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6 檸檬風味

 今日も灰次はまどろみの中から起き上がる。変わりない一日の始まりである。

「おはよう。もっと早起きしなきゃダメだよ?」

「んん……そのうちね……」

 優しい注意であっても灰次には従う気はない。

「適当な返事。ほら、ごはんできてるから食べて? 朝ごはんのつもりで作ったのにお昼ごはんになっちゃう」

「んん……ん? えっ!?」

 寝ぼけ眼だった灰次はこの時になってようやく気がついた。目の前に立っている女性が、自分の知らない人物であることに。

 そしてテーブルの上。普段はカップラーメンとかプラスチック容器の弁当ばかりが置かれている不憫なテーブルなのだが、今はそうではない。白い茶碗に盛られた白米、茶色の漆椀にはワカメと豆腐の味噌汁。そして白色の丸い平皿には、ちょうどいい焦げ目のついた玉子焼きと鶏のから揚げが数個ずつ乗っかっている。灰次が数年ぶりに見る光景だ。

「こ、こ、これって――!?」

 ただ食事が並んでいるだけなのに狼狽を隠せない灰次。

「どうしたの、食べないの? 玉子、嫌い?」

 名前もわからぬ女性がから揚げにレモンを絞っている。これも灰次にとって今までにない体験だ。

 この女性はいったい何者なのか――。

 歳は二十代前半に見える。わずかに茶色の混じった長いくせ毛をポニーテールに結っていて、毛量の割にすっきりした印象。化粧っ気のない顔とは対照的に、身にまとったエプロンは寝起きの灰次には眩しすぎるくらい黄色い。

「……早く食べないと冷めるよ?」

 女性に優しく話しかけられるなんていつぶりか、灰次には思い出せない。

 灰次にとって『女性』といえば、あのとげとげしく口うるさい今日香と、口数の少ない明日香ぐらいしかいない。

「んー? もしかして食べさせてほしいのかな? おーよちよち、おっきい赤ちゃんでちゅねー。ママがあーんちてあげまちゅよー」

 テーブルの箸を取り、女性は玉子焼きをひと切れ掴んで灰次の口へと持っていった。

「うわあっ、い、いいよ大丈夫自分で食えるよっ!」

 頭を引いて拒否する灰次。すぐ近くにある彼女の体からはレモンやオレンジのシトラスな香りが漂ってきている。――服の匂い? シャンプー? 香水? 灰次にはわからなかった。

 灰次の頭の中では、『今自分は女性の匂いを間近で嗅いでいる』という事実のみが大きく取り上げられており、その匂いの正体を探るまでの余裕はなかったのだ。

「照れちゃってぇ。……ほーら、早く食べなって」

「ん、うーん……」

 甘酸っぱい香りと共に、彼女は灰次から離れた。

 箸を受け取り、灰次は動揺する心を落ち着けようと努めながらから揚げを掴み、爆弾でも扱うかのようにゆっくりと慎重に己の口へと運んだ。

「……うまい」

 手作りの料理とはこんなにも美味しく、温かく、そして爽やかだっただろうか――? 長らく味わっていなかったその感覚に灰次は感動を通り越して戸惑いすら抱いた。

「おいしい? よかった」

「うまい……うまいよ、これ……嘘みたいだ……!」

 嘘ではない。彼が舌に感じているものはまぎれもない真実。ひと口食べるごとに灰次は思い知らされる。料理、食事というものは人間に大きな影響を及ぼすことができる強力な兵器なのだ、と。

 そして灰次は気づいた。この数年間、自分のしていた食事は最低なものだったのだ、と。

「嬉しいな。おいしそうに食べてくれて」

 彼女が微笑んでいる。灰次はそれを見た。

 思わず息が止まる。手に持った箸の動きも止まる。

 灰次は緊張していた。今まで感じたことのないタイプの緊張だった。

 なぜ、この人は自分なんかに笑いかけてくれるんだろうか――?

 そんなことを考えるうち、灰次の中に恥ずかしさがこみ上げてきた。彼女から目を逸らし、気を紛らわせるために再び目の前の料理に食らいついた。


 料理はあっという間に灰次の口の中へと消え、テーブルの上には何も載っていない皿だけが残っている。

「おいしかった?」

「……おいしかった」

 正直に呟く灰次。

 それを聞いてまた彼女は微笑む。

「ありがと。嬉しいな。家主に料理の腕を認められたってことは、この家に住んでもいいってことよね?」

「ん? あ、ああ……そういうこと、か……」

 灰次はここにきてようやく現在の状況を思い出した。

 今、この家には次々と住人が増えている。彼女もそのひとりだったのだ。おそらく灰次が眠っている間にやってきたのだろう。そして灰次が起き出す頃合を見計らって食事を振る舞った。

「住むのを断られないために……?」

 灰次はそう考えたようだが、実際のところ彼女がなぜ灰次に食事を用意したのかはわからない。単純な親切心によるものかもしれないし、どうしようもない料理好きなのかもしれない。

