は私を救ってくれたの。太陽に侵される私を。今でもレモン様は私を守ってくれているの。――だから私もレモン様をお守りするって決めたの。誰が相手でも、レモン様を侮辱したり傷つけたりしたら許せない。……でもそのせいで私はいつも他の人に迷惑をかけちゃう……傷つけちゃう――!」
まずい。
灰次は直感した。
彼女の声がだんだん激しさを増している。このままではまた……。
しかしその心配はいらなかった。智がすかさず割って入り、熱のこもりかけた涼葉の心を冷やした。
「だったらこれから変えていこう。嫌なんだろ? 他人に迷惑かけちまうのが。なら迷惑かけないように生きていけるように練習しようぜ。俺も客を楽しませるためにマジックの練習は欠かさない。一緒に励もうぜ。ほら、練習相手もここにいっぱいいる。最高の環境じゃないか。出ていくなんてもったいなさすぎるってもんだ」
今度は今日香も最後まで黙って聞いていたようだ。しかしその表情から今の心境は窺えない。心の内で葛藤があるらしい。
「……今度は本当にケガさせちゃうかもしれない」
「それもお互い様さ。――次はスタンガン程度じゃ止められないかもしれないからねぇ」
ニヤリと唇の端を上げる智。あまり関係ないはずの灰次がそれを見てごくりとつばを飲み、戦慄の表情を浮かべた。
「何よ。なによなによ、なんなのよ。だから男って嫌い――!」
黙っていた今日香であったが、突然怒りの声を上げて明日香の腕を引き、足早に二階の自室へと消えていった。
姉妹が階段を上る間、「どうせこっちが悪者よ! 勝手にすればいいわっ!」という、やり場のない怒りと悲しみを無理矢理混ぜ合わせたかのように悲痛な叫び声が、一階の灰次たちの耳に届いていた。
「本当に、いいのかな……」
弱々しく問う涼葉。
「いいのさ」
簡潔に答える智。
「はあ……」
ただただため息をつくばかりの灰次。
人間関係、という、めちゃくちゃに厄介で、そのくせ避けて通るのは極めて難しいそれを、灰次は今改めて感じていた。
――人間である限り、絶対に逃げられない、のか?
その時、外からほんのわずかに猫の鳴き声が聞こえた。
――猫になれれば、面倒なこと全部、消えてなくなるんだろうか……?
夜になり、ひとりになってからも、灰次はそんなような事をぼんやりとひたすら考えていた。
次の日の朝、灰次は台所からの物音で目を覚ました。
料理をしている音だ。フライパンで何かを焼いているパチパチジュージューいう音。
ごく当たり前な生活音ではあるのだが、灰次にとって――いや、この家にとって、その音は珍しいものだった。
今村家の台所は今まで、まるで殺人事件現場のごとく徹底的に現場保存されていて誰もが部屋のものに触ろうとしなかった。大きなガスコンロも炊飯器も、日本家庭にはあまり普及していない食器洗浄機も、全て持ち腐れだった。
そんな時の止まった神殿のような台所で、誰かが料理をしている。とは言ったものの、「誰か」というのは予想するに難くない。
「涼葉……?」
灰次の呟き通り、しばらくすると台所から涼葉が両手に皿を持って現れた。灰次と顔を合わせるなり暖かい笑顔を見せた。
「おはよう。今日はちゃんと起きたんだね。えらいぞ」
「ん、うん――」
その笑顔、声、そして黄色いエプロン。全てが灰次には眩しかった。
「早起きできるえらい子にはソーセージを一本おまけしてあげる。さ、食べて」
テーブルの上、灰次の目の前に置かれた皿にはレタス、トマト、黄色いパプリカ、灰次にはその正体がわからない紫色の植物等々、色とりどりなサラダと、ほどよい焦げ目がついたソーセージが四本載っている。
そこへ涼葉がレモンを絞って仕上げ、続いてご飯と味噌汁を置いた。
「はい、箸」
最後に箸を灰次に手渡し、涼葉はまた台所へと戻っていった。
「……夢じゃないよな」
確かめるようにひとりごちる灰次。
夢、とは、今のことを言ってるのか、昨日のことなのか。あるいは両方なのかもしれない。
灰次の鼻にはソーセージの香ばしい匂いと、レモンの爽やかな香りが流れてきている。
夢ではない。今のこの時は確かに現実なのだ。
「智は食べるのかなあ。一応用意したけど……」
涼葉が戻ってきた。灰次のと同じメニューを持っている。が、ソーセージが三本だけだった。智へのおまけは無いということか。
テーブルに皿を置いてまた台所に戻るかと思いきや、涼葉は椅子に座る灰次へと一歩二歩近寄り、膝を曲げてお互いの顔を近づけた。
「なっ……?」
「灰次くん、私、君にお願いがあるの……」
驚く灰次をよそに、涼葉は彼の耳元でささやいた。
「……この家の庭に、レモン様の祠を建てたいの。いいかしら?」
「ほこら――!?」
あまりにも予想外な要求で、灰次は調子外れに大きい声を出した。
「そう。せっかく土地があるんだもの。レモン様にふさわしい立派な祠を建ててさしあげたいの。ね、いいでしょう?」
「う、おお……つまり、レモン置き場ってこと?」
「ほ・こ・ら。神様を祀る小さな社よ」
「ええ? だからつまりレモン置き場ってことでしょ――?」
「祠だって言ってるでしょ!? レモン様を祀る神聖な場所! 何回言えばわかるの!」
「あああごめんごめんわかったわかった! わかったから! 祠ね、祠。ほこらほこら……!」
「ありがとう灰次。早速今日取りかかるわ!」
「うう……」
速くなった心臓の鼓動を静めながら、灰次ははっきりと理解した。昨日のことも全部夢なんかじゃない、と。
やっと落ち着いてきたところで今度は階段の方から突然ドタドタと荒々しい足音が鳴り響き、灰次の心臓はまた激しく脈を打った。
「聞いたわよ灰次! 涼葉のために祠を作るんですって? あたしたちの部屋には鍵も付けてくれないくせに。えこひいきとかマジありえんくない?」
「ずるい……」
昨日と打って変わり、今日香と明日香は元気を取り戻していた。けれども灰次はそれを見て安心するだけの心の余裕がなかった。
「え、え、いや違う! 別に俺が建てるわけじゃ――」
「やっぱ男ってそうなのよね。思わせぶりな態度に弱いのよ」
「たんじゅんアタマ……」
「違うって! なんで俺がレモンの祠なんか……あ、いや――」
「『なんか』? それがお前の本心か? レモン様をバカにするのか!?」
「いや違う、違う……!」
「灰次! 涼葉の祠が終わったら鍵ね。あとテレビがまた調子悪いから直しといて」
「うるせーな今そんなのどうでもいいだろ!」
「涼葉の話は聞くのにお姉ちゃんやアスカのことはどうでもいいんだ……」
「いやいやいやそうは言ってないでしょ! 俺はスタンガン持ってないんだから……!」
「家屋の改造か? ならば私の研究室もひとつ頼みたい。新たな設備が必要になってなあ」
「お前はいつからいたんだよスティーブン! んなもん勝手にやれや!」
この日から今村家は住人たちの手により、様々な改造が施されることとなった。
「灰次ー、マジックの練習に邪魔だからさ、この天井ぶち抜いてもいいか?」
「いいわけねーだろーが! どんなイリュージョンだよ!」
もうすぐこの家は、「今村家」とは呼べない、別のものへと変化する……。