「急に黙っちゃってどうしたの? 私は涼葉(すずは)、ここに住んでもいいよね? 美味しい料理、毎日食べられるよ?」

「すずは……?」

 うつむいて考え込む灰次に再び顔を寄せる涼葉。また甘酸っぱい香りが灰次の鼻から脳へと侵入する。灰次は身を固くして、その香りを存分に吸い込んだ。

 爽やかなレモンの香りが、灰次の体内に失われた、人間としての色を取り戻させているのかもしれない。

 だから灰次は無意識に、本能的に、涼葉から発せられる匂いを自分の中へ取り込もうとするのかもしれない。

「んん……」

 正体の掴めない妙な感覚を振り払おうと視線を動かす灰次だが、そのせいで彼女の豊満な胸やら艶やかな手指やらが見えてしまって余計に調子が狂わされる。

「ね、いいでしょ? ここに住まわせて?」

 涼葉がささやくと、灰次はかすかに残っていた迷いを取り払い、彼女の顔から目を逸らしたままで答えた。

「……ああ、ここに住んでくれ」

 その瞬間――。

「うっそぉー、灰次ってばちょろすぎー! 童貞臭ハンパないんですけど!」

「シタゴコロ、ってやつだね」

 階段の陰からふたつの声が聞こえたかと思うと、そこから今日香と明日香が現れて灰次のもとへと駆け寄ってきた。その顔はにやにやといたずらっぽい。

「な、なんだよお前ら! いたのかよっ!」

「その慌て方、やっぱり変なこと考えてたんでしょ。あんたの考えなんてすぐわかんのよ」

 今日香に人差し指を突きつけられ、灰次は余計しどろもどろになる。

「へ、変なことってなんだよお!? 俺はただこの人……涼葉、さんが困ってるみたいだったから――!」

「困ってるなんて一言も言ってなかったと思うけどお? それにあんた、あたしたちが来た時はそんな簡単に住んでいいよなんて言わなかったよねー? その違いは何なの?」

「それは……別に……あの……」

『いい匂いがしたから』なんて、灰次には言えるわけがなかった。

 しかし黙っていれば今日香が納得する、なんてこともない。

「なあに? 美人のおねえさん相手なら言うこと聞くの? 差別的じゃない? ねえ明日香?」

「むっつりスケベ……」

「違うっつーの! お前らふたりして適当なこと言うなよ!」

 灰次の反論には耳を貸さず、姉妹は涼葉を彼から遠ざけて注意を促し始めた。

「ねえ涼葉、こいつ危険だよ。あんまり近づかない方がいいわ。何されるかわかんない」

「でも安心して。お姉ちゃんに言えばすぐ助けてくれるから」

「そんな猛獣みたいな言い方すんなよ……」


 三人が思い思いに喋る中、涼葉は慌てることなく静かに笑い声を上げた。

 その穏やかながらも存在感の強い、まるで聖母のような笑みに、この場の全員が釘付けにされた。

「あはは、はは……みんな面白いね。ここに住めば毎日楽しそう。……灰次くん? も、いい人そうだし。レモン様もきっと祝福をくださるはずよ。――そうですよね、レモン様?」

 レモン様――? 全員がその言葉に疑問符を浮かべたが、誰も口にしなかった。訊く前にその言葉の意味が大体わかったからだ。

 涼葉はエプロンのポケットから茶色い巾着袋を取り出してその口を開くと、中には鮮やかな黄色をしたレモンがひとつ入っていた。

 大きさも形も、何も特別な箇所はない。ただのレモンだ。

 涼葉はそれを巾着袋から優しく取り出し、両手で包み込んで愛おしそうに愛撫している。

「レモン様、私にもやっと居場所をくださったのですね……ありがとうございます……ありがとうございます……嬉しい……嬉しい……」

「す、すず、は……?」

「お姉ちゃん、これ、この人……!」

 いつの間にか姉妹が涼葉から遠ざかっていた。ふたりで両手を握り合い、目の前の光景に恐怖している。

 涼葉はひとりでぶつぶつと喋り続けている。胸の前で握ったレモンに向かって。

「これもレモン様のお導き……レモン様が私を守ってくれる……」

「涼葉……さん? 涼葉さーん?」

 灰次の呼びかけにも反応しない。よほどレモン様への想いが強いのだろう。

「お姉ちゃん……こ、怖いよ……」

「だ、大丈夫よ明日香。――灰次! あんたがなんとかしなさいよ! あんたがこの人を住人として認めたんだからね!?」

「ええっ!? う、ううう……」

 灰次は椅子の上で膝を抱えたまま動けなかった。ついさっきまで優しく美しい聖母のように見えた女性が、今ではただのレモンを神のように崇めて話しかける狂人になってしまったのだ。すくんで動けないのも無理はない。

「レモン様……お慕い申し上げております……うふふ……」

「は、灰次いぃ……なんとかしてよおぉ……」

 さすがの今日香も怯えているらしく、明日香と握り合う手がかすかに震えている。


 涼葉のひとりごとだけがぼそぼそとノイズのように流れる居間。

 そんな居心地最悪の部屋へ、ひとりの男がのこのこと入ってきた。

「ただいまー」

 涼葉以外の三人はその声に驚きつつも安心感を覚えた。――この男なら涼葉とも渡り合えるかもしれない。そんな気がしたのだ。

 そんな勝手な期待を背負わされてるとも知らないこの男……智は、のんきに悠々といつもの調子で話し始めた。

「よお三人さん。ぼーっとしてるのかい? そんなんじゃあ俺のマジックのタネは見破れないぜ? っと、俺としたことが、女性の姿に気がつかなかったとは。やあお嬢さん。君もこの家で暮らすのかい?」

 レモン様に語りかけ続けている涼葉に物怖じせず話しかける智。これは肝が据わっているのか、それとも状況が見えていないのか。この場合は後者であろう。

「レモン様、これからの生活、どうなっていくんでしょうね? 私、楽しみです……ふふ……」

 涼葉には智の声が届いていないらしい。

 やめればいいものを、智は声を大きくしてもう一度涼葉に話しかけた。

「お嬢さん? そんなレモンなんかと話してないでこっちを向いておくれよ。その綺麗な顔、俺にも見せて――」

「レモン様を侮辱したな!? 罰当たり! 愚か者! 今に光線で体を焼かれ、破滅するぞ! 今すぐレモン様に謝れ! 許しを請え!」

 彼女の豹変ぶりは凄まじかった。

 聖母の笑みは跡形も無く、代わりにあるのは怒り狂う鬼女の眼光。

 片手にレモンを握ったまま涼葉は智の胸ぐらを掴み、壊れたおもちゃのように叫声を上げ続ける。

「破滅だ、破滅だ、みんな死ぬ、みんな、みんな、みんなみんな、木っ端微塵に焼け死ぬんだ! お前のせいで! 太陽が全てを滅ぼし、地球は死の星と化す! 全部お前のせいで! 謝れ、謝れ謝れ謝れ!」

「智とりあえず謝ってくれ!」

「ええ!? な、何がどうなってんだあ!?」

「いいから早く謝ってよお! 智のバカぁ!」

「お姉ちゃん怖いよおー!」

 全員パニック状態だ。

 智の胸ぐらを掴んで暴れていた涼葉だったが、ふとした拍子にレモンを床に落としてしまった。

「キャアアアアぁ! レモン様あぁ!」

 自分の体からレモン様が離れることは本人にとってかなりの大事件なのか、涼葉はまるで怨霊のような金切り声を上げて、床を転がるレモンを追いかけた。

「うわ、わ、わ――!」

 レモンが運悪く灰次の座る椅子の下に転がり込んでしまった。

 灰次もすっかり場の空気に侵されきっているようで、ただのレモンに対してなぜか情けない悲鳴を上げて怯えている。

「灰次危ない、逃げてー!」

 今日香が叫んだ。しかしその願いは叶わなかった。

「邪魔だ、どけえ!」

「うわああっ!」

 涼葉は灰次が座っていることなどお構いなしに、椅子へ思い切り体当たりをした。

 もちろん椅子は派手に倒れ、上に座っていた灰次も一緒に大きな音を立てて床へ叩きつけられた。

「灰次大丈夫!?」

 倒れたまま動かない灰次へと駆け寄る今日香。表情と声色から、本気で彼のことを心配しているようだ。

 以前に灰次が椅子から落ちた時は笑っていたが、今回はわけが違うこと、さすがに彼女もわかっているということか。

「レモン様、レモン様――! あれ……どこ……どこに行ったの……レモン様、レモン様! ああ、ああ……ダメ……お願い……出てきて、レモン様……! レモン様ーっ!」

 涼葉はレモンを見失って狂乱状態に陥っている。

「あ、これ……」

 明日香の声に今日香が目をやると、なんとレモンが妹の足元に転がっていた。そして妹はそれに手を伸ばしていた。

「ダメ! 拾っちゃダメ!」

 今日香が止めたが、遅かった。

 明日香はレモンを拾い上げてしまった。

 姉の声ですぐにレモンを捨てたが、それが逆に涼葉の逆鱗に触れた。

「お前――汚い手でレモン様を触った上に投げ捨てたなあっ! 許せない……殺してやる――!」

 耳を疑うセリフを吐き、涼葉は明日香へ突進した。

「明日香!」

「ひ……う、あ……!」

 へたり込んで動けない明日香。距離が離れている今日香では間に合わない。灰次はまだうずくまったまま。涼葉は両手を明日香の首めがけて躊躇なく突き出す。

 今日香が悲劇を覚悟して目を閉じた時――。

「うぎゃあっ――!」

 バチバチという耳をつんざく電流音と同時に、涼葉の短い悲鳴。今日香たちにはそれが魔物の断末魔のように聞こえた。

 そして、悪しき魂の抜けた体が床に墜ちるドサリという音。それが最後だった。


 灰次が顔を上げた時、居間にあったのは、倒れた椅子、力なく座り込む今日香、うつ伏せで床に倒れたまま動かない涼葉、それを見つめて震えている今日香、そして、スタンガンを手に立ち尽くしている智の姿だった。

「わっ……!」

 気づくと灰次の手元にレモンが転がっていた。

「れ、レモン、様……?」

 レモンを手に取り、灰次はおそるおそる、そう呟いた。

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